キョウフ。
僕が一番怖いことを盛り込みました。
読んで貰えたら嬉しいです。
……暑い。
誰と話していたんだろうか?貴人は思い出せなかった。でも、確かにあの時、遊園地のメリーゴーラウンドで僕は話をしていた。息子の貴仁について。
「準備が出来たら、ここにきて。」
確かにそれはそう言った。準備は出来たのだろうか?嘘のように明るい満月の光の中にきひとはいた。もったりとした熱帯夜の空気が病室を覆っていた。窓は開けられ、夜風がカーテンをくすぐっている。それはいつまで経っても、動こうとしないきひとを誘うようだ。彼はベッドの中にいた。蒼く白い光に包まれている。驚く程沢山のモニタリング装置がきひとに付けられていた。
……とてもじゃないけど準備は出来てないな。
彼は、遊園地で倒れて病院に運ばれたのだ。熱射病だろうか?心労だろうか?とにかく意識を失い、倒れた。たかひとが消えてしまってから、遊園地は勿論、毎日あちこちを探していた。
……たかひと。君は一体どこに?
月に呟き目を閉じようとしたきひとは、ふと気がついた。モニタリング装置の電源が、消えている。夜間だからだろう。と言うことは、こっそり機器を取り外して、少しの間外出して……そう、例えば、メリーゴーラウンドの下に行ったとして……も問題ないだろう。きっと誰も気づかない。窓は開き、カーテンが誘う。ゆらゆら。ゆらゆら。おいでおいで。
……そうだ。約束したんだ。
きひとは装置を外し、服を着替える。妻がパリッとしたシャツとスラックスを用意しておいてくれていた。柔軟剤の優しい香りがした。病室を抜け出す前に何も問題ない事を確認するためにきひとは振り返った。愕然とする。ベッドに近づいて更に驚いた。
「2017年……??」
サイドテーブルの新聞が今を告げていた。2017年。ああ。一年経っていたのだ。なんてことだ。もう、一年も経っていたのだ。あああ。たかひと、たかひと……。
◆
……暑い。
真夏の日差しの下、長い長い口説き文句を延々と聞き流していた枸杞だったが、男が言ったダメもとの一言を聞いて、口説かれて見る事にした。
「……でさ、観覧車から出してぇ、出してぇ……って聞こえるらしいんだわ、これが。」
くこと呼ばれた女性はくるりと振り返り、返す。
「じゃあさ、そのデニランドの管理者が事故死した話って知ってる?」
手応えを感じた男は大喜びだった。くこの横を歩き、調子に乗ってあれこれと話し続ける。
「あはははは。詳しいね。知ってる、知ってる。あの頃、デニランドで何人か行方不明になったって噂が流れたせいか経営がかなり悪化して、借金苦から自殺したんじゃないかって言う人もいるけど……本当は、観覧車の幽霊に取り憑かれて死んだって言う人も多いよ。ね、今度、肝試しに行こうよ。あそこって、他にも色々噂あるし。あ、でも、夜はやだから。怖いもん。昼に行こうよ。ね?どう?」
「いいよ。」
くこは承諾した。連絡先を交換して、男と別れた。男の背を見送った時、一瞬、世界が沈黙したように感じた。どこかで何かが不可逆的な反応を起こしたような気がした。
(……でも、これまで通りじゃ何も進まない。何か違う事しなきゃ……。)
太陽はその光の圧力を強め、蝉さえも鳴くことを止めた。熱で風景が歪む。風は凪いで、真夏の午後はだらだらと過ぎていった。
◆
「あ!お金!お金たくさん!!ほら、お父さん!」
たかひとはきひとに言った。観覧車の蒸し暑さに辟易していた彼は気のない返事をした。そうだねぇあるとこにはあるよねぇ。お父さんの財布には無いけどねぇ。でも、たかひとはどうやら本当にたくさんのお金を見たらしく、観覧車を降りた後もその話をして、まだ、落ちているかもしれないから拾いに行こうと言った。どちらにしろ、たかひとの相手をしなくてはならないきひとは、息子の言うとおりにした。でも、たかひとの言った場所には何もなかった。遊園地の外れにあるトイレの裏側の休憩所だ。陰気な場所で臭く、誰も居なかった。
