金色の雪1
*
「ホルバンは完治にどのくらいかかる」
その日の夜になって執務もひと段落ついたとき、唐突にユートレクトが声をかけてきた。
クラウス皇帝の書簡へのお返事を清書していた私は、朝のようなことがないように、手を止めてインク壷の蓋を閉めてから答えた。
「二、三か月はかかるんですって」
「そうか」
ユートレクトはまた書類に目を戻すと、何かをノートに書きつけ始めたけど、私はこのまま奴を執務の大海原に戻すつもりはなかった。
ホルバンの安否を気にかける言葉に、ホルバン邸での彼の言動を思い出してしまったから。
訊いておかなくては胸のわだかまりが溶けそうになかった。どうしてホルバンやみんなにあんな言い方をしたのか。
彼の言葉にことさら敏感な私だから気になるだけで、重臣たちはそれほど気にしていないかもしれない。
それでも、あれほど厳しい言葉を重臣たちに向けたことは、今までになかったはず。だから、気になって仕方がなかった。
でも、まともに、
『なんであんな言い方したの、もっと他に言い方あるでしょ? 今度あんなきつい言葉遣いしたら、許さないから!』
とは言わない方がいいのはわかるから、私なりに薄絹で包んで包み込んで奴の注意を向けることにした。
「ホルバンが復帰しても何も言わないでね、みんなにも……みんなも十分わかってるはずだから」
「そして処罰はなし、か」
「う……」
実は突っ込まれるだろうと思っていたところをあっさり突かれて、少しひるんでしまった。
「おまえの考えはどこまでも読みやすいな」
私はみんなへの処罰はなくていいと思ってるけど、奴はそう思ってないのかな。
悟られないように気をつけながら顔色をうかがっても、相変わらず冷静な表情からは何も読めない。
だけど、今回は自分の判断を正当化できる根拠がきちんとあった。
「で、でも、今は一人でも欠けたら困るときだもの。あんただって言ってたじゃない。
だったら、処罰を出してる場合じゃないと思う」
奴の言葉を借りてるのが、少し……というか、かなり情けないけど。
ユートレクトが先週の御前会議で言ったことは私も正しいと思うから、今はこれ以上誰にも欠けてほしくない。
それに、今回みんなに処罰を与えないことは、私にしては珍しく、ユートレクトに反対されても翻りそうになかった。甘いのかもしれないとわかっていても。
「ではおまえが出した命令はどうなる。この国の主君は誰だ。ホルバンか、閣僚たちか」
温度を下げた声と彼らしすぎる正論は、私の心を冷たく貫いたけど、今日は不思議といつもほど痛みを感じなかった。それに励まされて、私は思ったことをそのまま口にすることにした。
「そんな風に言わなくてもいいでしょ。みんなそんなこと、言われなくてもわかってくれてるわ」
「その思い込みが馴れ合いを産み、ひいては主君の権威を失墜させることになる」
最強の臣下の声は、温度の下限を知らないらしかった。
冷厳さを増した声と言葉、思い込み、馴れ合いという言葉に、自分の甘さを骨の髄まで知らされたような気がして、今度は反論できなかった。
「おまえの代では何事も起きなかったとしよう。
だが、後世までそのような主従関係が続けば、主君を軽んじる臣下が現れ、謀反の要因となるかもしれん。
そうなれば、一時の自己満足で与えた哀れみより、何倍も大きな災厄が国中を襲うことになるのだぞ。それを考えたことはないのか。いつになればおまえは、一国の主君としての見識が持てるのだ」
いつものことで情けないけど、そこまで考えてはいなかった。
確かにユートレクトの言うとおりだった。
後の世の人たちに迷惑をかけるかけない以前の問題で、今でも賞罰のけじめをつけないことは、本当はよくないこと。それは重々承知していた、しているつもりだった。
だけど、今回のことはどうしても譲る気になれなくて、私は机の下で両手を握りしめると、緊張に詰まる喉を押して声を出した。
「あんたの言うことはよくわかるわ。
でも、もう処罰はなしってみんなに言ってしまったもの。
それでも今から処罰を与えろっていうの?
