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隔てるもの2

***



 突拍子もない話に驚いて腰を浮かせかけたけど、頭をぶつける前に自分が机の下にいることを思い出した。よかった……もう少しでばれるところだったわ。


 『世界機構』の本部諮問機関代表理事?(長ったらしい名前よね)

 それって、ユートレクトに通達を出したカーヤルさんと同じ、とんでもない役職じゃない。


 本部諮問機関代表理事ってね(ああもう、長いったら!)、『世界機構』の首領・本部総長の次に偉い地位で、五人しか就けない役職なのよ。

 とりあえず偉いってこと以外は覚えなくていいから。


 そういえば、年明けに届いた『世界機構』の人事発令に、本部諮問機関代表理事の誰かが定年退職したって載ってたような気もしてきたわ。ユートレクトをその方の後任にしようってことかしらね。


 でも、『世界機構』から呼び出しを受けてる人が、その組織の上層部に抜擢されるって、ありなわけ?


 わけのわからないなりにも、あれこれ考えていると、キアラさんがまた爆弾を落とした。


「代表理事になるとさえ言ってくれたら、後はなんとかしてくださると本部総長もおっしゃっていたわ。通達も抹消するって。

 本部総長は、ご自分の後を兄上に継いでもらいたいとおっしゃっているくらい、高く評価していらっしゃるのよ。まあ、兄上を高く評価するなんて、当然のことだと思うけれど」


 それって。

 相当お得な話なんじゃないかしら。


 国家元首以外は、絶対に逃れられないはずの通達をなかったことにできて、おまけに『世界機構』の(キアラさんを見習って以下前略)代表理事なんていう役職にも就けるなんて。本部総長、恐るべしだわ。

 しかも、『世界機構』の次期トップの地位まで望まれてるって。

 ということは、本部総長さんは穏健派なわけね、心強くてそれはありがたいんだけど。


 そこまで兄上さまを高く買ってくださるなら、今すぐに、あのいまいましい通達を無効化してくれないかしら……と考えて、はたと気がついた。


 もしかして、穏健派の皆さん、ユートレクトの窮地を救うことで恩を売って、奴を『世界機構』に召還しようっていう魂胆なの?


 可能性は限りなく100パーセントに近いような気がしてきた。


「兄上の才覚は、こんなちっぽけな国ではなく、もっと大きな舞台で発揮されるべきよ。

 兄上なら、今の武闘派みたいな連中も一掃してくれると、本部総長をはじめ、穏健派の方たちも期待しているわ。

 私も兄上と一緒に働けたら嬉しいし。ハーラルはもう国王だから無理だけれど、またあの頃みたいに三人で楽しくやりましょう……ね?」


 確かに、ユートレクトにとってはいい話だった。


 (前略)代表理事の活躍の場と権限は、センチュリアの宰相なんかよりずっと広くて大きい。

 なんていっても国際的な組織の上層部。私のような小国の君主はもちろんのこと、クラウス皇帝だって無視できないくらいの権限を持つ。もちろん、お給金だって格段にいい。


 それに、小さな国に縛られてるより、国際的な中立機関で働く方が奴の性分には合ってる気もする。

 もっとも、今の『世界機構』は中立的な立場の機関とは言えないけど、奴が『世界機構』に入れば、絶対変えていくだろうし。


 『世界機構』の本部は、西方地域のタナールブータ王国にある。

 センチュリアから行こうと思ったら一週間はかかるし、向こうが乾季のあいだは、危険だから往来ができない。

 それ以前に『世界機構』の職員は、任務以外で出国することは難しいと聞いたことがあった。


 最強の臣下がどんな答えを返すのか、自分の気を紛らわせるのに必死で、二人の声が耳に入って言葉になるのに少し時間がかかった。


「断る」

「どうして!」

「『世界機構』は性に合わん」

「何を言ってるの、通達を抹消してもらえるのよ、性に合う合わないの問題じゃないでしょう?