「あのね、あのね。ここでお金がぶわーってしたの!僕見たよ。サラリーマンの人がサラリーマンの人から鞄を受け取って、それでお金を落としたの!あ!うっひょう!」
うっひょうって、何だよ?誰が教えたんだよと、思うきひとをよそに、たかひとは目ざとくベンチの脇の茂みの中に一万円札を見つけ出した。子供の低い目線だからこそみつけられたのだろう。驚きながらも、きひとはその気になって、膝を付いて探そうと……サラリーマン。大きな鞄を持っている。トイレの向こうから、こちらを見ている。何だか背筋がざわざわする目つきの男だった。そのサラリーマンはすぐに人ごみに消えた。
「たかひと。もう行こう。拾ったお金は落とし物の所に届けなきゃね。」
きひとは不安を感じて、そう言った。嫌な予感がする。これは良くないお金だ。きっと。手元に置かない方がいい。たかひとは元気良くお利口に返事をした。無事、お金を届けたたかひとは、次はミラーハウスに行くのだと張り切りだした。
◆
「たかひと!たかひと!!」
きひとは叫んだ。遊園地中の人がきひとの方を振り返る。にこにことミラーハウスに入ったきひとは、出てきた時は別人のように取り乱していた。まるで中で別人と入れ替わったみたいに。顔面は蒼白で泣きそうになっている。たかひとはほんの数歩先を走っていた。ミラーハウスの中で通路の角を曲がり、一瞬、本当に一瞬だけきひとの視界から、消えた。そして、それが最後だった。不安に駆られながらも、小走りで出口に向かったが、たかひとはいなかった。途中の通路にも、ミラーハウスの出口にも。きひとは叫んだ。たかひと、たかひと、と。まるで狂ったように取り乱し、叫んだ。きひとの頭の中には何故か先ほどのサラリーマンの姿が浮かんでいた。それは、不吉に引きつり笑いを浮かべていた。
◆
……暑い。
デニランドのアクアツアーの水路には、川の水が引き込まれていた。だから廃園となった今も水が流れていた。一応水門は設けられていたが、何度閉じても、誰かが開いてしまうのだ。くことナンパ男の貫太は棄てられたボートを浮かべ、水路を進んでいた。
「……デニランドが潰れる前からこのアクアツアーの水路には何かが住み着いているって噂があったんだ。川と繋がっているから、川の主が迷い込んでしまって、お腹を空かせた主がツアー客を水路に引きずり込んだんだって。」
言いながら、貫太は折れたオールで器用にボートを操る。
「ほら、見て。あそこ。あのトンネルの中にそれは住み着いているんだって……。」
くこを怖がらせようと精一杯の声色を使ったが、効果はなかった。くこは、くこはそう、もう恐ろしいと思う事は無いと考えていた。もうあれ以上の事は。回想に沈むくこはふと世界か暗くなるのを感じて、驚く。貫太はそれを見てニヤリとする。ボートがトンネルに、入ったのだ。
「ねえ、ライトとか無いの?暗くて何も、ちょ!止めてよ!ねぇ!いや!や!」
貫太の手が服の中に入り、胸を揉んだ。暗がりに白い、くこの胸が浮かぶ。貫太は息を荒くする。くこは逆らおうとするが、力ではかなわず、貫太に抑え込まれる。貫太は(いいでしょ?ね?ね?)と言い続け、一旦、浮かんでから、水路に落ちた。くこは呆気に取られた。
(……今、一瞬、浮かんだ……よね?)
驚く、くこの首を貫太ではない何かが掴んだ。貫太より更に力強い何かが首に絡まる。くこが逆らうより早く水路に引きずり込まれた。真っ暗で温い水路で首を絞められるくこは一瞬で意識を失った。
◆
……暑い。
今、きひとは廃園となった夜のデニランドに来ていた。閉鎖された正面ゲートを乗り越えて正面の広場の入り口に来ていた。広場の中心には、メリーゴーラウンド。真夜中にも関わらず、照明は愉しげに踊り、音楽がふわふわと漂っている。誰も乗っていない白馬は軽やかに跳ねている。
「変わらないなぁ。」
きひとはのんびりと呟いた。何故かその声には、絶望が、諦めが染み渡っていた。そして、微かに、恐怖。それでもきひとは進む。メリーゴーラウンドに向かって。
……めりぃぃ、ごおおおおぅ!らぁあんうんど!