この何が起きるかわからないときに? ホルバンだってあんな大けがしたのに?」
顔色を変えず、氷の矢で射るような視線で私を見る姿に、心を震わせながらも次の言葉を足した。
「それに、ホルバンがあんなことになったのは、あんたのことを思って行動してくれたからなのよ? なのに、あんな言い方して……」
言ってから、自分がどれだけ彼に偏ったものの見方をしているかに気がついて、そこから言葉が継げなくなってしまった。
私が本当に心配していたのは、ユートレクトにみんなのことを思いやる気持ちがないんじゃないかということ。
そして、あんなことを言った彼を見るみんなの目が、悪い方へ変わってしまわないかということ……それをなにより不安に思っていた。
みんなへの処罰をなしにしたことよりもっと、主君にあってはならないはずの心の動きに、自分が囚われているものの大きさを感じて怖くなった。
「おまえが処罰を与えなかったのは、俺の暴言とやらのせいか」
それでも、私の心で玉座を支配している人は、私の動揺など眼中にないように鋭く痛いところを突いてくる。
「それは……」
崩れる気配のない厳しい表情に、臆しながらもひかれている気持ちを振り払って頭を動かした。
私がみんなに処罰を与えなかったのは、多少彼の言動も影響してると思う。
でも、もしあれがなかったとしても、処罰は出さなかったような気がした。
そう考えると、何かが心にひっかかって私は心のうずくところに手を伸ばした。
もしかして、あの暴言はわざとなの?
私がみんなに処罰を出さないのをわかっていたから、それであんなことを言って、みんなを威圧したの?
だけど、それはかなり無謀な賭けのような考えにも思えて、素直に認められないでいると、
「あれで俺の意図がわかればよし、反感を持たれたとしても、それはそれで奴の動きに変化があるかもしれん」
私の考えを認めるような言葉のうえに、謎を増やす台詞が覆いかぶさった。
「おまえに心配されるような失態を、俺が犯すとでも思ったか」
**
そう言って笑った顔はふてぶてしいほどの自信に満ち溢れていた。
わかってたんだ、私が何を気に病んでいたかも。
それは……嬉しいことで、うっかり乙女モードに入りかけたけど、寸前のところで謎の台詞を思い出した。
あの暴言が、みんなを牽制してのことだったというのはわかった。でも、ユートレクトはとても気になることを言った。
私は緩みかけた顔をひきしめると、
「奴の動きって……」
どういうこと? とつけ加えて返事を待った。
重臣たちがあの言動でユートレクトに反感を持ったとして、それがどうして『奴の動き』に関係するのか。
そもそも『奴』って誰を指してるのか。
答えはわかってるような気がしたけど、認めたくなかった。
だけど、笑顔をしまってまた厳しい表情に戻った最強の臣下を見たら、それ以上問い詰めてはいけないような気がした。
私は少し話題を変えることにした。
「アンウォーゼル捜査官には、ホルバンのことをまだ言ってないの。どう話したらいいのかわからなくて」
「俺が話した。通達のことも、みなに話を振らないよう釘を刺しておいた」
そう答えた顔はいつもの冷静すぎるもので、アンウォーゼル捜査官の名前を出したことを後悔しかけた私の心を落ち着かせてくれた。
「二人で仲良くお手洗いに行ったとき?」
「ああ」
本当に連れ立ってお手洗いに行ったのだとしたら、とても微笑ましい……ていうか、笑えるんだけど。
いい年したおっさん二人が、仲良く並んで用を足している図が頭に浮かびそうになって、恐ろしさのあまり身震いした。
だ、だめよ、男性のお手洗いのことなんか想像しちゃ。女王としてあるまじき下品なことだわ。
「あのとき、本当に隠し通路チェックしに行ったの?」
私はお手洗いから意識を引きはがしにかかった。
「結局奴に付き合わされた。あの一本だけだな」
あの一本というのは隠し通路のこと。センチュリア王宮はそれほど凝った造りではないけど、一応隠し通路があるのよ。
とはいっても、ユートレクトの言うとおり一本だけで、重臣たちも知ってるから、あんまり秘密ちっくじゃなくて使えないと思うんだけど。
「うん、あれだけよ。うちの王宮に、隠し通路とか隠し部屋なんてそんないいもの、ぼこぼこないもの」
「だろうな」
あのね。
そりゃあんたが暮らしてたローフェンディアの王宮には、さぞかしたくさんの隠し通路とか、隠し部屋とか、隠し金庫とかがよりどりみどりなんでしょうけど、そんなに素の調子でさらっと、うちの王宮のお粗末さを認められたら、面と向かってばかにされるより悲しいんだけど……
どうでもいいことにがっくりきかけたときだった。
急に背筋を冷たいものが走った。