 それに、『世界機構』の代表理事になれる機会なんて、めったにないことよ。そのへんの国の国王になるより難しいって言われているんだから、それを!」


 ユートレクトの冷静すぎる声に、しびれを切らせたようなキアラさんの金切り声が覆いかぶさった。だけど、わが臣下はどこまでも冷静だった。


「おまえはいつから、俺の野心まで案じてくれるようになったのだ」

「は?」


 キアラさんにはもちろん、私にもその言葉の意味がわからなくて、次の台詞を待っていると、


「俺が一国の王になることは今更難しいから、『世界機構』の代表理事にでもなっておけということか。あいにくだが、俺にそのたぐいの野心はない」


 少しからかっているような口調に、キアラさんの感情がとうとう爆発したようだった。外に漏れそうなほどの大音量で、


「そんなこと言ってないでしょう!」

「第一、本部諮問機関代表理事という役職名が気に食わん、えらく老けこんだ響きではないか」


 あんたの言うことにも一理あるけど、それなら『宰相』でも十分老け込めると思うわよ。

 これは『世界機構』の(前略)代表理事になんて、全くなる気がないんだわ。自分が置かれている立場をわかってるのかしら。


「た、確かに、代表理事には中年のおじさまたちしかいないけど……そういう問題じゃないのよ、話をそらさないで!」

「そらしているつもりはない」


 会話が止まった。


 本心を語っているのかはぐらかしているのか、掴みづらいユートレクトに、キアラさんはどうしたらいいのか困っているみたいだった。


「……どうして?」


 キアラさんの声が急にか細くなった。


「この国がそれほど大切? それともやっぱり、あの女なの?」


 沈黙のあいだに得た答えがそれかと思うと、弱々しいキアラさんの声ですら私には凶器だった。


「『世界機構』が性に合わんのは事実だ。それに、俺が拘束されたまま何もせずに黙っていると思うか?」

「それは……思わないけれど」


 キアラさんは本当にユートレクトを信頼しているんだろう。元気はないけど、素直な妹がお兄さんに向けるような声だった。


「兄上、出頭命令を受けて無罪放免された人は、今まで一人もいないこと、知っているでしょう? 兄上だって冤罪だとわかっていても、このままでは、なんらかの罪を負わされることは免れないのよ」


 キアラさんの必死の思いが伝わってくるようだった。

 私も同じ気持ちだから余計に感じたのかもしれない。『世界機構』の(前略)代表理事の話を受けてほしい、ということ以外は。


「おまえは、俺を偉大だと思っているのか、愚か者だと言いたいのか、どちらだ」

「そんなこと言ってないわ」

「俺を代表理事にふさわしいように持ちあげたかと思えば、今は『世界機構』ごときの拘束から逃れられんと言っている。この際だ、俺は偉大だという方向で話を固めてはどうだ」


 声しか聞こえないから、本当のところはわからないけど、あくまで冷静で本心を見せないユートレクトに、キアラさんはようやく旧友のやっかいな癖を思い出したみたいだった。


「兄上はいつもそうだった。都合の悪い話になると、そうやって煙に巻こうとして」


 泣き出しそうな声に、キアラさんの気持ちを考えるとこちらまで辛くなった。

 キアラさんはユートレクトのことを、親友として、それ以上の思いからも、心から案じている。


 そうよ、奴にとってもキアラさんは親友なんだから、はぐらかさないで、もう少し率直な言葉で説明してあげてもいいのに……と思ったときだった。


「私は認めないわ、あんな女。

 あの女もこの国も、ペトロルチカの連中に、いいように蹴散らされてしまえばいいんだわ」


 私は自分がキアラさんに敵視されていることを、すっかり忘れてしまっていた。

 先ほど向けられたよりもずっと、痛くて重い言葉が刃を剥いて私に襲いかかった。


「あの女の卑屈な話し方といい顔つきといい、眼にするだけで嫌気がさすわ、陰気臭くてうっとうしい!

 平民はしょせん平民ね、女王ごっこをしているようにしか見えないわ。君主としての威厳なんて、微塵も感じられないもの。ああみすぼらしい、見苦しいったらありはしないわ!」


 キアラさんの気持ちに心を寄せていたところだったせいか、その言葉の凶器から受けた痛手は、想像していたよりもずっと大きかった。


 ……そんなこと言ってたって、もし私が偉そうにしたら、絶対に文句をつけるんでしょう?

 私はあなたを、『世界機構』からの大切なお客さまとしてもてなして、気分よくお仕事をしてもらおうと思っただけなのに。

 私がやることなすこと、どうせ全部気に入らないんでしょう?

 それなのに、どうしてそんな風に言うの、私のどこがいけないの……?