上機嫌な叫び声が響く。声に吸い込まれるようにきひとは進み、遂にメリーゴーラウンドの側まで来た。ああ。そうだ。今、完全に思い出した。変わっていない。本当に。あの時もそうだった。たかひとが消えて、日中の遊園地を探し尽くして、ああ。そう。噂を聞いたんだ。幾つもの。噂。その中に深夜の遊園地で無人で回るメリーゴーラウンドがあった。そのメリーゴーラウンドは全てを知っているって、噂。そうだ。それで、僕はここにきて……
「久し振りだなぁ!きひと!ようこそ!我々の世界に!漸く、戻ってこれたねぇ!最近の医学も大したもんだよ、本当!」
明るく勢いの良いメリーゴーラウンドにきひとは返す。
「なにその嫌み。やっと、思い出したよ。もっと早く来たかったな。」
恐怖を押し殺し、きひとが話かけるそのメリーゴーラウンドは異質だった。それは隠世に属する存在。この深夜において更に世界は暗転する。
……そう。世界はどれだけでも、暗くなる。世界は暗転を繰り返すのだ。
きひとは闇に飲み込まれるのを感じた。メリーゴーラウンドは回る。華やかな装飾が施され、煌びやかに光を放っていた。無数の瞳が。メリーゴーラウンドの唐草的な装飾の隙間に瞳が埋め込まれていた。どれもこれもまばたきを繰り返しながら、瞳孔が開ききっていた。それらは自由に動き回る。古くなり始めている本体部分はあちこちひび割れ、その裂け目から赤い液体と悲鳴を漏らしていた。ぶんちゃーぶんちゃーぶんちゃーと、アコーディオンがキグルイの陽気さを持って、鳴り続ける。ぐるぐると回る馬やライオンや白鳥は身体を槍で貫かれ、血を流しながら、泣き笑う。錆びた槍で腹を貫かれる度に血を吐き苦痛で飛び跳ねる。そして、その瞳は人間の瞳だった。口もまたそう。苦痛に冷や汗をかきながらそんな素振りを見せず、メリーゴーラウンドの馬達はおしゃべりを続ける。目は笑っていない。
「きひと!約束を果たそう。君がこうして来てくれたから。さぁ!何から聞きたい?我々は何でも知っている!」
きひとは陽気な音楽と笑い声の中、死んだように冷たく光る無数の瞳に見つめられ、喉がひび割れていくのを感じた。声が出ない。今更情けない話だが、帰りたかった。病院に。あの詰まらないベッドの中に。きっと、このめりーごーらうんどが話す事は不吉で禄でもない話だ。聞かない方がいい。きひとはその旨を伝えようとでも、渇きひび割れた喉では声が出せなかった。
「ああ!大丈夫!きひとの知りたい事は前に来た時に聞いていたから。あれでしょ?」
止めて。違う、もういいんだ。いやだ。
「たかひとの居場所でしょ?」
違う!知りたく無い!僕はもう帰るんだ。
「え?知りたく無いの?本当に?」
不意にきひとの気持ちが馬に通じた。馬は残念そうだ。でも、いいんだ。これで。これら異常の者から話を聞くべきではないのだ。帰ろう。病院に。そうだ。自分でちゃんと探すんだ。たかひとの事は。たかひとはきっと、僕が見つけてくれる事を待っている。どこかで。たかひとはいつもと変わらないかわいい笑顔は腐ってしまってるよ。もう、虫のせいで穴だらけ。かわいいほっぺもぐずぐずで目玉も無くなっちゃって、それでもまだ死にきれずに毎日苦しんでいるよ。きひとが見つけてくれないから。お前が悪いんだ!早く助けてやれよ!たかひとは今日も今も、観覧車に閉じこめられて、叫んでいるぞ!出して!出して!出して出して出して!!!
