不協和音3
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執務室に戻ると、普段は開けている部屋の扉を閉めてキアラさんにソファを勧めたけど、キアラさんは腰かけようとしなかった。
切れ長な眼から涙は消えていた。だけど、目は私に向けずに壁の一点を見つめていた。
私は先ほどと同じことをもう一度言った。
『永世中立国宣言』の原本は誰にも見せられないこと、写本ならばすぐに用意できること。
他にも入用な資料があれば、キアラさんの執務室まで運ばせること。
それでも何も言わないキアラさんに、私はホルバンが当分登城できないことを告げた。ホルバンが重傷を受けたことは省いて。
キアラさんの頬と口元が僅かに動いたのが見えた。
やっぱりホルバンが戻ってくるまで、誰にも資料のありかを聞くつもりがなかったのかと思うと、あきれるというよりも悲しい気持ちで胸が一杯になった。
キアラさんが、これほどかたくなに平民と呼ばれる身分の人たちを敬遠するのには理由がある。
どんな事情かはわからないけど、それはアンウォーゼル捜査官から聞いて知っている。
キアラさんをこんな風になるまで追いつめた人や事件があるとしたら、その人たちや出来事が憎らしかった。
「法律関係の資料については、私に聞いてくださって構いませんし、直接司法省の者にお訊ねいただいても結構です」
こう言っても聞いてくれるかはわからないけど、正論は一応言っておかなくてはならない。
ユートレクトに聞いてください、とは言えなかった。彼の名前を出してしまったら最後、キアラさんは二度と私に関わろうとしないだろう。そうなれば、自分に与えられた苦難に負けてしまうような気がした。
「資料の数が多すぎて、お申しつけづらいということでしたら、お手数にはなりますが、必要な文献の一覧を私の机の上にでも置いておいてくだされば、私から司法省の者にそれを渡して、ピアスカ司法官の執務室に運ばせるようはからいます」
この提案は最大限譲歩したつもりだった。これならキアラさんは、私とも司法省の官吏とも話さなくて済む。
どうして私がこんなことを言わなくてはいけないんだろう。悲しさといらだちで胃が焼き切れそうだった。
キアラさんはまだ口を開こうとしない。
了承の言葉を聞けたら一番いいのだけど、『いやよ』でも『ふざけないで』でもいいから、何か答えてほしかった。
何を考えているのかわからない人に一方的に話しかけ続けるのは、すごく心に負担がかかるのだと初めて感じた。
キアラさんがここから出て行こうとしないことだけが救いだった。先週の盗み聞きのことを謝るなら、今しかないと思った。
「ピアスカ司法官、先日の私の非礼については、重ねてお詫び致します。
一国の君主としてもあるまじき行為でした。誠に申し訳ありませんでした」
それだけではなくて、女王として言っておかなくてはならないことも。
「私はどう思われても構いません、あのようなはしたないことをした身、致し方のないことです。
ですが、私の官吏たちを傷つけるのはおやめください。彼らは私の愚かさとは無関係です。お願い致します」
私はキアラさんに頭を下げた。また卑屈だとか思われるかもしれないけど、私にはこんな頼み方しか、言い方しか思いつけなかった。
頭を上げると、信じられないことにキアラさんと目が合った。
灰色の瞳には、生まれながらの貴族が持つ傲然とした高貴さと……今までキアラさんに全く見たことのないものが映っていた。
「私のことを無様だと思っているでしょう」
キアラさんの声はこちらが心配になるほど力がなくて、自分を突き放すようなものだった。
「そんなことはありません」
うそではなかった。
人にはそれぞれ、生まれ育った環境がある。性格だって違う。
それによって、振る舞いや考え方が違ってくるのは当たり前。
キアラさんがさっき官吏たちに白い目で見られたのだって、キアラさんが悪いわけじゃなくて……なんて言ったらいいのかな、うまく言えないけど、きっと今まであんな目で見られたことがなかったから、自尊心がすごく傷ついたのだろう。
でも、これからは今日のことを思い出して、あんなことは言わなくなるはず。それでいいと私は思っている。
普通なら(あくまで私基準だけど)わかっているはずのことを、キアラさんはたまたま今日知った。それだけのこと。そう考えなかったら、自分と価値観の違いすぎるキアラさんを肯定できない。
どうしてこんなに必死になってキアラさんを信じようとするのか……キアラさんが大切な人の親友だからに他ならなかった。
私のまとまらない気持ちが、キアラさんに届いたのかはわからない。
キアラさんは投げやりな気持ちを振り払うように、夕焼け色の髪をかきあげると、私の顔を厳しい眼で見据えた。
「兄上と同じ眼ができるのね、あなた。それでもまだ気づかないなんて、おかしな人」
ユートレクトと同じ、という響きに、心が浮き立ってしまうのを感じたけど、キアラさんの探るような目と後半の言葉を考えると素直に喜べなかった。
私が何に気づいていないというの?