 反発する思いが頭のなかに浮かびはしたけど、それよりも、卑屈、陰気、うっとうしい、女王ごっこ、みすぼらしい、見苦しい……言葉たちが残した傷の方がはるかに深かった。

 その言葉たちを凶器だと感じたのは、私の中に消せない劣等感があるからだということもわかっていた。


 平民として生まれ育ってきた私は、女王にふさわしい知識も教養も、生まれながらの風格も…初めから何もかも持ち合わせていなかった。そんなこと百も承知なはずだった。なのに……


 自分が隠れていることを忘れて、私は机のなかでよろめいた。

 机の脚に背中が触れて、がたん、と音をたてた。


「……!」


 気がついたときにはもう遅かった。


 切迫した足音がこちらに向かってきたけど、身体が呪いをかけられたみたいに動かせなかった。

 脚を震わせながらようやく机から出たところで、私は二人に見つかってしまった。


 水色の瞳と灰色の瞳が容赦なく私を突き刺した。


「ご、ごめんなさい……」


 どう考えても盗み聞きした私が悪いのだから、言い訳するつもりはなかった。

 今はただ、キアラさんから逃げ出したかった。

 またあんな言葉をかけられると思うと、全身が震えだして、それだけしか言えなかった。

 頭がずきずき痛みだして、目の前の視界はとうの昔から霞んで揺らいでいた。


「キアラ、言うべきことがあるだろう」


 いつもは一番怖いはずのユートレクトの声も、今は別のところから聞こえてくるみたいに遠く感じた。むしろ、その台詞にキアラさんがどう答えるのかが恐ろしくてならなかった。


「どうして私が謝らなくてはならないの?」


 それ以上何も言ってほしくなかった。早くこの場からいなくなりたかったけど、悪いのは私……これからどんなひどい言葉を浴びせられるか、考えるだけで怖くて、息をするのも辛かった。

 胸がどんどん締め付けられて、喉の奥で熱い塊みたいなものが大きくなっていく。


「あなたなんか……大きらい!」


 大きらい、という言葉がこんなに胸を刺すものだとは思わなかった。


 キアラさんのことを、それほど好きではなかったはずなのに、どうしてこんなに胸が痛くなるんだろう。悲しいんだろう。


 揺らいだ視界から涙が一筋降りた後、ハイヒールの駆ける音に続いて資料室の扉が勢いよく閉められる音が、私の心に最後の深手を負わせた。



****



 涙は止まったけど、うつむいた先に見える足元はまだ揺らいでいた。


 キアラさんがいなくなって、私の前にいるのはあと一人……その姿が見えなくても、怒っているに違いない怖い顔を見上げる勇気はなかった。


「ごめんなさい……」


 さっきと同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。こんなに頭が痛くなったのは久しぶりだった。


「盗み聞きとは性質の悪い趣味だな」


 頭の上から聞こえてきたのは、いつもの調子と変わらない声だったけど、それがかえって軽蔑されているように聞こえた。


 始めから姿を見せていればよかったんだ。

 そうしたら、キアラさんにいやな顔はされただろうけど、あんなこと聞かずに済んだのに。


 今度はこの人に、どんな刃を向けられるんだろう。週末、自分の身にふさわしくないほどの甘い時間に酔いしれた、これが罰なのかもしれない。

 そんな思いが胸をよぎると、身体の震えが止まらなかった。


「だが、おまえがいることに気づいていながら、俺はキアラを止めなかった」


 その台詞に驚いて頭を上げた瞬間、視界が元に戻っていた。

 臣下の仮面の底に、何かを悔いているような表情が映ったような気がして、自分の甘えた考えを打ち消した。


 万が一、キアラさんを止めなかったことを彼が悔いていたとしても、それを嬉しいと感じる権利なんて、どこにもないのに。

 私は何を勝手に見たつもりになって、何を勝手に想像しているんだろう。


 もしもユートレクトが、私をかばうようなことを言っていたら、キアラさんは余計彼に食ってかかっただろう。

 そうしたら、私はあんなこと言われなかったかもしれないけど、二人にいらない苦しみを背負わせてしまったに違いなかった。


 ユートレクトが私に気づいていたのは、意外なことではなかったから驚かなかった。

 かばってほしいなんて、考えもしなかった。

 キアラさんに謝罪するように促してくれただけで、十分すぎるのに。


 自己嫌悪の波が押し寄せてきて、私を遠くへ流そうとする。できることなら、本当にどこか遠くへ消し去ってほしかった。


 口を開けないでいると、今度はどう見ても感情の窺えない顔で、


「キアラは司法などに携ってはいるが、根は単純だ」


 声はむしろ明るくなったかもしれない。だけど、どうして突然そんなことを言うのかわからなかった。


 キアラさんは裏表がなくて、思ったことをすぐに口にしてしまう性格だって言いたいの? だからって、私にどうしろっていうの?