めりーごーらうんどは回り、愉しげな光と音楽を周囲に振りまく。それを見ながらきひとは立ち尽くし、気をつけの姿勢のまま、恐怖に、絶叫していた。
◆
うあああああぁぁ。。。
誰かが叫び泣いていた。猛烈な苦しさで吐いた。汚い水が大量に吐き出された。床は綺麗にコーティングされている。つるつるだ。ひとしきり汚水を吐き出した後、くこは顔を上げた。目の前には半魚人……に見せかけたウェットスーツがあった。そこでようやくくこは何者かに水路に引きずり込まれた事を思い出し、慌てて周囲を見渡した。周囲の壁は鏡張りだった。映し出された自身の姿を見て、恐怖した。裸同然の姿で両手両足を拘束されていた。貫太は更に酷い。完全に裸にされた貫太は右手を床から出た杭に貫かれ、繋がれていた。指は潰され、右目が……くこは見ない事にした。その方がいい。貫太は意味不明な悲鳴を叫んでいる。とても正気には見えない。貫太の後ろには半開きのドアがあり、その奥は冷凍庫で……くこはそれも見ない事にした。
「お。生きてたか。くこちゃん。」
くこの背後で声がした。名前を呼ばれたくこはぞっとなる。どうして名前を?身体を捻るとゴム長ゴム手にゴムエプロン姿の眼鏡男とはげでデブで全裸の大男がいた。全裸の男は赤黒く汚れたソファーに座りくこのスマホを触っていた。スマホの登録情報から名前を知ったのだ。全裸の男は女性の人差し指を持っていた。
あああああああああああああっ!!
くこは叫んだ。背後で拘束された手が、指が痛む。
違う違う違う。そんな事ない。違う違う。
くこは自分に言い聞かせて、なんとか正気を保とうとした。エプロン姿の男は、何に使うのか想像したくない大きな刃物を両手に持っていた。それに気づいた貫太の叫びは益々悲痛で狂ったものになっていく。
「本当、ついてるよ。ちゅぱ。今日は地下拷問室の最後の日だったんだよね。ちゅぱ。もう、お客さんを迎え入れられないとおもってたんだけどさ。ちゅぱ。」
ハゲでデブで全裸の大男は、ハイトーンの美声でくこに話かけた。くこは必死だった。痛みを堪えながら、その異常な男を見ないように。男は何かを右手の中で弄び、時々、口に入れてしゃぶり、また、右手に戻した。
……ところで貫太の右目は?
ハゲでデブで全裸の男はソファーに座ったまま、ちゅぱちゅぱちゅぱ。くこは必死だった。そっちを見ないように。全裸の男はピンポン玉的な何かをしゃぶっていた。白いだけでなく、黒い模様の入ったそれを。時折、ピンポン玉的な何かを噛み潰してしまい、全裸の男は舌打ちをしながら溢れ出す汁を味わい啜った。彼の右手には幾つもの玉がある
順番に舐めまわし、啜る。
「でね、まぁ、ちゅぱちゅぱちゅぱ。色々と人攫いのからくりをちゅぱちゅぱ盛り込んだんだけどさ。ちゅぱ園長ちゅぱがもうちゅぱいやだちゅぱとかちゅぱいってさ。まぁ、残念だちゅぱったけどマタベツノトコロデやればちゅぱいっかちゅぱ、ってちゅぱ感じでちゅぱさ。ね?」
どうみても初老のその大男は、思春期のハイトーンと、落ち着かなさで、くこに話しかける。唐突にスマホのコール。くこの携帯から。凶人はためらい無く出る。
「はい。くこちゅぱです。ちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱちゅぱ。はい、はい。ちゅぱいらないです。ちゅぱちゅぱ捨ててちゅぱ下さい。あー煩い。」
凶人はくこのスマホを投げ捨てた。壁にぶつかって砕ける。数秒の間スマホは機能し、全ての生命維持装置の電源は切られて、外され、葬儀の準備を進めていることを伝えて来たが、やがて停止した。
……葬儀?くこの愛らしい瞳が限界まで開かれる。
「僕は面倒くさいのが本当に嫌なの。死んだんなら捨てちゃえば良いのに。そんなことも解らないなんて。」
死んだ?くこは凍りついた。くこは反射的に全裸の男を凝視した。
「あ。病院から。いまわなナンとかさんが死んだってさ。大丈夫。捨てといてってお願いしといたから。しかしちゅぱ、やっとちゅぱちゅぱこっちちゅぱ見てくれたね。ちゅぱくこちゃん。」
死んだ?死んじゃったの?ねぇ……あぁ……
くこの中にドロリとした絶望が広がった。全裸の大男は、急に真顔になり。くこにお願いする。
