誰そ彼れどき
水平線に滲んでいた残り火が、惜しむように溶けて消えた。昼と夜の狭間の時間。光を失った空に、闇を濃く含んだ藍色の紗が掛かる。白く無表情な月が、ひっそりとその姿を現し始めていた。
ゆっくりと顔を覗かせた夜が見下ろすその下に佇む住宅街の中で、ぽつり、ぽつりと街灯が目を覚ます。薄汚れた電柱に虫が群がるのを横目で見ながら、木島悠斗は一人、会社帰りの道を辿っていた。
道の両脇に並ぶのは、やや古い一軒家の群れ。入居者の多かった建設当時の名残で、たくさんの家々が所狭しと詰め込まれている。そのせいでこの辺りは常に日当たりが悪く、子供のいる主婦などからは評判が良くない。悠斗が歩いている今もこの狭い道路は、時間帯のわりに暗く、既に夜の帳を下ろし終えようとしていた。
悠斗はなんとはなしに周囲を眺めながら歩きつつ、微かに違和感を覚えた。六時にもなっていないのに、人が少なすぎる。いやそれどころか野良猫の影すら見当たらない。悠斗は無意識に歩調を上げつつ、考えを巡らせた。いつもならまだ、小学生くらいの子供たちが自転車に乗って走り回っている頃だ。夕食時だとしても早過ぎる。何か地域の集まりでもあっただろうか。悠斗はここ一週間ほどの記憶を浚った。そんな知らせを聞いた覚えはないし、郵便受けにもそれらしき紙はなかったはずだ。
結局、単なる偶然だろうと結論づけ、悠斗はとりとめのない思考を打ち切った。いずれにせよ、こんなところで一人で考えていても理由がわかるわけではない。それに道に人がいないからと言って、何が困るということでもないのだ。
そこまで考えたとき、悠斗は自分が公園の前に差し掛かっていることに気付いた。
この街唯一の公園。住宅街ができた当時からずっとそのままらしい。いかにも寂れていて、とても寛ぐような雰囲気ではない。この時間帯なら普通の公園には子供たちがいてもおかしくないが、ここはむしろ怪奇スポットといった風情だ。遊具といえばブランコと滑り台くらいしかない。しかも、ブランコを囲う背の低い柵は塗装が剥がれ落ちて、錆び付いた金属が剥き出し。挙句、滑り台を支える柱はぼろぼろときた。これでは人が寄り付かないのも無理はない。
そんな公園の中に何か動くものを見たような気がして、ふと悠斗は足を止めた。
この公園、ましてこんな中途半端な時間に人がいるはずもないと思いながらも、悠斗はつい気になって公園の奥に目を凝らした。だが円形の公園の周りをぐるりと囲む低木が視界を遮り、よく中が見えない。耳を澄ましてみるが、足音も遊具を使う音も、気配を感じさせる何もない。やはり自分の勘違いかと悠斗は思い直し、再び歩き出そうとした。
そして向きを変えて一歩踏み出そうとしたとき。悠斗は背後で聞き慣れない音がするのを耳にした。彼はぱっと振り返って再び公園の中に目をやった。
キィ、と軋むような音がする。不規則に、しかし途切れることなく、音は続いている。木々の隙間から悠斗の目に飛び込んできたのは、誰もいないはずの公園で古びたブランコを漕ぐ小さな人影だった。
それは子供のようだった。少女が、俯いたままゆっくりと、揺れ方を忘れたようなブランコを揺らしている。錆びついた鎖が捩じれるたびに、少女の長い黒髪の先が小さく揺れる。
悠斗がじっと見つめているうちに、向こうも彼に気付いたようだった。小さな顔をこちらに向けて、漕ぐのを止めている。悠斗は知らず知らずその何処か奇妙な光景に見入っていたことに気づき、その場を立ち去ろうとした。すると、その動きを察知したように、少女がブランコから飛び降りた。放り出されたブランコは、足掻くように一際高い音を発して動きを止めた。
悠斗は戸惑い、少女が自分の方へ歩いてくるのを見守った。少女は軽やかな足取りで悠斗に近づいてくる。曖昧な闇の中で、不釣り合いなほどくっきりと白いワンピースの裾が揺れている。その白さに何故か既視感を覚えて、悠斗は内心首を傾げた。
すぐに、少女は悠斗の前で立ち止まった。大きな黒い瞳で悠斗を見上げている。黒いと思った髪が、間近で見ると少し茶色がかっているのがわかった。
「どうし――」
