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心の行く先2

***



 ユートレクトの自宅は、王宮近くのわりと裕福な人たちが暮らしている地区にある。

 一国の宰相の邸宅にしては小さな家だけど、一人暮らしの男性には十分な大きさだった。

 三階建てで、一階に応接間と食堂と水周りがあって、二階が書斎と寝室、三階に客間があるらしかった。


 らしかった、というのは、私は彼の家を間取り図でしか知らないから。

 彼を宰相に登用した時、官吏が探してきてくれた家の中で、一番小さなものが今の彼の住処だった。

 もちろん中に入ったことは一度もなかったし、家の前を通ったこともなかった。今日までは。


 彼の言葉と行為にずっと心を震わせながら歩いていても、その背中からは目を離せなかった。

 家に着くまできっと彼は振り向かないだろうということが、なんとなくわかったからだと思った。


 なぜだかわからないけど、いつものように毅然として見える後姿が、少し離れて歩いているのにとても近いように感じた。それが本心に近づける兆しのように感じて……ある決意をした。


 勝手な思い込みだということはわかっている。

 また自意識過剰だとか言われたら、落ち込んでしまうに違いないけど。


 今度こそはっきりさせようと思った。彼の気持ちを、これからのことを。


 全部私の勘違いならそれでいい。

 私に異性としての興味がないと彼の口からはっきり聞けたなら、思いも昇華できるはず……ううん、『はず』じゃなくて、本当になかったことにしなくちゃいけない。

 きっと彼も、私の心を躍らせるようなことは、今度こそ二度としなくなるだろうし。


 勘違いじゃなくて、もしも心が通じ合っているとしたら、その方がきっと難しい。


 けど、私の女王という立場はわかってくれているだろうし、彼も自分の立場を理解していると思う。

 私の中でいい答えは出ていないけど、二人で話し合って向かう方向を決められたら、それだけでも前進したことになると思う。結ばれる道……婚姻関係にはならないとしても。


 それに、もしも思いを交わすことができたら、たとえ結ばれなくても、彼に異性として接することができる。

 いやらしい意味じゃなくて、あの夜みたいなことがあっても、黙って手を握ったり、抱きしめてあげられる。

 今よりは力になれる、こんな私でも。

 偉そうな言い方なのかもしれないけど、好きな人の力になりたいと思う気持ちは、どうしても消せなかった。


 そう、何もかも中途半端なまま、自分を振り回すのは終わりにしなくちゃ。

 このままずっと、こんな辛い思いを引きずるくらいなら、今心が壊れるくらいの思いをしてすっきりした方がいいもの。


 こんなこと話して、変な奴だと思われたって仕方がない。

 たとえ私の思い込みだとしても、勇気をくれたことを感謝したいと思う。

 このまま曖昧なままにしていたら、ずっと、一生後悔すると思うから。


 いやな思いをさせることになるけど、ごめんなさい、今日で終わりにするから許して……


 おおやけの立場を考えても、ふらついた心のままではいられなかった。


 『世界機構』のことはもちろん大変だし、『中央大陸縦貫道』の分岐道建設のための交通調査も、本格的に動き出してる。

 他の執務もこれから春にかけてもっと忙しくなる。

 私の病気だって早く治したい。

 そのためにも、女王としてしっかりしなくちゃいけない。せめてこの人にふさわしい主君になりたい。


 私の思いがどうなったとしても、主君と臣下としてこの人と歩くことに変わりはないんだもの。

 私がこんなことを言っても、それを理由に私から離れる人じゃないことだけは信じられたから。


 忘れよう、清算しようとして、何度果たせないできただろう。

 結局、一人では解決できなくて、自分がとても情けないけど。


 お願い、私の勇気、どうかこのまま消えないで……


 ただの庶民だった時には縁がなかった地区の、整備された歩道を何度か曲がると、見覚えのある住所の表示が見えた。南二番街……ユートレクトの家がある地区に入ったみたいだった。


