金色の雪3
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「……そういえば、先ほどようやく頼んでいたハンガーが届いたのだけど」
かつかつとハイヒールのかかとを勇ましく鳴らしながら、キアラさんはのたまった。
その声は、相変わらずきんきん頭に響くやかましさを誇っていたけど、午前中より少しだけ……ほんの少しかもしれないけど、柔かくなっているようにも感じた。
「あなたのところの侍女は、ため息で湖が一つできそうなくらい教育がなっていないわね。
私のいる間、私付きの侍女として一人借り受けることになったから、その娘には私がしっかりと本場ローフェンディアの侍女教育を施してあげるわ」
「ピアスカ司法官、その侍女とは誰でしょう」
いけにえとなった侍女に、心の中で合掌してから問うた。
キアラさんはその侍女のことを思うと、つくづく先が思いやられるというような声音で、
「確かリーリアとか言っていたわね。そこの置物に入れそうなくらいの、米粒みたいに小さなひよっこ娘だったわ」
そこの、と言いながら、太ももくらいまでの高さがあるうさぎの置物をあごで指し示した。
ああリーリアか……かわいそうに。
私は米粒ほどではないにしても、確かに小柄でかわいらしい侍女の今後に同情した。
リーリアは侍女の中では一番の新米で、この春から王宮に仕え始めたばかりだった。経験の浅い彼女にキアラさんのお世話はさぞかし辛いだろうと思う。
どうしてリーリアがいけにえに選ばれたのかしら。キアラさんだって、まだあまり手際のよくないリーリアより、手慣れた侍女の方が扱いやすいと思うんだけど。
侍女の役割分担は全部マーヤに任せてあるから、マーヤの判断とリーリアの根性を信じるしかない。
「そうですか、どうぞ宜しくお願い致します」
頑張ってねリーリア……
今頃キアラさんの部屋で一人奮闘しているはずの侍女に声援を送って、キアラさんの背中に頭を下げた。
キアラさんは、私の卑屈……じゃなくて殊勝さに機嫌をよくしたのか、
「なんなら、私がここの侍女……あの丸々太った七面鳥みたいな侍女長もすべて、一から教育しなおしてやってもいいのよ」
「お心遣いだけありがたく頂戴します……」
とても怖いことを申し出てくれたけど、マーヤや侍女たちの精神衛生上、遠慮しておきたいと思う。
キアラさんは、考えておけばいいわ、と恐ろしいことを言うと、侍女のことよりもっと重要なことを思い出したみたいだった。
「ところで兄上、あの話は受けてくれるのでしょうね」
あの話……ユートレクトを『世界機構』の(前略)代表理事にという話は、忘れたくても忘れられなかった。
「こんないい話、本当に二度とないわよ。
あれはもちろん抹消されるし、お給金もいいし、私ともずっと一緒にいられるし」
キアラさんの元気すぎるコオロギのようにやかましい声が、しんとしている廊下にこだまする…さっきからずうっとなんだけど。
あれ、というのはもちろん通達のことよ。
「俺を救えるのは、こいつだけではなかったのか」
さっきから一言もしゃべっていなかったユートレクトが、冗談に皮肉を少し混ぜたような声で放った台詞は、どうやらキアラさんをとてつもなく驚かせたようだった。
キアラさんは足を止めてこちらを振り返ると、また『夜の癒し』が入った箱の向こうから、信じられないほど怪奇なものを見るような眼で私を見下ろした。
「あ、あなた」
そして、あえぐような声を私に向けたと思ったら、
「兄上になんてことを話しているの!? 信じられない、なんて愚か、なんて浅はかなのかしら!」
絶叫に近い大音量でわめき散らしたので、私は悪いと思う間もなく両手で耳を塞いでしまった。
私がユートレクトにあのことを話したのって、そんなに悪いことなのかしら。そうは思わないけど。
だって、わからないことは誰かに聞かなくちゃ、永遠にわからないままじゃない。
キアラさんはユートレクトに迫ると、『夜の癒し』が入った箱をわが身であるかのようにユートレクトにすりすりと押しつけながら、
「ねえ兄上、こんな脳マカロニなど放っておいて、私と一緒に来てちょうだい、お願いよ!