どうしたの、と悠斗が言い終える前に、薄い桃色の唇が震えて少女が口を開いた。
「あの、赤い屋根のおうちを知りませんか?」
「赤い屋根?」
悠斗はぱちぱちと瞬きをし、思わず少女に訊き返した。この住宅街の家は比較的年季の入ったものばかりで、赤い屋根などという派手な家は記憶になかった。
だがそう口にしようとして、悠斗は言葉を止めた。少女は両手でワンピースの裾をきつく握っている。悠斗を見上げる少女の顔には、必死さのようなものが滲んでいた。大きな瞳からは今にも涙が溢れそうだ。
悠斗の表情に怪訝さを感じ取ったのか、彼が話し始める前に少女は早口でまくし立て始めた。
「迷子になっちゃったんです。この辺のはずなんですけど、知りませんか?」
悠斗は困って答えた。
「わからないけど……。君は遊びにでも来たの?」
悠斗の答えを聞いて途方に暮れたような顔になった少女を見て、彼はそう付け加えた。
いくらこの辺りの道が入り組んでいて、立ち並ぶ家のせいで周りが見渡せないとはいえ、住民なら迷いはしないだろう。たが、少女は首を横に振った。
「ううん、その家に住んでるんです」
少女の返事を聞いて、悠斗はますます困惑した。引っ越してきた子なのだろうか。引っ越してきたばかりなら道がわからないのも無理はないし、多少古い街とはいえ、家族連れが越してくるのは珍しいことではない。悠斗はほとんど近所付き合いというものをしないから、越してきたことに気付かないということもあるだろう。
「どっちの方かもわからないの?」
悠斗は少女に訊ねた。いくら助けてやりたくとも、このままでは何もわからない。
しかし少女は申し訳なさそうに答えた。
「ごめんなさい……。遊んでたらわかんなくなっちゃって」
幼い少女が肩を縮めるのを見るに見かねて、悠斗は言った。
「うーん……。じゃあとりあえずこの辺を歩いてみるか。覚えてるところがあるかもしれないよ」
苦し紛れの一言だったが、少女はぱっと顔を輝かせた。
「はいっ。ありがとうございます!」
その変わりようを見て、無責任なことを言ったのではないかと悠斗はかすかな罪悪感を覚えた。が、とりあえず自分の家まで歩きつつ彼女の家を探してみて、見つからなければ近所の誰かに訊いてみればいい。向かいの情報通な主婦ならきっと少女の役に立てるだろうと考え直し、悠斗は少女を見た。少なくともこのどう見ても小学生くらいの少女を、一人でこんなところに残しておくよりましな選択だろう。
「えぇと……じゃあ行こうか」
「はい」
悠斗が自分の家の方向に向かって歩き始めると、少女はそのすぐ横についてきた。子供相手とはいえ黙って歩いているのも気まずく、悠斗は隣を歩く、自分の肩にも届かない背丈の少女に話しかけた。
「君の家はどんなおうちなの?赤い屋根以外でってことだけど」
少女はわずかに考える素振りをした。小首を傾げると目に掛かっていた髪がさらりと揺れて、髪同様に色素の薄い瞳の色が露わになった。
「……あんまりよく覚えてないんです。ずっと中にいたので」
妙な言い方だ。悠斗は何かが引っ掛かるのを感じた。引っ越してきたばかりなら、家の外見は特に印象に残っているものではないだろうか。引っ越してきてから外に出ていなかったとしてもだ。
「あ、でも」
唐突に少女が発した声に、悠斗は現実へ引き戻された。
見ると、少女はすぐ前の家を指差していた。
「あんな感じの色の屋根と壁だったと思います」
悠斗は少女の指の先に視線を向けた。
何の変哲もない二階建ての一軒家だ。薄汚れた白塗りの壁。トタンの屋根はくすんだ赤とも橙ともつかない色。随分前に塗ったのだろう。その色はだいぶ褪せてきている。なるほど赤とはこういう意味か。悠斗は納得した。
「あと小さなお庭があって……綺麗なお花が咲いてたの。真っ白な花」
必死に思い出そうとしているからか、口調が幼くなっている。眉間に小さく皺が寄っていた。
「そうか……」
だが残念ながら庭もこの辺りではよく見られる特徴で、あまり少女の家を探す手掛かりにはなりそうもない。実際、悠斗の家も同じような構造だ。
「まあ僕の家もそんな感じだな」
特に何の意味もなく、悠斗は答えた。が、少女は思いの外その返答に興味を持ったらしく、悠斗を見上げて訊ねた。