 大きな家が多いせいか、家々から洩れる灯りも多く、歩道を明るく照らしてくれていた。

 このあたりは真っ先に除雪作業が始まるところなので、足元には凍りついた雪もほとんどなかった。


 ほどなくユートレクトが手をかけた門扉の奥では、丸い灯りが玄関先を照らしていた。

 周りの家々の灯りより慎ましいけど温かな色の光が、怖気付きそうな心を慰めてくれた。


 音をたてずに開けられた門扉の手前で、思わず足を止めそうになってしまったけど、ここで立ち止まったらまた怒られそうな気がしたから、固まりそうになる足に心の中で鞭を振って無理やり動かした。


 玄関の扉の前でも足がすくんだけど、暗かった家の中に灯りがともされると少し安心した。

 張り詰めていた緊張の糸が僅かに解かれたような気がして、悟られないように息を静かに吐き出すと、意を決して始めての空間に足を踏み入れた。


 家の中は、ここに住まう人から想像するよりも、温かな雰囲気に包まれていた。


 一階の応接間と食堂とを区切る壁の類はなくて、二つの空間はひとつながりになっていた。

 白い壁と天井を伝う柱と梁の色は、年代を感じさせる深い飴色で、どことなく懐かしい感じがした。

 調度品も華やかなものやきらびやかなものはなく、飾り気のない素朴な作りのものばかりだった。

 ローフェンディア王宮の彼の私室とは、かなり違う雰囲気だったけど、私にはこちらの方が親しみやすかった。


 どこにでもいいから座っていろと言い残すと、ユートレクトは階段を上がっていった。


 私は応接スペースのテーブルに重箱を置くと、ソファの端に浅く腰かけた。

 コートをまだ脱いでいないことに気がついたけど、長い時間いるつもりはなかったから、そのまま着ていることにした。


 しばらくすると、煉瓦造りの暖炉から薪のはぜる音と炎の揺らめきが起こって、あたりを優しく包んだ。


 見ないように、記憶に残さないようにと気をつけていたのに、もうたくさんのことを目にしてしまっている自分に、どんな言葉をかけたらいいのかわからなかった。


 お土産をもらって、思いを聞いて、早く帰ろう。だって……


 やっぱり、変な奴だと思われるに決まってる。

 考えてもみたら、好きな相手にあんな怖い顔するはずないんだもの、何を少しでも期待してるんだろう、私、どうかしてる……


 暖炉の中で踊る炎を見つめながら、そんな思いばかりが頭を駆け巡っていた。



****



 やがて降りてきたユートレクトは、右手に何かを持っていた。黙って私の後ろ側に立つと、飾り気のない包みを差し出した。


「ありがとう、開けてもいい?」

「その前にコートを脱げ」


 いつもだったら、


『脱がないわよ、そんなに長居したら、ここの人の何かが感染しそうだもの。本の虫病とか』


 なんて冗談も言えるのに、今はとてもじゃないけどそんなこと言えなかった。


 私は仕方なくコートを脱ぐと、畳んで膝の上に置く前に家の住人に取り上げられて、玄関先の上着かけに吊るされてしまった。

 それがなぜか自分の服を彼に脱がされたみたいに思えて、少し恥ずかしくなった。

 こんなことを考えるなんて、やっぱり私はどうかしているのだと思う。


「……ありがとう」


 座り直す前にもう一度お礼を言うと、言われた方は先に腰を下ろして、早く座れと言わんばかりに私を見上げた。


 私はまたソファに座ると、飾り気のない、屋台で作っているお菓子でも入っていそうな茶色の包みを開けた。


「わあ……!」


 手にしたものの美しさに、思わず声を挙げてしまった。

 包みの中に入っていたのは、私がいつも使ってるのと同じくらいの大きさの髪留めだった。