「ね?もうここまできたんだから、いいよね?好きにしてもいいよね?」
男が言い切った後は、ピンポン玉的な何かをしゃぶる音だけがこの部屋に響いた。くこは絶望と恐怖で身動きが取れなかった。ハゲでデブで全裸の大男はゆっくりと立ち上がった。くこはそちら見ないように必死だったがゴムエプロンの男がくこの髪を鷲掴みにして、大男の下へと引きずった。結束バンドで手足を縛られたくこには逆らう事が出来なかった。
「あぁぁぁ……いや。やめ、止めてくだ、
遠くから。とおおおおおおおく、から、何かの音が聞こえた。金属の車輪がブレーキで軋むような甲高い音だった。自分だけが聞こえているのかも。何の音なのかも解らなかったが、くこは直感した。
……ああ。この音が消える時、あたしはちゅぱされて、ちゅぱちゅぱで、せかいからきえるんだ。
その通りだった。ただお金だけを……ただし、巨額を……持って生まれた凶人は満面の笑みでくこに近づき、彼女の細い喉をどおんと身体を揺さぶった。体内を貫いて通り抜けて行った。
衝撃が。
それは地下に住む凶人の仕業ではなく、凶人を助ける何かでもなかった。ハゲデブ全裸もゴム長の男も貫太とくこも、驚いて衝撃が来た方向を見た。それは異質の存在。どれだけ汚しても簡単に綺麗に出来るようにつるつるに加工され床がひび割れ、美しいガラス張りの壁面が砕けた。壁が崩れた。壁向こうの見たこともないような深い暗がりから、それは現れた。
「……きひと?」
くこは呟いた。先程の病院からの電話は間違いだったのだ。誰かの勘違いだったのだ。たかひとに続いてきひとまで居なくなったらあたしは生きては行けない。良かった。本当に本当に。くこは全裸に近い姿で縛り上げられていたが、なんとか膝立ちになり、きひとに抱き締めて貰おうとした。きひとが抱き締めてくれれば不安なんて消えちゃうもの。壁の中から現れたきひとは倒れて入院する前と変わらない魅力的な笑顔でくこに笑いかけた。優しく口角をあげ、目尻を少し下げる。口角を上げ、目尻を下げた。上げて上げて上げて、下げて下げて下げて。遂には口と目の端がくっついてしまったがどんどんと口角は上がり続けて、ばっくりと顔が上下に裂けて割れた。中から、幹のように太い舌が飛び出した。舌は見る見る間に白くなりうねり震えて白馬になった。白馬の目は人のそれで、カメレオンのように好き勝手に回っている。大口を開けてゴム長男の頭に噛みついた。
「うわあああああっ!!」
その場にいた全員が叫んだ。何処からか楽しげな音楽が聞こえてくる。ゴム長男は、手にしていた中華包丁を馬の頭に振り下ろした。鈍い音がして中華包丁は馬の頭蓋にめり込んだ。馬は目といわず口と言わず鼻と言わず顔中のありとあらゆる穴から血を吹き出し動きを止めた。一瞬だけ。すぐに何事もなかったように、顎に力を入れる。みしり、と小さな音がしてゴム長男の頭部は歪んで崩れ、破裂した。馬はゴム長男の脳をすする。その時にはもうきひとの形は残っておらず身体中が裂けて捲れ、異質が飛び出していた。ライオン、ウサギ、馬、馬車、ユニコーン。どれもこれもが、ヒトの目を持ち、錆びた槍に貫かれ、血を流し、苦痛を叫んだ。世界は明滅しアコーディオンは楽しげな曲を奏でる。ぶんちゃーぶんちゃーぶんちゃーぶんちゃーぶんちゃー。ゴム長男は頭を馬に食べられ、体をウサギにかじられている。既に両腕と臍から下が食べ散らかされた状態となっていたが、死なず意識もありゴム長男はただただ絶望を叫んだ。
ぱあんぱあんぱあん。
地下室に乾いた破裂音が響いた。3回、4回、5回。ハゲデブ全裸の大男がソファに仕込んであったピストルを発砲したのだ。きひとであったその存在に向けて。きひとであったものは頭部に弾を受けて、鼻から上が吹き飛んでしまった。光の明滅と音楽が止まる。全裸の初老の大男は興奮した声でまくしたてた。
「ちゅぱ。何だこいつ?すげぇぞ?捕まえてもっとちゅぱ弾打ち込んだりちゅぱちゅぱ餌やったりちゅぱしたいな。こいつならぷちきっと沢山ぷち沢山ぷち人を苦しめて殺してぷちくれぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷちぷち!あああぷちああぷちくれあああぷちえあああ!!