「じゃあ家族がいるんですか?」
悠斗はその質問にふいを突かれて、少女をまじまじと見つめた。
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、そんな広いおうちに一人で住んでる人いないかなあと思って。マリもお父さんとお母さんと三人で住んでるから」
少女はあっけらかんと答えた。
悠斗は内心で呻いた。子供とは思えない洞察力。まさかこんなところで見も知らぬ少女にそれを指摘されようとは思っていなかった。
「……ああ、そうだね。妻がいるよ」
正直に答えて余計な好奇心を掻き立てるよりましだろう。そう思い、悠斗は渋々ながら返事をした。
「じゃあ、子供もいますか?」
歯切れの悪い悠斗の返事とは対照的に、少女の声はうきうきと弾んでいた。悠斗はさっきの答えで少女が満足することを祈っていたが、生憎それは叶わなかったようだ。何がそんなに嬉しいのかと訝りながら、悠斗は首を横に振った。
「いいや。子供はいないよ」
そう答えると、少女の顔から輝きが失せ、憂鬱そうな表情がそれに取って代わった。
あからさまにがっかりした様子の少女に、悠斗は訊き返した。
「どうして?」
「子供がいるなら、一緒に遊べるかなと思って」
少女はため息を吐きそうな顔をして答えた。
「大丈夫だよ。この辺りには子供がいっぱい住んでるから。君くらいの子も、たぶんいたよ」
悠斗は笑いながら言った。この街には本当に子供が多い。近くに小学校やら中学校やらが多いからだろう。夕方などは悠斗がうるさく感じるくらい、元気にその辺を走り回っている。
そう考えて、悠斗はふと我に返った。そういえば子供たちはどこに行ったのだろう。他の住民もだ。最初に人がいないと思ったときには、偶然だろうくらいにしか考えていなかったが、結局ここに来るまで少女以外の人間を見ていない。
そのとき、隣からくすり、と忍び笑いが聞こえた気がして、悠斗は首を捻って少女を見た。悠斗は少女の黒い頭しか見ることはできなかった。少女は笑みを隠すように俯いていた。
「……んと……に……るの?」
「え?」
少女の呟きをよく聞き取れなかった悠斗はそう聞き返した。
「あ、いえ。おじさんの子供なら、仲良くなれそうだったのになあと思って」
少女はにっこり笑って悠斗を見上げた。無邪気そのもののその笑顔の奥に、何か不穏なものを感じるのは気のせいだろうか。悠斗はなんとなく納得できない気持ちを抱えながらも頷いた。こんな子供相手に、何を疑ってるんだ。自分に言い聞かせる。ただの迷子じゃないか。
「……そう?」
悠斗はぎこちない口調で答えた。やはり何かがおかしい気がする。人のいない街も、この少女も。
だが少女はそんな悠斗の心の動きにはまったく頓着しない様子で、言い始めた。
「そうですよ!だって私、おじさんのこと好きだもの。きっと仲良くなれますよ……あ」
少女はふっと言葉を途切れさせた。何かを思い出すように小首を傾げる。
「奥さんって、どんな人ですか?」
一瞬唐突な少女の言葉の意味を捉えかね、悠斗は戸惑った。
「奥さんって?」
「さっき言ってたじゃないですか。妻がいるって」
「ああ……」
悠斗の妻。でも彼女はもう。そう続けそうになって、悠斗は慌てて口を噤んだ。知り合いでもない子供に話すことではない。
「そうだな……」
悠斗は思案した。
「でもなんでだい?」
少女はにっこり笑った。
「奥さんが気にしないなら、おじさんの家に遊びに行ってもいいかなあと思ったんですけど、だめですか?」
「いや、だめじゃないけど……」
何を言うべきか考えながら、悠斗は焦りを押し隠した。どうしてこんな展開になっているんだ?この迷子の少女を送り届けるだけのつもりだったのに。忙しなく働く思考の奥で、直感が囁く。やはり何かがおかしい。もはや違和感から確信に変わりつつある何かが、偶然だと主張する理性の壁を叩く。何故人の気配がしない?どうして少女は一人で公園にいた?少女が迷子と言いながら取り乱す様子も、家を探す素振りも見せないのは何故?なんでこんなに少女の笑顔は作り物めいている?