 透明な青と白の小さな石が交互に並んでいて、石と石の間には、更に小さな金と銀のビーズがあしらわれている。とても精巧な作りで上品な意匠の、綺麗な髪留めだった。


「ローフェンディアの女性の間で、その類の髪留めが流行しているらしい。適当に選んできたから、趣味に合うかどうかは知らん」


 そうは言うけど、私がいつも使っているものと同じくらいの大きさで、それでいてこんなに綺麗で上品なものを、適当に選んできたとは思えなかった。

 愛想のない口調も、かえって言葉を裏切っているように聞こえた。


「ありがとう、すっごく綺麗! つけてみてもいい?」


 私のことに少しでも時間と気持ちを割いてくれたことが、純粋に嬉しかった。

 黙って頷いたユートレクトが、私の髪留めを付け替える姿を見ているのに気がつくと、また恥ずかしくなった。


 いつも後ろで留めているから、どんな風におさまっているのか自分では見えなくて、彼に見てもらおうかと思ったけど、なんだか恥ずかしくて言い出せなかった。


「うん、ちょうどいい感じに留まってるみたい。本当にありがとうね」


 それだけ言って、今までつけていた髪留めを茶色の包みの中にしまった。


 でも、どうしてお土産なんて買ってきてくれたんだろう……と考えかけて、前の『マロ食』からの帰り道でのことを思い出した。


 私が彼に言われていながら忘れている……もしくは、覚えているかもしれないけど、あのときの話の流れとは関係ないと思って気にかけていない言葉。


 それを出発前までに言い当てることができたら、ローフェンディアでお土産を買ってきてくれる、と言っていたことを。


 だけど、結局わからないままで、出発前の夜もあんなことになってしまって、言い当てられなかったのに。


「一つは当てたからな、約束は約束だ」


 考え込んでいると、横から私が不思議に思っていることを見抜いているような声がした。


「え、でも私、わかんなかった」

「出立前の夜」


 そう言われても、あのときはとても悲しくて……悲しかったことしか覚えてないし、そんな楽しげなことを考えてた記憶は、どこを探しても出てこなかった。

 私が自分の記憶の中でおろおろしていると、


「何を言ったか忘れたのか、まあいい」


 怒られると思って心の中で一瞬眼をぎゅっと閉じたけど、そう言った声は怒ってはいないようで安心した。


 でも、いつもなら、


『忘れたのか、ならば土産を渡す義理もないな。その髪留め、今すぐ返せ』


 とでも言いそうなのに、そんな軽口は継ぎそうになかった。


 ユートレクトは私から視線を外すと、暖炉の炎に目を向けた。

 私もどうしたらいいかわからなくて、薪が崩れていくのを目に映して……


 どうしたらいいかわからない、なんてことはなかった。

 彼の用事は終わったなら、私の話を聞いてもらわなくちゃいけない。


 決意したのに、いざとなると声が出てこなくて、喉をかたくなに塞ぐためらいの蓋をこじ開けようとしていると、


「あのときは、すまなかった」


 少しだけ何かに揺らいでいるような声に驚いて、となりに座る人を振り返った。

 薪のはぜる音があたりに大きく響いた。


 信じられなかった。

 他の人にならともかく、この人が私に謝ることなんて、もうないと思っていたから。


「何があったかは必ず話す、時間をくれ」


 意志を改めて固めるかのような、穏やかだけど強い気持ちを感じる声音に、どうして彼が私をここに連れてきたのか……このことを言いたかったのだとようやく気がついた。


 自分の感情をあらわにした姿を見せるのが、恐らくすごくいやなはずの人が、このことを私に言うためにどれだけ葛藤したかと思うと、強引だったり怖かったりした言葉や行為を責める気持ちは消えていった。