嬉しさと不思議な思いに囚われてとまどっていると、キアラさんの瞳が私を軽蔑するような色に変わった。
「私があなたを見ると腹が立つのはね、あなたが平民あがりだという他にも理由があるのよ」
理由?
卑屈だから? 陰気臭いから? うっとうしいから?
そんなことを考えてしまう自分が卑屈で陰気臭くてうっとうしいのだと思うと、自分が自分でいやになった。
だから卑屈だとかなんだとか思われてしまうんだ、私は。強くならなくちゃって決めたのに、まだまだ全然足りてない…
暗い自己嫌悪に唇の裏を噛む私の反応を待たずに、キアラさんは更に言葉を重ねた。
「兄上を救えるのはあなたしかいないのに、あなたはそれにまるで気づいていないのね!
そのくせ、兄上を頼りにしきって…それが許せないのよ!」
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ユートレクトを救えるのが、私しかいない…?
何から救うのか……『世界機構』からの通達であることはわかるけど、それ以上のことは見当すらつかなかった。
キアラさんの瞳が憎しみと蔑みをたたえて、恐ろしい光を放ったように見えた。
「あらいやだ。私としたことが、なんてことかしら。
あなたみたいな人が兄上と同じ目を持つなんて、そんなこと、ありえないもの、どうかしていたわ」
キアラさんの声に、また女性特有の暗く湿った重さが加わった。
いまだになじめない声の色に、重さに、どれほど傷つけられることを言われるのかが怖くなって、気づかないうちに、通達のことが頭からなくなってしまった。
「そうよ、確かにあなたはこの国の女王かもしれないけれど、世界的に見れば、ちっぽけな国の長でしかないのよ。
私たちローフェンディア貴族の方が、よほど世界に貢献しているわ。そんなあなたが……」
自分の意見が絶対に正しいという、恐ろしいまでの自信と、それ以上の何かが、キアラさんの全身を取り巻いて、私に無言の毒針を向けてくる。
「どんな下品な手を使って兄上をたぶらかしたのかしら?
夜遅くまで男たちに媚を売って働いていたような給仕娘なら、清らかに暮らしていたのではわからないことも、知っていたのではない?
