心の行く先4
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理性を跡形もなく溶かすような熱を帯びた声に、身体の奥底に眠っていた何かが静かにはじけた。
穏やかに、だけど確実に、全身のすみずみまで広がって満たされていく感覚は、生まれてきてから味わった中で一番激しくて、煽動的で……一度誘われてしまったら自分では止められないものだった。
声を聞いただけで、こんなに突き動かされるなんて。
この人が私とどこへ向かおうと欲しているのか、わからないほど私はもう子供ではなくて。
もう一度間近で目を合わせると、いつもは冷たい光を放っている瞳に、深いところから湧き上がっている感情が映っている気がして息を飲んだ。
顔色は元に戻っていて安心したけど、普段の冷静すぎる仮面が取り払われた……異性としての野性的な熱情に揺れている表情に、じっと見つめる恥ずかしさを忘れて魅入られた。
そのまま……促されるままにコートの袖から腕を外すと、上着にも手をかけられて、ようやくわれに帰ることができた。慌てて首を横に振ると、
「まだ帰らんだろう、着たままでは型が崩れる」
言ってることはもっともなのだけど、この雰囲気で、その声で、そんなことを言われたら、乙女の妄想がここに表現できない域にまで達してしまう。
私はさっきからずっと赤いままなはずの顔で、なおも首を横に振ると、
「何を考えている」
「え……」
「上着を脱ぐくらいでくだらんことを考えるな」
「……!」
図星のことを言われて、言葉を詰まらせていると、
「こんなところで突っ立っていても始まらん、奥に入れ」
いつの間にか普段の調子に戻った声でさらっと言うと、私を置いてそのまま奥に行ってしまった。
……ちょっと待って。
なによこれ、どういうこと!?
私はとても恥ずかしいやら腹が立つやらで、
「な、なによ、くだらないことって。そんなこと、か、考えてもないんだから」
悔しいけど、まだ少し熱に侵されたままの声でつぶやいた。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか……恐らく聞こえたと思うけど、ユートレクトは余裕まんまんの声をこちらに飛ばしてきた。
「まだ時間は早い、ローフェンディアから持ち帰ったものを見せてやる。上着は脱いでこいよ」
これは……どう解釈したらいいのかしら、枝豆宰相?(なんで枝豆なのかは、覚えてなかったら気にしなくていいわよ)
今の今までの、あの奇跡的な空気はなんだったのかしら。
一つ言えるのは、乙女妄想を発動する機会が、幸か不幸かなくなったってことよね。
ようやく現実世界に戻ってきた脳がくるくると回り始めて、私は自分と奴が置かれている事態と立場を、改めて思い返した。
そうよ、これでいいんだわきっと、今は。
もしあのまま……私の妄想どおりになってしまっていたら、理性でこの関係を判断できなくなるかもしれない。
奴はともかく、私はまだ男女の関係を知らないから、知ってしまったら自分がどんな風に変化してしまうかもわからない。
その前に、解決するべきことはきちんと片付けておかなくちゃいけないんだわ。
ユートレクトもそのことに気づいて……ううん、奴のことだから、最初から考えてたのかもしれない。
最初から? ってことはよ。
私の気持ちを、恐らく知ってて言わせようとはしたけど、結果的に奴も……その、私に気持ちを教えてくれた。
そもそも私を家に連れてきたのだって、この前の夜のことを謝ってもくれたけど、それだけじゃなくて、最初からこのために?
こんなこと考えるなんて、うぬぼれかもしれないけど、私と思いを通わせてくれるためだったってことも、ありえるってことなの?