 それでも、言い争ったとき最後につぶやいた言葉が、どうして悲しそうに感じたのかはわからなかったけど。


「いいよ、無理しないで。よっぽど辛いことだったんでしょう。私のせいでいやなこと思い出してほしくないから……ね?」


 そんな風に思い悩まないと話せないことを、無理に話してもらいたくなかった。

 あんな顔はもうさせたくない、私のためになら尚更だった。


「いや、約束は果たさなくてはならん、このままでは俺は虚言を吐いたことになる。それは自分が許せない」


 決意の固い声に、これ以上何か言ってもこのことに触れる時間が多くなるだけで、その分また辛い思いをさせてしまうと思った。心配だけど、この話はもう終わりにした方がいいんだろう。


「わかった……じゃあ待ってる」


 話さなくてもいいからね、いつでもいいからね、なんて言っても聞かない人だということもわかっているから、これ以上反論させるようなことは言えなかった。


 これで彼の用件は全て終わりのはずだった。

 今度は私がお願いする番だった。

 また喉が重くて硬い蓋に塞がれてしまった。


 この人に対する恥ずかしさと怖さは、いつも私を怯えさせて何もできなくしてしまう。

 だけど、言わなくちゃ。せっかく決心できたんだから。


 喉を塞いでいる重い蓋を投げ捨てると、熱を持ったおもりのように心の底に落ちていった。落ちた衝撃が鼓動を早め、触れたところから熱が伝わって全身を熱くしていく。


「あのね、まだ時間……話してもいいかな」


 やっとの思いで出した声は、とてもいつもの声とは思えない、高さの不安定なものだった。


「なんだ」

「聞きたいことがあるの」


 それでも、ここまで来たら引き返すなんてできない。


「言ってみろ」


 感情の読めない、いつもの冷静すぎる声がむしろありがたかった。

 ここで不審そうに問いただされたら、きっと言えなくなるに違いなかった。


「こ、こんなこと聞いて、本当にごめんなさい、私……」


 私のこと、どう思ってるの?


 その言葉は、私には大胆すぎて口にできなかった。

 けど、この台詞も恐らく大差ないのだと思う。


「あなたにとって、私は……なに?」


 さっきから話しながらずっと、考えられる限りの反応を思い描いていた。

 どんなことを思われても言われても、泣いたりしないように。

 その中で有力な反応の一つが、長い沈黙だった。


 今その沈黙が押し寄せて、私を深い後悔の海に引きずりこんでいた。


 ごめんなさい、こんなこと聞いて本当にごめんなさい。

 でも、確かなことがわからなくて、本当のことを知りたくて。

 もうこんなこと聞かないから、どんな言葉でもいいから答えて……


 どんな言葉でもよかった。

 蔑みでも罵倒でも、『帰れ』の一言でも。


 よかったのに。


「なに、とはどういうことだ」


 全く予想していなかった返答に、一瞬何を言われたのかわからなかった。


「え……」

「女王だとか、不出来な弟子だとか、今更そういうことを聞きたいのか」


 いつもと同じ冷静すぎる声からは、相変わらず何も読み取れなかった。

 けれど、何かいやな……考えてもいなかったことを言われるような気がして、だんだん身体が震え出してきた。


「ち、違う、私は」

「俺が今のおまえをどう見ているかということを聞きたいのか」


 その口調は事務的に主君としての私を見るような感じで、今の私の気持ちとは全く逆の場所に立っている声だった。


 違うの、そんな仕事みたいなことじゃなくて!


 どうして? どうしてそんな風に思うの?

 私の聞き方が悪かったの?


 そんな風に言われたら何も言えなくなる、私のこと……女性としてどう思っているの、なんて浮ついたこと聞けない。聞いたら絶対に怒られる、呆れられてしまう。


 やっぱりこんなこと聞いちゃいけなかったんだ、この人は私のことを、ただの主君としか思っていないんだもの……


 なんとか灯し続けてきた勇気の火が、消える音が聞こえた気がした時だった。


 抜け殻みたいになっている私を、水色の瞳がまっすぐに捉えた。


「ではおまえは俺をどう思っている。それを先に聞かせてもらおうか」

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