 キアラさんが私のことをあんな風に考えているのは事実、今日のことは謝らなくちゃいけないけど……


 お昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえてきた。


「鐘が鳴った、戻るぞ」


 キアラさんに話しかけなくちゃいけないと思った途端、頭が締め上げられるような痛みを増して、目の奥からまた熱いものがにじんできた。

 頬もまだほてっていて、自分では見えないけど泣いたことが一目でわかる顔をしているのに違いなかった。


 情けないけど、こんな状態のまま執務に入りたくなかった。

 私が動かないままでいると、


「どうした」


 とがめるような声音に、心が潰れそうになったけど、


「先に行ってて……調べものがあるから」


 声が震えるのを抑えて、とっさにうそをつくことにした。


 けど、仕事の鬼でもある臣下は、容赦のない視線で私を見据えると、私が無意識のうちに抱え持っていたものをすっと取り上げて目の前に差し出した。


「こいつか」


 自分がここで何を見ていたのか、すっかり忘れていた。


 ユートレクトは私から取り上げた『センチュリア王族家名一覧』を、冷ややかな目つきでめくり始めた。


「違う、それは」

「王族の家名を授けたい男でもできたか」

「そんなんじゃない」


 御前会議で重臣たちに話題にされた、アンウォーゼル捜査官との縁談を思い出すと、とんでもない誤解をされているような気がして、慌てて否定した。


 こんなやりとり、前にもしたことがあるような気がする、確かあのときは、どんどん険悪な雰囲気になって……


 不安が募る私の耳に聞こえてきたのは、


「レシェクではないのか?」


 怒っているのではない、明らかにからかっている声だった。


 険悪な流れにならないみたいで、少しほっとしたけど、これだけは恥ずかしくて言えない。あなたのことを考えてましたなんて。


 そこに載ってるどんな家名もあなたにはふさわしくないと思ったこと、やっぱり私はあなたと結ばれるべきじゃないのかもしれないと、そんなことまで考えてたなんて。


 それでも、変な誤解はしないでほしかった。

 からかう声に合わせて、私もつとめて陽気な顔を繕った。


「それは違う、絶対、ありえないから。さっきも言ったでしょ」

「ほう、では誰だ」


 だから、それだけは答えられないって言ってるじゃない……心の中でだけど。


 私の反応を面白がっている視線の中に、なぜか探るようなものが混じっている気がして恥ずかしくなった。


「今はその質問に答えられる時間じゃないわ」


 落ち着いて答えたつもりだったけど、私の考えを見透かされたかもしれないと思ったら、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 この人との繋がりをなかったことにしようなんて、どうして考えられたんだろう。


 センチュリア風の名前がこの人にふさわしくないなんて、それは私だけの感覚かもしれないのに。

 確かにそうかもしれないけど、この人のことだからとっくに知ってる……私と結婚したら、姓も名も変わるかもしれないことくらい。


 そんなこと、何もかも全部承知のうえで、思いを結ぶ道を選ぶ権利を委ねてくれたはずなのに、私は彼の信頼を裏切ってしまうところだった……


 自分の顔が、また暗くなったのがわかっていやになった。

 表情を戻すのに必死で、目の前の人の変化に気がつけなかった。


「そんな調べものなら後でいい、行くぞ」


 背を向けた後姿からは、何も読み取ることができなかったけど、声はいつもの冷静すぎるものではなくて……

 怒ってはいないけど、落ち着かないような、居心地が悪そうに揺れているみたいに聞こえた。

 まだしつこく問いただされると思っていたから、この会話を終わらせたことが意外だった。


 あれこれ思いをめぐらせていたら、頭はまだ痛かったけど、いつの間にか涙も顔のほてりもひいていた。


 ここに留まる理由はもうない。午後の執務はもう始まっている。


 私は臣下の広い背中を追いかけた。そのまま何も話さなかったけど、扉の前でユートレクトはノブにかけた手を止めてつぶやいた。


「逃げるなよ」


 何が言いたいのかわからなくて、返事ができないでいると、


「俺の眼の黒いうちは、おまえがどれほど落ち込もうと容赦なく引き上げると言ったはずだ」


 そう続けられて、私がキアラさんの言葉で落ち込んだことを言っているのだとようやくわかった。


 この人は、私が落ち込んでも優しい言葉をかけたりはしない。

 だけど、強くなれるように、いやでも前を向いて歩かせるつもりなんだ。


 だから、確かな慰めの言葉や自責の態度は見せない…これからもずっと。


「おまえは第45代センチュリア国王だ。

 残念ながらこれは揺るがない事実だ。誰が異を唱えようがな」


 振り返った顔には、強さと押し殺しているはずの感情があふれていた。


 私は幾度となく求めて、いまだに叶えられない願いをまた胸に焼きつけた。


「ありがとう……」


 早くこの人に追いつきたい。その思いを。

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