さっきの燃えるような激しい感情とは違う、でも、同じ重さと大きさの温かい思いが満ちてきて、身体を優しく包んでくれた。
「ねえ、お腹空かない?」
私は素直に上着を脱いでハンガーにかけると、奥へ向かって歩きながら声をかけた。
「ああ、あまり食べられなかったからな」
「そこのお重の料理、一緒に食べよ」
多分、本か何かをテーブルに積み上げていた音が止んで、お重がぱかっと開けられる音がした。
「おまえの好物ばかりではないか、だから枝豆はないのかと聞いたのだ……そうだ」
ユートレクトは何を思いついたのかお重の蓋を閉じると、絶対に料理してないことがわかる台所に置いてある、家庭用氷室の扉を重々しく開けて、
「ここに入っているもので何か作れ」
「はあ!?」
「先日、久々にパトリシアに会ったときだ。『皮餃子』の話をしたら、近いうちに材料をそろえておくと言っていたのだが……ほう、これが鶏の皮か、ということは、もう材料が揃っているということだな。よし、早速作業にかかっていいぞ」
パトリシアさんというのはこの家の家政婦さんだとか、彼女は掃除洗濯をしに来るだけなので、奴とは顔を合わさないことが多いし、飲み物とかは買っておいてくれるけど、ご飯は作らないこととか……そういう細かいことは置いといて。
「なによ、その上官系口調。ていうか、あんた自分で『皮餃子』作ろうとしてたの、こんな綺麗な台所の人が?」
「だからおまえが作るのだろうが」
「私があんたの家に来る保障なんて、どこにもないじゃないの! 今日たまたま来たからいいけど!」
そうよ、もし私が来なかったら、この食材たちどうなったのかしら……ってもう作る気になってるけど。
仕方ないわ、このままじゃ鶏皮もミンチもキャベツもにらも、報われない状態になりそうだもの。
ユートレクトは氷室のなかから物体Aを取り出して私に渡すと(だって、何かわからないほど黒いんだもの)、ソファに深々と腰をおろして、テーブルに積み上げた本の一冊を悠然と読み始めた。
『世界会議』のときに見せられたのと間違いなく同じ顔をした本が、大量にテーブルに乗ってるのを見たらね、あれを拝読させられるよりは、『皮餃子』を作ってた方がましだとは思うんだけど。
もしかして、今日の偶然がなくても、私をどうにかして家に呼ぶつもりだったのかと思うと、こんな一市民ちっくな楽しいイベントも、今日くらいいいわよね……と考えることにした。
これから先、何があるとしても、今日が特別な日になることは、間違いないんだから。
と決意したら、さっきまでの抱擁や今度は本当の口づけのことが頭に浮かんできて、慌てて頭を振って回想を追い出した。
いいこと、鶏皮宰相。
私特製ぶっつけ本番『皮餃子』食べたら、あんたの考え、全部きっちりとっくり聞かせてもらうから、覚悟しなさいよね!
こうして、私はいろんな気持ちと向き合いながら、とりあえずキャベツとにらを洗うことにしたのだった。
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作ったことないから想像でしか作れないけど、食べるからには美味しく食べたいものね。
そう思いながら、私は『世界会議』の六日目に行った『居酒屋 北の限界』で口にした『皮餃子』の記憶を、脳のグルメ部門からひっぱり出してきた。
えっとね、確かに美味しかったのよ。鶏皮使ってるから、熱量はすごく気になるんだけど。
そう、鶏皮がすっごくぱりぱりで美味しかったの!