そして、タナールブータ王国の荒野に、二人の愛の巣を築きましょう!」
タナールブータ王国というのは、『世界機構』の本部があるところだけど。
脳マカロニってなんなのよ。
私の頭がすっからかんだって言いたいにしても、もっと他に表現のしようがあるんじゃないかしら。
「あそこは性に合わんと言っている」
ユートレクトはうんざりした顔で『夜の癒し』が入った箱をキアラさんから軽々と奪うと、それを持ったまま私たちを置いて先に行ってしまった。
私は思い切って聞いてみることにした。
もしかしたら、またどなられるかもしれない、それ以上に傷つく言葉をかけられるかも、と思うと心がすくみそうだったけど、このままじゃ本当に何もわからないまま、何もできないまま、ユートレクトが『世界機構』に連行されてしまう。それだけはいやだった。
「ピアスカ司法官、どうか私にしかできないことというのを教えてください。私もユートレクトも、本当にわからないのです」
するとキアラさんは、なんといったらいいのか、うまく言い表せない笑みで私の顔をさっとひと撫ですると、すぐに背を向けて、
「誰が教えるものですか、あなたみたいなのっぺら胸に」
そこにはいろいろな感情が折り重ねられているように感じた。
寂しさや諦め、悲しみとやるせなさ、そして私に対する思い……今までみたいに無視されてないように聞こえたのは、私の思い上がりかもしれないけど。
その声に、今はこれ以上キアラさんに取りすがってはいけないような気がして唇を閉じると、キアラさんの凛とした後姿を追いかけた。
******
食事はえせエリートお二人のご要望どおり、すぐに食べられてお腹にたまるものにしてもらった。
(だって、逆らうとえんえんとうるさそうなんだもの、二人とも)
美味しかったけど、体重が心配だわ。
キアラさん、夕食は済ませてたみたいなのに、よくあれだけの量が入ったわね、焼肉どんぶりとわかめスープ。
空腹が満たされたせいか、私も含めてみんなおとなしく食後のお茶をいただいてたのだけど、
「上が騒がしいな」
ユートレクトが天井を見上げて怪訝そうな顔をした。
確かに耳を澄ませると、この部屋の真上ではないんだけど、上の階から人の声とばたばたばたという足音が聞こえてきた。
そういえば、この応接間の斜め上は確か……
「キアラ、ここはおまえの部屋の斜め下だ。届いたものを片付けているにしては騒々しさが過ぎないか」
満腹で機嫌がよかったキアラさんは、兄上さまの指摘に優雅にカップを口に運ぼうとした手を止めると、眉をひそめて聞き耳をたてた。
慌しくなる一方の足音に、キアラさんもただならぬものを感じたのか、
「まさかあの侍女、早速何かやらかしたのかしら」
そして、一息にお茶を飲み干すと、すっくとソファから立ち上がって、『夜の癒し』の入った箱を力強く抱え持った。
「仕方ないわね、主として、何があったか確かめに行かなくてはならないわ。
ごめんなさい兄上、今日はこれでおいとましなくては。ごきげんよう、また明日会いましょう」
「ああ」
「もし何かありましたら、いつでもお声をかけてくださいね」
キアラさんは私の殊勝な申し出に、ちらっと私を見ると、
「まあいやだわ、あなたのような脳胃袋に、この私の手助けができるとは思っていないけれど。それでは兄上、ごきげんよう」
まるで女王さまのように偉そ……じゃない、威厳を漂わせながらおっしゃって、私が開けてあげた扉から出ていかれた。
ふう……キアラさんとの食事、なんとか無事に終わってよかったわ。明日からまたフレンドリー路線でいかなくちゃ。
キアラさんの私への態度を見たら、どうにか頑張れそうな気がして、心の中でほっと息をついた。
階上の騒々しさも気になるけど、いまだにしんしんと降り続けてる雪も気になって、私はお茶を飲み終えると窓際に行って、
「わあ……!」
息を飲んだ。
まぶしさに、一瞬目がくらんだ。
降りしきる雪が金色に輝いていた。