歓喜の興奮の中にいた全裸の大男の独り言は絶叫に変わる。身体中から虫が湧き出して来たのだ。艶やかで美しい縞模様を持つ竈馬が分厚い脂肪を食い破って体表に現れる。当然、体内も竈馬は食い荒らし、とうとう男の両目を押し出して入れ替わってしまった。それでも全裸の男は叫び続けた。世界は明滅し、音楽はいよいよ、狂騒の度合いを増して響き渡る。
「あぁ……ぁ……。」
くこは震えて泣いていた。大好きだったきひとが異質な存在になってしまった。凶人とは言え、ヒトを食い殺している。
「……た、助かった。助かった。」
拷問されていた貫太は、ゴム長男と全裸の男が死んでいくのをみて呟いた。凶人達はこれまでの凶行を罰せられ、異質の存在に殺されたのだ。恐ろしい、とても恐ろしいことではあったがこれで、助かったのだ。明けない夜はなく、止まない雨はないいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいやだいいいいいいい助けいいいいいいいいいいいい!!貫太は叫んだ。足先から潰されている。くこちゃんがきひとと呼んだその存在から溢れ出してくる肉に。きひとは体内からどんどんと肉を吐き出し、膨れ上がっていく。その真っ赤な肉に足先が足首が脹ら脛が膝が潰されていく。貫太はどうしてこんな目に遭わなくてはならないのかと抗議しながら叫んでいたが、途中でこれまでに色んな女の子達にして来た事を思い出して、全裸の男やゴム長男と大差ない事に気付き……狂った笑い声を上げながら潰されて行った。世界は明滅し、音楽は陽気に流れる。くこはずっと叫んでいた。その叫びは音楽に掻き消され、涙は光の明滅に隠される。そして、
きひとと目があった。きひとの身体中から溢れ出してくるウマやウサギやライオン達と。彼等のヒトの目がくこを見詰めている。彼等は向きを変えてくこに向かう。音楽が煩い。光が目眩を呼ぶ。くこは叫ぶ。
「いやああああああっ!!」
はっとした。音楽は止み、光は天井の蛍光灯だけになっていた。全裸の男やゴム長男、貫太は居なくなっていた。そして、ウマ達も。目の前には、
「……きひと。」
くこは泣いた。きひとは死んだのだ。死んで、でも助けに来てくれたのだ。たかひとが遊園地で消えてしまってから、幸せなど何一つなかった。きひとは狂ったようにたかひとを探し続け、遂に原因不明の病に倒れて昏睡状態になってしまった。デニランドに取り憑かれたのだ。気がつけばあたしもこんな処にいる。攫われ捕らわれたたかひとを助ける為に解放するために遊園地を這いずり回っているうちに自分達が捕らわれてしまっていた。ああ。何て馬鹿だったんだろう。殆ど裸の状態で手足を結束されているくこは膝立ちの姿勢で、きひとに言った。
「ありがとう。きひと。もっと早く気付けば良かったね。もういいの。帰ろう?ここには良くないものがあああああああああああああああああいやああああああいやだあああああああきひとああああああああっ!!きひときひときひと!いいいいいいいやだああああああああいいいいこわこわああああああああいいいっっっきあきいいきききやああいああこわタスああいいいいやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやたきひときひときひときひときひとああああおいいいっっっああああああああああああああああっっつひあヒヒヒヒああああきぃぃぃいはぁぁぁあああきひとあきひとああっっ!!