でも、噛んだら不思議なくらい感触がもっちりしてたっけ。肉汁もちゃんと出てきてジューシーだったし。
どうやって焼いたら、あんなにぱりぱりになるのかしら。もしかしたら、揚げてるのかもしれないわね。
この新品同様に綺麗な台所に、揚げ物するだけの油が置いてあるかは疑問だけど。
キャベツとにらを細かく刻みながら、あれこれ考えていたら、
「できたか」
「まだに決まってるでしょ」
料理といえば、恐らくほっけを焼くことしか知らない男が、お重に入れてたコロッケ(しかも既に歯型つき)を片手にやって来た。私もお腹空いてるのに。
「早く食べたかったら手伝ってくれる? そこのミンチをボウルに開けておいて」
この言葉で、奴がどうして物体Aとおたまを手にしたのかは、全く理解できないんだけど。
私は奴を手足にすることを早々に諦めて、ミンチをボウルに入れると、刻んだキャベツとにらと混ぜてこねることにした。塩こしょうはどこかしら……ああ、目の前にあったわ。
「なんだ、これではないのか」
「いいわ、あんたにもできないことがあるってわかったから……そうだ、食器出しといてくれる?」
塩こしょうしながら、まだ物体Aとおたまを持っている男に頼むと、私は『皮餃子』のあんをこね始めた。奴にも食器くらい出せるわよね。
さて、あんに適度な粘りが出てきたところで、鶏皮を適度な大きさに切ってあんを包みましょう。
あんが洩れないように厳重に包んでね。
『水溶き片栗粉』なんかで糊をするといいんじゃないかしら。『つまようじ』で留めてもいいかもしれないわね。
そして、揚げ油を探して……下の戸棚に発見! 上の戸棚から揚げ物に使えそうな鍋を出してきて、いよいよ揚げにかかります。
油の温度はどのくらいがいいかしら、適温でいいわね。あとは、鶏皮がきつね色になるくらいにさっと揚げたら……
できあがりー!
ただでさえ熱量高いから、よーく油を切ってと。
さ、これでお皿に美味しそうに盛りつければ……って。
「ちょっと!」
「なんだ、騒々しい」
私はまたソファにふんぞり返って本を読んでいる臣下を振り返った。
「なんで餃子盛りつけるのに、すり鉢が置いてあるのよ!」
「大量にできるなら、そういうものに入れた方がよかろう」
「そんな大量にできないわよ! それにすり鉢に餃子入れるって、どういうセンスよ。
あんたいつも食べさせてもらってるお店で、『皮餃子』がどんなお皿に乗って出てくるか、覚えてないの?」
自分に都合の悪いことは聞こえない鶏皮宰相は、黙って腰を上げると、お手洗いに向かったようだった。
許せないわ、私の力作をすり鉢ですり潰すつもりなわけ? ご丁寧にすりこぎまで置いてあるし。どういう神経してるのかしら、あいつは。
私は勝手に食器棚を物色して、少ない食器のなかから、普通のお皿をすぐに見つけ出した。
私特製ぶっつけ本番『皮餃子』は、それはそれは美味しくできあがった。
私が持ってきた重箱の中身も、もちろん綺麗にからっぽになって。
製作途中、何か乙女ちっくなアクシデントはあるかと内心期待……じゃない、かなりどきどきしてたのに、そんなものはまるでなかったわね。
え、乙女ちっくな展開って何か、って?