まばゆい黄金の光を放つ雪の結晶は、夜の闇の中、星のようにきらめきながら下界に舞い降りてくる。
地面に落ちると雪は金色の輝きをなくしたけど、天から次々に降りてくる新たな雪の光を受けて、かすかに白金色を帯びているようにも見えた。
「照明の加減だろう、あの灯りのせいではないか?」
となりに来たユートレクトが窓の外を指した。
金色の雪のしかけは簡単だった。
先日、壊れたものに替えて新しくした外の照明の色と強さが、雪に神聖なきらめきを与えたらしかった。
「そっか、あの照明選んでくれた人に感謝しなくちゃ」
私は心からそう言って、ふと思いついた。あんまりきらきらしてまぶしいものだから、
「もしかしたら、ここの灯り消しても部屋明るいかも!」
部屋の灯りを消してみることにして、うきうきしながら灯りの方に向かおうとすると、
「おまえが消すのはいいが、もし部屋が暗くなったらここまで戻ってこられるか」
冷静な臣下にごもっともな忠告を受けた。
「……多分無理です」
「待っていろ」
ありがたいお言葉におとなしく従うことにして、金色の雪を見ながら灯りが落ちるのを待つことにした。
灯りはすぐに落ちた。
私の期待はあっさり裏切られた。
外の雪は部屋のなかまでを照らすほど明るくはなくて、応接間は外よりも黒い闇に覆われた。
賢明な宰相閣下が心配してくださったとおり、こんなに暗かったら、私なら絶対何かにけつまづくこと間違いなかった。
だけど奴は夜目が利くのか、灯りがついているときと同じ速さで戻ってきた。
「ありがとう。外はあんなに明るいのになあ、なんでかしら」
「外には照明がついているだろうが。何もついていないここより明るいに決まっている。普通に考えれば当たり前のことだ」
私の疑問に冷静すぎる口調と論理で答えてくれた。
そう言うわりには、灯り消したりして私に付き合ってくれてるじゃない……とはなぜか言えなくて、私は別のことを口にした。
「でも、中を暗くしたから、余計明るく見えるね。きれい」
「ああ」
そういえばこの雪、かなり積もってきたわね。この人、帰り道大丈夫かしら。
のん気にお茶して外の景色見たりしてるけど、そろそろ帰った方が身のためなんじゃないかしら。
さすがにまじめに心配になって訊こうとすると、
「おい」
「ん?」
先に声をかけられたので、きらきらと神秘的に降り続く雪を見ながら答えたのだけど、その後が継がれる気配がまるでなかった。
なによ、何も言うことがないなら、どうして呼んだのかしら。
「なあに?」
そう思いながら見上げた先の顔色は、確かめる間もなかった。
気がつけば、かすめるように唇が触れ合って……離れていた。
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信じられなかった。
私が思いを定めるまで、こんなこともう起きないと思ってた。
だからこそなのかもしれない。
突然のことに、温かくて甘やかな思いが湧きあがってくるのを抑えることができなかった。
「何もしないと思ったか」
「……うん」
私の動揺を見抜いているような言葉に、頷くことしかできなかった。
「私、まだ決められてないから、だから」
「機会がなかっただけだ」
そんなことないじゃない、と心が責めるようにつぶやいた。
キアラさんの歓迎会の帰り道、王宮まで送ってもらって、最後は二人っきりになったじゃない。
あのときはどうして……と考えた自分がいやだった。
あのとき自分がどれほど期待してたかを、今頃になって思い知らされたような気がした。
「いやなのか」
いやなわけがなかった。
いやだったら、あの夜あんな風にはならなかった。
今だって、低く熱を宿して忍んできた声に魅入られている。
期待していたことが起こらなかった夜、自分だけが心をときめかせたことが、とても恥ずかしくてみっともなく思えた。
だから、私が結論を出すまでは、もう何も起きないんだと必死に言い聞かせて、あの夜の出来事に高鳴る胸をなだめすかしてきた。なのに、今になってこんなことされたら….
