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迫る暗雲3

*****



「なんでしょう、宰相閣下」


 尊大な物言いにさすがに感情を害したのか、ザバイカリエの穏やかな眼差しがかげったような気がした。


 ユートレクトはザバイカリエの変化に全く興味がないようだった。

 獲物を狩る獣のような眼でザバイカリエを睨みつけると、手元に置いていた一枚の書類を突きつけた。


「このふざけた申請はなんだ。いつペトロルチカの襲撃があるともしれないときに、他国からの視察を受け入れるとはどういう料簡だ」

「あっ……!」


 書類を目にして、思わず声を漏らしてしまった。


 それは、同じ中央大陸地域のとある国からの訪問申請だった。

 とある国がどこかなんていうのは、覚えなくていいから名前は出さないけど。


 今年から始めている、『中央大陸縦貫道』建設のための事前調査の方法を教えてもらいたいから、センチュリアを訪問したいという書簡が、私にではなくザバイカリエの産業省に届いていた。


 そのことは既にザバイカリエから聞いていて知っていたのだけど、今は許可するわけにはいかない。

 ペトロルチカがいつ襲撃してくるとも限らないし、しかもその国の官吏は、来月中に訪問したいと言ってきているらしくて。


 来月は超大物のクラウス皇帝がおみえになるうえに、こちらはまだ公表していないけれど、タンザ国王やララメル女王も来ることになっている。

 このうえ要人が増えたら、王国軍の警備能力を越えてしまうのは目に見えていた。


 ユートレクトが持っている申請書類は、産業省の一般官吏の手違いで回ってしまったものだった。

 ザバイカリエにはそのことも聞いていて、見かけたら差し戻すことにしていた。


 だけど、宮廷内の書類は極秘のものでない限り、私が最終の承認をする前に宰相のもとに渡る。


 要するに、今ザバイカリエが責められているのは、私がユートレクトに連絡を怠ったからだった。彼と話したくない、という情けないほど私的な理由で。


「その書類は、一般官吏の手違いであなたのところまで回ってきてしまっただけなのよ。

 ザバイカリエから話は聞いているわ。もちろんその申請は認めないわ」


 女王にあるまじき失態を恥ずかしく思いながらも、いつもとは違うユートレクトの様子がとても不安だった。私が話しかけても、こちらには目を向けずになおもザバイカリエを冷たい視線で射抜いている。


「いえ姫さま、私の管理が行き届いていないために、このような過ちを許してしまったのです。以後このようなことのないよう十分留意致します」


 ザバイカリエも、いつもに増して容赦のないユートレクトに違和感を持っているのか、先ほど見せた不快感を抑えて上席の年少者に頭を下げた。


 だけど、ユートレクトの糾弾は終わってくれなかった。突きつけた書類を勢いよく卓の上に置くと、鈍く重い音がしてみんなが目を見開いた。


「先日ホルバンが襲撃されたばかりだというのに、危機感が足りないのではないか?

 万一、センチュリアを訪れたこの国の官吏たちにもしものことがあれば、卿は一切の責任を取れるのか」


 ザバイカリエに申し訳ない気持ちで一杯だった。

 私が悪いのに、公務に私心を持ち込んじゃいけないのに。

 わかっていたはずだったのに自分を抑えることができなくて、そのために、大切な臣下にとても不快な思いをさせてしまった。遠かった痛みがどんどん頭の中心に近づいていった。


 でも、そんなこと言っている場合じゃない。


 とにかく、これ以上ザバイカリエを責めるのはやめてもらわなくちゃ、と思って声を出そうとするのだけど、こみあげてくるものが邪魔して声が言葉になってくれなかった。それがまた情けなくて、私の声にどんどん枷が増していく。


「このような過失、一つの省の頂点に立つ者に許されると思うな」


 私が自分の愚かさに喉を詰まらせているあいだにも、ユートレクトの糾弾は止んでくれなかった。

 表情を殺して年少の上席者と向き合っているザバイカリエの姿が、痛々しくてたまらなかった。


「それにしても、卿に仲人気質があったとは意外だった。

 だが、他人の心配をする前に、おのれのあり方を振り返ることだ。それに」


 『おのれのあり方』という言葉に、下世話なこと……ザバイカリエがまだ結婚していないことを暗示させるような臭いを感じて胸がきしんだ。


 今まで誰にでも暴言を浴びせてきたけど、私的なことを持ち出したことはなかったのに、どうしてそんなことまで言わなくちゃいけないの?

 傷つけるなら私を傷つけて。私が悪いのはもうわかっているでしょう?