あのとき……執務室を出て行ったときの、ユートレクトの緊迫した声と表情が頭をよぎった。
アンウォーゼル捜査官と二人きりにになったら、何か起きるんじゃないかという心配がよみがえってきて、確かめずにはいられなくなった。私には本当のことを話さないかもしれなくても。
「他には何か、なかったの?」
「ああ」
不安を募らせるような短い返答に心を煽られて、私はつい自分の感情のままに言葉を滑らせてしまった。
「言いたくないけど、ホルバンがネフレタ教授のところに行こうとしたの、もしかしたら、アンウォーゼル捜査官のせいかもしれない」
口にしてから、今度は本当に後悔した。
それは、今言わなくてもいいことだった。
なのに私は、不安なあまり自分の心を静めるのに必死になって、彼の気持ちを考えられなかった。
浮かれたことを考えていたのがうそのように、心がわなないて止まらなかった。
「どういう意味だ」
水色の瞳が険しい光で私をとらえた。
「ごめん、なんでもない」
この話をなかったことにしようとしたけど、彼が相手では、今更それもできないこともわかっていた。
「なんでもない、とはどういうことだ。そう考える根拠があるから言ったのだろうが」
「ううん、ただなんとなく思っただけで、本当かどうかわからないから」
「いいから言ってみろ」
有無を言わせない声とまなざしに、逃れるのが無理だとわかると、自分の思いやりのなさを悔むしかなかった。
私は沈んだ声でザバイカリエから聞いたことを伝えた。アンウォーゼル捜査官がみんなと通達のことを話しているときに、ネフレタ教授を話題に出したこと。
ユートレクトはかすれた声でそうか、とだけつぶやくと窓の外に目をやった。
「ごめんなさい、アンウォーゼル捜査官は大切な人なのに。私、あんたの気持ち考えてなくて」
「それは、俺がおまえにまだ何も話していないからだ、レシェクのことを」
言葉の意味がわからなくて冷静すぎる顔を見返すと、ユートレクトは淡々とした声音で言葉をついだ。
「俺がおまえにはっきりと奴のことを教えていれば、おまえも余計な気をめぐらさずにものを言えているはずだ。
だが、それをわかっていながら話していないのは俺だ」
言われれば確かにそうだった。
ユートレクトからは、アンウォーゼル捜査官がよからぬことに関わっている、と匂わすように聞いているだけで、はっきりとしたことはまだ何も聞いていない。
アンウォーゼル捜査官が、本当にペトロルチカや『世界機構』の武闘派の人たちと関係しているとわかっていたら、それはとても残念なことだけど、ユートレクトの言うとおり言葉を選んで話す必要はない。
だから、私なりに気を遣っているのは間違いなかった。今みたいに、あまりうまくできていないけど。
キアラさんがアンウォーゼル捜査官の容疑を裏づける使命を帯びていることも、盗み聞きで耳にはしたけど、キアラさん自身もアンウォーゼル捜査官のことを信じているみたいだし、私だって本当は信じたいから。
ユートレクトは外を眺めたまま、口の端を少しだけ上げた。
「余計なことは考えるな、考えるだけ無駄だ、おまえの分際で」
言葉は相変わらずぶっきらぼうだったけど、私のことを気遣ってくれているのかと思うと恥ずかしくなった。
もらっているものの大きさに対して、私はちっとも答えられていないような気がした。
だから、いつもみたいに『おまえの分際で、ってどういう意味よ。失礼ね』とはおどけられなかった。
「うん……ありがとう」
ユートレクトは私の顔を目だけこちらを向けて見ると、また外に視線を戻した。
「本格的に降ってきたな」
その声につられて外を見ると、結構な激しさで雪が降り出していた。
午前中は気持ちよく晴れてたのに、と頭の中で時間を戻したら、キアラさんのことを思い出した。
あれから、キアラさんには会っていなかった。
キアラさんが書いてくれた一覧は、すぐに司法省の官吏に渡した。
古い文献になると、探すのに時間がかかるものもあったみたいなんだけど、すぐに渡せるものから順にお見せするように、と指示を出した。
結局、一覧に載っていた文献は全部見つけてお渡しできました、と後で聞いたから、キアラさんにはほとんど不自由をかけなかったと思う。
「キアラさんに言われたの。あんたを通達から助けられるのは、私しかいないって」
キアラさんのことを考えながら斜め前に座る人を見たら、頭の片隅でずっと気になっていたことが膨らんできた。
『世界機構』のことでまだ調べ足りないことがあるのか、それとも、見落としてることがあるのか。
執務の合間に考えてもちっともわからなくて、情けないけど実はもうお手上げ状態だった。
私にしかできないこと。
「どういう意味なんだろう、私にしかできないことが何かあるのかな」




