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迫る暗雲1



「ララメル女王から連絡はあったか」

「ううん、何も」


 となりで執務する臣下からタンザ国王からの書簡を返してもらうと、私はまた経済カルテに目を戻した。今日もこの時間まで経済カルテに目を通す暇がないほど、執務がたてこんでいた。


「二月第一週といえば来週ではないか。皇帝陛下もおみえになるというのに、どいつもこいつも余計な仕事を」


 ユートレクトはあいつの部屋なぞ馬小屋で十分だ、と吐き捨てるように言うと、席を立って執務室を出て行った。


 タンザ国王はともかく、ララメル女王までセンチュリアに向かっているなんて。

 連絡はまだもらっていないんだけど、ララメル女王、大丈夫かしら。

 どこかで事件とかに巻き込まれてなければいいけど、ララメル女王なら、何があっても乗り越えられそうな気もする。


 思いもよらないことに私も驚いたけど、こちらに向かっていて、今どこにいるかもわからない人を止めることもできない。二月第一週は警備を特に厳重にするよう、トゥリンクスに伝えておかなくちゃね。


 はあ……先週の誰かじゃないけど、世話になる礼とやらに期待しなくちゃ、やってられないわ。タンザ国王には、ララメル女王の分まで払ってもらおうかしら。


 週明け早々、クラウス皇帝の行幸が正式に決まると、センチュリア宮廷は上へ下への大騒ぎになった。

 ローフェンディアの皇帝陛下がセンチュリアにおみえになるのは、数百年ぶりのことだった。重臣たちから一般の官吏や侍女にいたるまで、興奮と緊張に胸を躍らせている。その点については、少し後悔していることがあった。


 侍女の一人に、皇帝陛下はどのようなお方なのですか、と聞かれて、


『きさくでとてもお優しい方よ、男前だし』


 と、わざわざ侍女たちの心を浮き立たせるようなことを言ってしまったから。


 経済カルテを読み終えると、数字に疲れた目を窓の外に向けた。


 今週に入って寒さが一層厳しくなっていた。夕刻にしては薄暗い外では、砂のような粉雪が風の軌跡を描いて吹きすさんでいる。


 先週の金色の雪は、私の中で心を閉じこめる檻になっていた。




 彼の胸の中にいたのは、ほんの少しの間だった。


 余韻も感じさせないほど普通に手が離れると、それ以上私に触れることなく灯りをつけ、言葉もないまま帰ってしまった。私も何も声をかけることができなかった。


 本当はずっと一緒にいたい、と言ってはいけなくて。


 だけど、ごめんなさいと言ったところでなんの解決にも慰めにもならないなら、彼が返答に困ることは口にできなかった。それ以外の言葉は思い浮かべられなかった。


 忘れてなかったのに。何があっても信じること。苦しめたくなかったのに、傷つけたくも……


 どうしてこんなことになったんだろう、と震える心で考えて、すべて私が悪いのだと思い至った。


 私が金色の雪に浮かれて灯りを消そうとしなければ、あんな雰囲気にはならなかった。

 彼だってあんなことしなかったに違いなかった。あれでは私が彼を誘ったようなものだった。


 感情にまかせてしがみついたのだってそう。

 あんなことしなければ、決定的な選択を迫られることだって言われはしなかった、きっと……


 全部自分から撒いたことだったのに、私は彼に応えられなかった。そのことが黒い魔物のように凝り固まって、私の心を脅かした。


 応接間を出て行くときの顔が忘れられなかった。

 優柔不断な私にとてもいらだっているように見えて、それが久しく眠っていた彼への恐怖心を目覚めさせた。


 あのとき……彼と出会ってから病床につくまでのあいだ、彼の言動に苦しめられたあの頃に時間が戻ったかのようだった。




 翌日から、彼に目を合わせることが難しくなった。


 話しかけられたら言葉を返すことはできるけど、必要なこと以外は話さなくなった。二人きりで執務室にいるのが苦痛だった。


 彼も私の様子がおかしいことに気づいているはずだけど、私に指摘することはなく、いつもどおりに接してくる。それがせめてもの救いだった。

 もし、何か言われたり怒られたりしたら、自分がどうなってしまうかわからなかった。


 どうしても頭痛が我慢できなくなったり気分が悪いときのために、と侍医から特別に処方されている薬を、あれから毎日飲んでいた。よくないとわかっていても、そうでもしなければ執務がこなせそうになかった。