 お願いだから他の人にひどいこと言わないで……


「アンウォーゼル捜査官とそこまで親しくなるとは、卿は『世界機構』に席でも求めるつもりか。

 アンウォーゼル捜査官は『世界機構』での地位も高い。いい人脈となるだろうな」

「いい加減にして!」


 考えるより先に声が出て、両手で卓を叩きつけていた。

 部屋の空気が大きく震えたのがわかった。


 これ以上ザバイカリエを辱めることを口にしてほしくなかった。

 それだけじゃない、他人を辱めることを言う彼を見たくなかった。

 全部私が悪いのだから、私に悪意を向けてほしかった。


 誰もまともに見ることができなくて、私は視線を半分あらぬ方にそらせながら言った。


「ザバイカリエ、今回の訪問は延期してもらうように伝えておいてちょうだい、ペトロルチカの件は伏せてね。

 それから……ごめんなさい」


 それだけ言うのが精一杯だった。


「……かしこまりました」


 ザバイカリエの声が、思っていたよりしっかりしていたのが救いだった。


「皆さま、私の不手際のために、貴重な御前会議の時間を浪費致しましたこと、お詫び申しあげます」


 その声にいつもの穏やかさが大分戻っているのに助けられて、私は女王権限を発動してユートレクトの口を封じることにした。


「次の議事に移ります」


 この声が女王としての声なんだろう……そう思うような、誰の手も届かない、高くて冷たい場所にあるような声だった。心の四方に、氷の厚い壁が降りた音が聞こえたような気がした。



******



 それから、議事だけは滞りなく進んだけど、みんなの声や表情は硬いままだった。

 予定より大分早めに会議は終ったのに、誰も雑談をすることなく席を立った。


 ザバイカリエはベイリアルと二人で最初に出て行った。

 トゥリンクス将軍がユートレクトに、一瞬だけれど怒りをこめた視線を投げつけたのがわかった。

 それを見てしまったとき、自分が怒られるよりも悲しくなった。


 きっと顔に出てしまったのだろう。カルガートが私を心配そうに見てくれた。

 けれど、私のとなりに座る人に遠慮したのか、申し訳なさそうに一礼すると静かに部屋の扉を閉めた。


 こんなにひどい雰囲気の御前会議は始めてだった。

 大声をあげて泣きたかった。

 そんなこと、許されないのはわかっていても。


 泣く前にしなくちゃいけないことがあるのもわかっていた。


 心の中では泣き叫びながら、喉に絡みつく恐怖をなぎ払うと、私は資料をまとめて部屋を出て行こうとする臣下を呼び止めた。


「なんだ」


 いつもと同じすぎる冷静な声に、これほど悲しくなったことはなかった。


 今日の御前会議が最悪なものになった原因……彼にあんなひどいことを言わせたのは私のせいだけど、みんなの主君として言っておかなくてはいけないことがあった。


「……どうしてあんなこと言ったの」

「あんなこととは?」


 誰も寄せつけない凍りついた表情に声に、心が悲鳴を上げた。


「あの書類のことをあなたに言っておかなかったのは、私が悪かったわ。ごめんなさい、反省しています」


 一時の弱い心……女王にあってはならない私事のせいで、取り返しのつかないことをしてしまった。泣きたいと思ったけど、私に泣く権利なんてなかった。


「でもね、あんな……あそこまで人を貶めるようなこと言わなくちゃいけなかったの?

 言うならザバイカリエじゃなくて、私に言ってほしかった。あんなの、らしくないよ。

 もうあんなこと他の人に言わないで。私になら、いくらでも言ってくれて構わないから」


 今度は私が責められる番のはずだった。


 なのに、冷たい眼差しには怒りではなく、彼自身にさえ無関心でいるような色がたたえられていた。


「気に入らないのなら、俺を罷免すればいい」


 声も冷たく乾ききっていて、彼が何を考えているのかまるでわからなかった。


「そんなこと言ってるんじゃないでしょ!」


 公私混同するから情けなく落ち込むことになるのだ、と怒鳴られた方がよっぽどよかった。


 私が心配しているのは……


「あなたがあんなこと言って、悪者みたいに思われるの、いやなのよ……」


 私の思いが伝わっていないことが悲しくて悔しかった。


 あんなひどいことを言ったら、悪く思われるかもしれないことくらいわかっているはずなのに、どうしてわざわざ憎まれるようなことをするの?


 何があっても信じること……彼からもらった言葉は忘れていなかった。


 今回の暴言も、ホルバンのお見舞いのときと同じく、考えがあってのことかもしれない……そう考えもした、思い込もうともした。


 だけど、あそこまでひどいことを言わなくちゃいけないほどの理由があるとは思えなかった。

 それに、みんなの不快そうだったり不安そうな顔を目の当たりにしたら、思い込みだけでは心を支えきれなくなった。


 自分が大切にしている人たちが、好きな人を嫌悪の目で見ているかと思うと、心が引き裂かれそうだった。


 そんなことを招いたのも、全部私のせいで……


 頭が不快な痛みと音をたてて回り出していた。震える身体を両手で抱きしめた。

 沈黙に追い詰められた心の悲鳴が、理性の手に負えない領域に入っていこうとしていたときだった。


「……そうか、よくわかった」


 ただ氷のように冷たかった声に、私への負の感情がこめられたのがわかった。

 静かだけれど強烈な嫌悪に、全身が焼かれたように熱く痛くなった。


 何がわかったっていうの?

 そんな冷たい声で、顔で、あなたは私の何をわかってくれたの?

 私にはあなたが、どこにいるのかすらわからなくなりそうなのに……


「俺はもう何も信じない、何も求めない」

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