平民風情が高貴な者に取り入るとしたら、そんなことしかないものね!」
キアラさんが放っているものが、自信だけではなく、自信を守ろうとするための強がりだとに気がついたのは、あまりの侮辱にかえって理性が目覚めたからだった。
キアラさんは私の理性と反抗心に火をつけてしまった。でも、ここで冷静さをなくしてはいけないことは、百も承知している。
だから、反論するならあくまで冷静に。そして……
「ピアスカ司法官」
キアラさんの虚勢に固まった顔に、驚きの陰が落ちた。
私が何か言い出すとは思ってなかったんだろうか。
「あなたは、敬愛する人がそれほど簡単に下品な手とやらで篭絡されるとお思いなのですか」
キアラさんが私に対する怒りで、他のことに目を向けられないことはわかっていた。
だけど……だからこそ、気づいてほしかった。傷つけるなら私だけを傷つけてほしかった。
「私はユートレクトをたぶらかしたりしていませんし、彼もそう思っているでしょう。
それに、彼が下劣な手段に落ちるような人でないことは、誰よりあなたがよくご存知なのではありませんか?」
キアラさんを守ってきた厚い壁が、崩れる音が聞こえたような気がした。
灰色の瞳が大きく見開かれて、にじみながら私を見つめている。
「私のことは構いません。ですが、あなたとあなたの大切な人を貶めるようなことは、どうかおっしゃらないでください」
キアラさんのアーモンド形の瞳から、清らかな流れが止まることなく頬を伝って床に落ちた。
泣くのは嫌いだけど、泣かせるのはもっといやだ。まして年上の女性、大切な人の親友を……
それでも言わなくちゃいけないと思った。
私の誇りのためにも、キアラさんとユートレクトのためにも。
「……私は、あなたが大きらいだわ」
背を向けたキアラさんの震える声が聞こえた。
「はい」
「あなたも、私に関わらないことね」
「それはできません」
淑女にも関わらず指で涙を拭うキアラさんに、私はハンカチを差し出した。自分もハンカチがいりそうになっていたけど。
「……何よこれは。泣いてなどいないわ。眼の周りがかゆかっただけよ」
キアラさんは気丈に私のハンカチを断ると、どう見ても泣きはらした赤い目で私を見た。
「私は敵に弾薬を送るようなまねはしないわ」
決意を固めたように見えるキアラさんは、やっぱりとても綺麗で、持って生まれるものが平等ではないことをつくづく感じた。
「どういう意味ですか?」
「あなたは、どこまで鈍感なの!? 兄上を救う方策のことよ!」
あ、そういえば……
先ほどキアラさんが言ったことを思い出して、私は自分の記憶力の悪さがまたいやになった。
ユートレクトを『世界機構』の通達から救える方法。
私にしかユートレクトは救えない、とキアラさんは言っていた。今すぐにでも教えてほしいのだけど。
「す、すみません」
私が素直に謝ると、キアラさんはあきれたようにため息をついて、
「それほど兄上が大切なら自分で考えなさい、私は絶対に助けないわ」
キアラさんの性格だもの、本当に教えてくれないだろう。
でも、ヒントをくれただけでも十分だった。それだけでも感謝しなくちゃ。
「はい、わかりました、ピアスカ司法官」
キアラさんの態度や言葉が、今までと少し違うこと。
私の中で緊張の糸がぷっつり切れてしまったこと。
そのせいで、今度は私の方が本格的にハンカチが必要になりつつあった。
「憎らしいほど冷静なのね」
「そんなことは、ありません」
憎らしいほど冷静なのは、誰かさんの専売特許だ。私はどうあがいても、あの境地にたどりつけそうにない。
「ば、ばかね、なぜあなたが泣くのよ」
「すみません……」
「なによ、もう……知らないわ、あなたみたいなばかな人!」
キアラさんはそう言い残して出て行ってしまったけど、不思議と一人取り残されたような気持ちにはならなかった。
ハンカチで押さえようとした涙を指でぬぐうと、窓の外から久しぶりの日の光が射してきた。
心配ごとはまだまだたくさんある。だけど、少しだけ前に進めたような気がして、私は今日の執務を再開することにした。
しばらくすると、ユートレクトが一人で執務室に戻ってきて、私に一枚の紙を渡した。
「キアラから預かった。おまえ、あいつに何を言った」
「え……」
一瞬、先ほどのことをキアラさんが彼に話したのかと思って焦ったけど、そうではないみたいでほっとした。
「あいつの殊勝な文言を初めて見た。キアラをオーリカルク入りのドレスで買収でもしたか」
その冗談めいた台詞には答えずに、私は受け取った紙の上を走る文字を見た。
そこには、センチュリアが永世中立国になってから今までの、法律・規程名がびっしりと書かれていた。
そして、その最後には、
『センチュリア司法省担当職員殿
上記の文献を閲覧致したく存じます。
宜しくお取り計らい願います。
『世界機構』司法官 キアラ・ピアスカ』
という一文が記されていた。