きひとの身体中が裂けて内部が曝され、血まみれのウマやライオンやウサギが溢れだして来た。それらはゆっくりとくこに覆い被さり……美味しそうだよこの女白くて柔らかそうだよ温かくて汁気たっぷりで僕頭貰ってもいいかな僕は股がいいボクハチブサオレハフクラハギカミガイイナイヤチョウヲ……
「ヤメロ!!」
身体中から異質を吐き出し続けるきひとであった存在は言った。やめろと。でも……
「奥の部屋にもっと熟したのが沢山あるよ。うっひょう!」
きひとの瞳には闇が詰まっていた。その声はもう愛を囁く事はなく、くこの正気を削るだけだった。一匹のウマがきひとが言った奥の部屋にズルズルと入って行った。それは何も言わなかったが、部屋の中からはベチャベチャ、ばきばきと何かを咀嚼する音か響いてきた。皆は一斉にきひとが告げた部屋へ雪崩れ込んだ。次々と奥の部屋に異質は雪崩れ込み、今の部屋にはきひととくこの二人だけとなった。奥の部屋からはさらに大きな咀嚼音。あれらは、肉の味わいについて声高に語りあっている。くこはきひとに視線を戻す。くこは理解していた。目の前にいるのは元きひとであった何か。きひとではない。
「くこ……。」
そう呼ばれて、くこは期待せずに居られなかった。愛を歌い、抱きしめて、元いた平和な日常に連れ去ってくれることを。いや、勿論、そうではない。それは希望の物語の役割。絶望のお話には関係ない。きひとの目は信じられないくらい左右に離れ口角は脊髄の位置まで裂けた。頭部は盛り上がって落ちる。
どしり。
肉塊が床に落ちて響いた。落ちた頭部は最後に言った。
……アイシテル。
くこは絶望して、気絶した。
◆
くこは恐ろしかった。きひとやめりーごーらうんどの仲間達が恐ろしかったのではない。自分の感情が恐ろしかったのだ。愛してその存在の全てを受け入れて、たかひとを産んだ事に幸せさえ感じていた自分が、きひとの事を忌むべき存在として忌避していること。それが恐ろしかった。たかひとの死よりもきひとの苦痛よりも自身の恐怖が軽減される事を望んでいる自分が恐ろしかった。ウマやウサギやライオンが此方に向かって進んできた時、死が心底恐ろしかったのだ。それを感じる自分が恐ろしかった。自分だけでも生き残りたい、苦痛を軽減したいと望む自分が恐ろしかった。きひとは最後に言った。
(アイシテル。)
あの化け物に愛されているのだ。怖い。止めて。嫌。ああ、最悪だ。ジンニクを食らうその存在の中にきひとは残っており、くこを守ろうとしてくれている。でも、ああ。それは愛とは感じられない。気持ち悪い。ああ、そう、その、この感情が、恐怖。
◆
以下は、webニュースからの抜粋。
……デニランドは全域が焼失した。同園は廃園から一年が経過しており、敷地内に忍び込んだ何者かが放火したとの公算が大きい。観覧車の側で発見された、唯一の生存者である「今和名枸杞」は浦野医院で治療を行っているが、重体である。また、敷地内からは出資者である「裏野夢地」の焼死体も確認されており、火災との関係性について調査を進めている。出火元は大観覧車と思われるが、24ある観覧席の一つからは少年の白骨化した遺体が確認されており、当局は死亡日時を含めて調査を進めている。
尚、今和名枸杞の夫である「今和名貴人」は火災当日に浦野病院で亡くなっており……
◆
暑い……。
蝉が鳴いていた。昼と言わず夜と言わず。夏の真ん中。夏のお休み。太陽は全力を出さず蝉が鳴ける程度の熱を落とす。皆、日々に汗をかき、夜は夜で蒸される。それでも多くの人々は幸せだった。闇は遠い。たかひとは死んで、失われた。きひとは魂を売り払い、異質となった。くこは、狂って病院の中で永遠を生きる。世界には光があり、同様に闇もある。僕達はそれに対抗する術を持たない。だから、ああ、そう。ねぇ、お願い……それにはチカヅカナイデ。
それは今日も今夜も楽しげな音楽を奏で、愉快な光を輝かせて叫ぶ。パーティーは続くのだ。永遠に。ぐるぐると回るのだ。異質は叫び続けるのだ。そう、
……めりぃぃ、ごおおおおぅ!らぁあんうんど!
おしまい。