それはもちろんこうよ。
私が鶏皮に『皮餃子』のあんを詰めてるところに、その可憐で新妻ちっくな姿にどきっとした誰かさんが、後ろから抱きしめてきたりとか。
鶏皮を切ってるときに指を切っちゃって、『いたっ』なんてかわいく言ったら、誰かさんが『大丈夫か?』とか言って指の血を吸ってくれたりとか。
上の棚にある鍋を取ろうとして脚立に上ったら、脚立から落ちて、下にいる誰かさんの上に倒れこんじゃったりとか。
そんなアクシデントがね、ちっとも全く微塵もなかったわけよね。
やっぱり、誰かさんと私で色っぽい展開になるなんて無理なんだわ。さっきのあれは、もしかしたら相当奇跡だったのかもしれない。
そりゃね、そんなアクシデント、ぽんぽん勃発されても困るんだけど、女王とはいえ私だって普通の乙女。想像するくらいしたっていいわよね……
「おまえにも芸があったのだな、うまかったぞ、また作れ。材料は常備しておくようパトリシアに言っておく」
鶏皮のぱりぱり感ともっちり感、そしてあんのジューシーさをうまく引き出せたおかげか、『皮餃子』は鶏皮宰相にも大変ご好評だった。
やっぱり、短時間でからっと揚げたのがよかったのかしらね。揚げ油見つかって本当によかったわ。
ところで鶏皮宰相、今なんかのたまったわね。材料を常備しておくって。
「それって、また作りに来いってこと?」
「当たり前だ」
鶏皮宰相はなに食わない顔で言うのだけど。
『皮餃子』に夢中になって忘れかけてたわ。
つまりその……これから、私とこいつは、どういう方向に進んでいくのかしら。奴は私のこと、どう扱っていくつもりなのかしら。
そうよ、あの奇跡的に色めいた雰囲気をぶち壊して、こんな展開にしたのは奴なんだもの。じっくりみっちり話し合っておかなくちゃいけないわ。
「で、でも、いいのかしら。女王がこんなお気楽に臣下の家に来たりして。
そもそも、今日私が来なかったら、氷室の中身どうするつもりだったの?」
ユートレクトは『皮餃子』に浮かれていた(と思う……あんまり顔には出てないけど)気を切り替えるように、一つ息を吐くと私の顔をじっと見た。
「なによ、私、変なこと聞いた?」
「いや、本当におまえは読みやすいと思っただけだ」
『読みやすい』という言葉に、自分の気持ちが恐らく彼に知られていたことを思い出してしまって、また恥ずかしくなった。
けど、本当はどうなんだろう。
本当に奴は、私の気持ちを知ってて家に呼んだり、私を困らせることを言ったりしたのかしら。
だとしたら、どうして私に告白させるようなことを言わせようとしたのか、やっぱり気になってしまう。
頬が熱くなるのを冷ますように顔を振ると、私は食器を片付けることにした。
「ど、どうせ私は単純よ、悪かったわね。単純な私には、複雑骨折したあんたの考えなんてわかんないんだもの、しようがないじゃない」
「本当にわからないのか」
真剣な響きの声に、食器をまとめていた手が止まった。
「おまえは自分が惚れた男が何を考えているか、想像したこともないのか」
想像も妄想もいやというほどしてる、さっきだって今だって。
でも、本当の本当の気持ちは、当人じゃないとわからない。これは『惚れた男』じゃなくたって、誰だってそうだと思う。
「そ、そんなことない、でも」
「でも、なんだ」
「私の想像で合ってるかどうかなんて、自信ないもの」
また私は彼を怒らせることを言ってしまったのかと思うと、少しずつ不安がこみあげてきたけど、嘘をついても仕方のないことだから正直に言うしかない。
「それに、本当にわからないことだってあるし」
「何がわからないのだ」
どうして私に気持ちを言わせようとしたの? 知ってるなら言わせなくてもいいじゃない、いじわる。
好き、と言ったときは恥ずかしくなかったけど、家を飛び出したときは、本当に恥ずかしかったし頭にきていた。
とてもばかにされてるような、遊ばれているような気がして。
そう考えると、もしかして今も遊ばれてるのだったらどうしよう、なんてことも頭をよぎってしまう。
こんなことじゃだめなのに。
これから先、どうなるかわからないけど、今はもっとわかりあって近づきたいのに。最初から疑ったり不安なままなんていやだから。
「どうして……」
不安なら、思い切って聞かなくちゃ。
「どうして私に告白させようとしたの? 知ってたんでしょう、私が……好きだってこと」
それでも教えてくれないなら、不安な気持ちを打ち明けて、とにかく心を開かなくちゃ。
そんなこと聞くなって怒られそうな気もした。俺の考えていることもわからないのか、って。
だけど、ユートレクトの表情は意外なくらい穏やかだった。
むしろ嬉しそうにすら見えて、私はわけがわからなくなった。
「おまえと同じだ」
水色の瞳が微かにいたずらっぽい光を見せた。
「言葉が欲しかった」