私が答えられないで身をこわばらせていると、ユートレクトはもう一度、今度は確かに唇を重ねた。
緩やかに優しく深くなっていく口づけに、心が、身体がほどけていく。
「待つつもりはない」
ゆっくり離れた唇から紡がれた言葉は、私のかたくなな思いこみに楔を打ちこんだ。
だけど、急には心を入れ替えることができなくて、
「でも、私、まだ決められてないし」
「おまえが俺をどう遇しようと、それは関係ない」
「だけど」
私は彼に言われてすぐ、自分を翻すのが恥ずかしかっただけだった。
思いを定められていない今でも、この人となら結ばれたい……後悔しないこともわかっていた。
私なんかを望んでくれていることも、あの夜はっきり刻み付けられたから知っていた。
それでも、かたくなな思いと初めてのことへの恐怖と恥じらいは消せなくて、まだ彼の言葉を肯定できないでいると、
「意外と冷静なんだな」
熱よりも冷たさを感じる声に、私の心まで凍りついた。
冷静という言葉に皮肉を感じたのは、自分の思いこみを消せないことを後ろめたく思っているからだった。
けれど、次の言葉は私の怯える心を立ち止まらせた。
「おまえごときを落とせないとは、情けない限りだ」
自分をあざけるように苦笑しながら言うと、穏やかに見える顔で窓の外に目をやった。
……そんなことない。
私はもう、すっかりとらわれてる。何も考えなくていいなら、今だってこのまま……
情けないなんて、冗談でも言わないでほしかった。
こんなに優しいのに、こんなに強いのに。
先に進めないのは私が悪いからなのに、まるで自分のせいみたいに言わないで、私なんかにそんな優しさ見せないで。
金色の雪のかすかな灯りに照らされた顔を、寂しさと苦悩がかすめたように思えて、とうとう心が悲鳴をあげた。
私は初めて自分から彼に手を伸ばした。今思っていることをわかってほしくて。
震える両腕を広い背中に回してぎゅっと力をこめたとき、彼の身体が大きく震えた。
私からの初めての行為に答えてくれるかのように、彼の腕の力も強くなった。
きつく抱きしめられて零れ落ちそうになる感覚に、胸が切なく苦しく揺さぶられた。
恥ずかしさに全身をほてらせながら、背中を握り締める私の耳元を小さな声が雷のような力で貫いた。
「……いってみるか、いけるところまで」
私には大胆すぎる言葉だった。
抑えているつもりでも、いつもより少しだけ揺らいだ声には、私にでもわかるほどの激しい感情が浮かんでいた。
言葉の意味は恥ずかしいくらいにわかった。
この言葉に答えることが、どういうことなのかも。
応えてしまったら引き返すことはできない、今度だけは拒むことも。
男女の心の動きが違うことは知っている。
私は今のままでも十分幸せを感じられる。
けれど、男の人はそうじゃない。
男性が望むのは最後までたどり着くこと……知識だけは『夜の帝王学』で叩き込まれていたから、そういうことは知っていた。
だから、頷いて……なのに怖くなって拒んでしまったら、どれほど悲しい思いをさせてしまうだろう。
そうでなくても、私はあの夜一度拒んでいる。
それに、今は拒まないと決心していても、私にとっては始めてのこと、突然どんな恐怖に襲われるかもわからない。そうしたら、優しさに甘えてまた拒んでしまうかもしれない。
思い惑う私に、何を感じたのかわからないけど、ユートレクトは私の顔を覗きこむと、
「やめておこう、まだ週明けだということを忘れていた」
いつもの冷静すぎる口調に、冗談の色を溶かして笑った。
だけど、表情にはいつもの冷静さはまるでなくて、匂い立つような異性がにじみ出ていた。
「でも」
「やめておけ、明日休むことになるぞ」
言っていることの意味がわからないほど、私は子供ではなかった。
今の言葉が本心でないとしても、そう言われたら私の立場では、辛くなるのがわかっていることをするわけにはいかなかった。
立場がいとわしいと、何度思って何度悔やんできただろう。
彼のことも決められない、自分の少女じみた臆病さも消せない、今の私は優柔不断の塊だった。
腕の力が緩められたので、私もしがみついていた温かな身体から離れた。
雪はいつの間にか小降りになっていて、金色の輝きも薄れていた。
まるで天に夢の時間の終わりを告げられているような気がした。
ユートレクトも、闇の色が勝ってきた空を見て同じことを考えたのか、帰る、とつぶやいて、灯りをつけに行こうとした。
とっさにその腕をつかんでしまった。
寂しそうな後姿を見送るのに耐えられなかった。
いけないことだとわかっていたのに。
「わ、私……」
本当はずっと一緒にいたい。
だけど、それを口にはできなかった。
これ以上、ふらついた思いで彼を縛りつけてはいけない。
歯がゆさと苦しさに胸が張り裂けそうになる。
すべて見透かして受けとめるような熱く澄んだ瞳が、数を減らした金色の雪の輝きを受けた。
黙って引き寄せられた肩から、優しさよりも荒々しさを感じて、それが少し怖かった。
そのまま静かに私の頭を撫でる手からは、優しさ以外のものがなだれこんできていた。