 そんな状態だけど、今週末には二人で隠密に東19番街に行くことにもなっている。

 私的なことを持ち込んではいけないことはわかっていても、二人きりになることを思うと、気が重くて仕方がなかった。




「陛下」


 近い未来のことに心を重くしていると、私の心を怯えさせるものではない声がした。のろのろと声の方へ顔を向けると、


「アンウォーゼル捜査官、お疲れさまです。もうお帰りですか?」

「いえ、今日はまだ調査したいことがありましてね、これから腹ごしらえでもしてこようと思いまして」


 アンウォーゼル捜査官の琥珀色の瞳が優しく揺れた。


「よかったらご一緒にいかがかと」


 私は少し考えてから頷くと席を立った。


「はい……ピアスカ司法官はまだ執務室に?」

「キアラはもう帰りました」

「そうですか……」


 キアラさんも残っていたら一緒に食事ができたのに、と思うと、とても残念だった。


 私は一旦書類を片付けると、引き出しに鍵をかけて外に出た。




 私の悩みは、ユートレクトのことばかりではなかった。


 あの日……金色の雪が降ってから、アンウォーゼル捜査官が警備の一環として、ことさら私に近づいては行動を共にしようとしていた。



**



 アンウォーゼル捜査官の急な接近に、緊張しないではいられなかった。


 もしも、アンウォーゼル捜査官が本当に『世界機構』の武闘派たちの仲間なら、警備にかこつけて、私を危険な目に遭わせる可能性も十分ある。考えたくないことだけど。


 それも不安なのだけど、気になることは他にもあって。


 アンウォーゼル捜査官の私への言動が、行き過ぎたものになっていること……それが今の私の悩みの一つだった。




 金色の雪が降った翌日から、アンウォーゼル捜査官は何かにつけて私につきまとうようになった。


 例えば、オーリカルク採掘現場の責任者たちとの会合で外に出るときに同行したり。

 外出の時だけならまだしも、王宮の中での会議や昼食にもついてこられるようになって、息苦しくてたまらない。

 お手洗いに立った時にまでついてきたときには、さすがに声を荒げてやめてくれるようにお願いした。


 夕食どきまで執務をしていると、今のように食事にも誘ってきた。

 警備してくれているのだし、単にいやだからという理由で断るわけにはいかないから、おとなしく受けてはいるけど……


 特に夕食のときは、定時から外れているということもあって、アンウォーゼル捜査官の言動が大胆なものになっていた。それがなにより困ることで、この一週間私を悩ませ続けていた。


 私が自意識過剰なだけなのかとも思うけど、アンウォーゼル捜査官の私を見る目には、社交辞令や女好きだけでは済まされない何かがあるような気がして、とても居心地が悪かった。


「昨日、ホルバン卿の見舞いに行ってきました」


 二人で食堂へ向かっていると、アンウォーゼル捜査官が小声で話しかけてきた。


「それはありがとうございます」

「陛下を宜しくお願いする、と頭を下げられましてね、恐縮しましたよ」


 アンウォーゼル捜査官はなぜか照れたように笑うと、必要以上に身を寄せてきた。頭がアンウォーゼル捜査官の胸元にくっつきそうになって、慌てて適度な距離を取った。

 ここ最近、ずっとこの調子で私に密着してくるので、真剣に困っている。


「……そうですか、今後ともどうぞ宜しくお願い致します」


 呼吸を整えてから声を出すと、私の声が堅くなっているのがわかったのか、アンウォーゼル捜査官はこのところ見せるようになった優しげな瞳で私を見つめ、


「もちろんですよ、陛下は私にとって大切な方ですから。誰の手にも触れさせやしません」


 うやうやしく私の手を取り、手の甲に紳士的な接吻を落とした。


 もしかしたら、もともとこんな人なのかもしれない。女性に対しては誰にでもこういう風に接しているのかもしれない。


 だけど、私はこんな接し方に慣れていないし、私との縁談をなかったことにしてほしいと言っていた人にこんな態度を取られたら、アンウォーゼル捜査官が何を考えているのかわからなくなる。

 あくまで社交辞令だと考えたいのだけど、それが日に何回も重なれば度が過ぎると思う。


 おまけに、私とアンウォーゼル捜査官の『結婚話』はいまだに根強く残っていて、今もすれ違う官吏たちの嬉しそうな視線がいやというほど私たちに向けられた。


 こんなやりとりが繰り返されてもう一週間、そろそろ私の堪忍袋の限界が近づいていた。


 私は礼を失さない範囲で冷たく手を離すと、女王としての威厳を示すような声で言い渡すことにした。


「アンウォーゼル捜査官、お心遣いは嬉しいのですが、前から申し上げているように、こういったことを度々されては困ります。周囲の眼もありますし」

「こういったこととは?」


 アンウォーゼル捜査官は私のつれない素振りに傷ついた様子もなく、むしろ私の純情さを温かく見守っているというような笑顔を向けた。その優しげなまなざしと笑顔が、私の心を無性に逆なでする。


「あまり近づかれたりですとか、むやみにその……接吻をされたりですとか、そういうことです」

「何をお気になさることがあるのです」


 私が言いづらそうに言葉を返すと、アンウォーゼル捜査官は『理解ある年長者』の笑顔を深めた。


「陛下はこの国の女王なのですよ? 遠慮されることなどないではありませんか」

「遠慮とかそういう問題ではありません」


 私をなだめるような口調にいらだちが増していく。

 いやだからやめてほしいのよ! と言えないのが腹立たしかった。悟られないようにきつく両手を握り締めた。


 アンウォーゼル捜査官は堅くなっている私の表情を和らげようとしているのか、また優しげに微笑むと私の耳元に顔を寄せて囁いた。


「堂々となさっていればよいのです。それに、私たちは縁談を交わしている間柄、このくらい親しくしていても当然のこと……違いますか?」


 他の女性にとっては心地よい声でも、今の私には耳障りな声でしかなかった。


 思わず顔を背けた視線の先に、見たくない人の姿があった。

 冷たい視線とまともにぶつかって、動けなくなった。

 アンウォーゼル捜査官とのやりとりを彼に見られたのは、これが初めてだった。


 こんなところを見られたと思うと、誤解されたらどうしようという不安で、心がわななき始めた。


 それと同時に、頭が急激に熱くなって、自分にこんないやな思いをさせるアンウォーゼル捜査官への怒りが抑えきれなくなった。


 『世界機構』との関係が悪化しないかと、ずっと心配で言えなかった。

 でも、言わなくちゃわからない人には言うしかない。


 どう思われたって構わない、『世界機構』なんて大きらい!


「では堂々と申しあげましょう」


 叫び出しそうになるのを必死に抑えながら、声を絞り出した。


「不必要に私に近づくのはおやめください。度の過ぎる行為も……はっきり申し上げて迷惑です」


 言葉を選びながらやっとの思いでそれだけ言うと、アンウォーゼル捜査官の返事も待たずに駆け出した。


 誰も私を追ってはこなかった。

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