「どうかしたんですか?」
いつの間にか道路の真ん中に立ち止まっていたらしい。顔を上げると、悠斗の数歩先で少女が怪訝な顔をしていた。
「いや、ちょっと……」
「何か私、いやなこと言いました?」
少女は言いながら、心配そうな表情を浮かべた。心配されているはずなのに、追い詰められた獲物のような気分がするのは何故だ。悠斗はなんでもないような表情を取り繕いながら、言葉を探した。
「それとも」
だが悠斗が適当な説明を見つける前に、少女が再び声を発した。悠斗は吸い寄せられるように少女の顔を見た。
「何かいやなこと、思い出しました?」
その顔は、恐ろしい無表情だった。
悠斗は少女の瞳を覗き込んでいた。無感情な瞳。実験動物を観察しているような冷たい瞳。虚無の淵に立っているような薄ら寒さを覚えて、悠斗は思わず後ずさった。
少女はそんな悠斗の狼狽を眺め、ふと、微笑みを浮かべた。悠斗は、自分がごくりと唾を飲む音を聞いた。これから爪を立てる獲物を愛おしむような、残酷な笑みを、少女は浮かべていた。
少女はそのまま何も言わずに身を翻した。重力を感じさせない軽やかな足取りで、悠斗を残して歩き出す。あの公園で、悠斗を見つけて歩いてきたときのように。
動けないでいる悠斗を尻目に、彼女はある家の前に立ち止まった。色褪せた赤い屋根。汚れた白い壁。玄関の横の小さな花壇。少女はその家を指差して悠斗を振り返った。彼女の細い指の先にあったのは、
「ここですよ、私の家」
その手にも似た、真っ白なジャスミンの花。悠斗の妻が愛した花だった。
「何を……」
言っている、と続けようとした言葉は、尻すぼみになって消えた。
「何を?もともと私の家を探してくれるはずだったでしょう?」
少女はにこやかに答えた。悠斗は混乱して叫んだ。だけどここは俺の家だ!だがその叫びは、掠れた悲鳴となって宙に浮いただけだった。
悠斗は喘ぎながら言った。
「君は……君は一体誰だ?」
苦しげな表情を浮かべる悠斗を見て、少女は楽しげな声を上げた。あはは。あはは。乾いた笑いが、無人の街に響き渡る。
「誰?」
笑い止んだ少女は一言呟いた。
「わからないの?」
細くて高い少女の声に、ノイズが混じる。
「あなたにしかわからないのに?」
柔かいハスキーな声が言った。悠斗は悲鳴を上げようとした。だが、突然声を失くしたように、悠斗の引き攣った喉から、音は出なかった。
逃げることもできずに立ちつくす悠斗から視線を逸らし、少女は周りを見回した。その唇から、さっきの声が幻だったかのように、元の未完成な子供の声が零れる。
「…どうして黄昏って言うのか、知ってますか?」
悠斗の脳は、石になったように硬直していた。何か言おうとしたが、答えようにも渇ききった喉からは何の言葉も出てこない。
悠斗の返事を待つことも、悠斗を見ることさえせずに、少女はまた続ける。
「薄暗くなった夕方は、人の顔が見分けにくくて、人は『誰そ彼れ』と……あの人は誰、と言った」
悠斗は少女の顔を見つめた。眠った太陽の光はもう届かない。薄闇はいつしか濃度を増して、すぐ近くにいる少女の顔もぼやけていた。
「だから黄昏って言うんですよ」
少女は悠斗を見やった。
「ちょうどこんな時間ですよね」
黄昏って。紡がれなかった続きが、悠斗の耳に響く。目の前にいる人は誰?曖昧な人の輪郭に紛れて、人ではないものが現れる逢魔が時。俺の前にいるこの少女は。
「ねえ、おじさん」
いつの間にか少女は悠斗のすぐ近くに立っていた。息がかかるほど近く。なのに悠斗は少女の体温を感じていなかった。
少女は、ほとんど声にならない声で囁いた。
「私が誰だか、わからないの?」
冷たい?否、温度がない。
悠斗は少女の言った内容を考える余裕もなしに思った。少女の温もりが伝わってこないのは何故だ?
それは、そう。まるでそこにいないかのように。
「う……うわ……ああああああああっ」
悠斗は無我夢中に逃げ出した。
硬いアスファルトを蹴って必死に走る。カンカンと鳴る靴の音が狭い道に響き、自分の足音に追われるように、悠斗はもつれる足を懸命に前へ出し続けた。
熱を帯びる身体と焦る心に、理性は更なる違和感を突きつけ続けた。行けども行けども人はいない。それどころか灯りの点いた家ひとつ見当たらない。空はどんどん暗くなっていく。目の前には、終わりの見えない一本道がただひたすらに続いている。
走り続ける悠斗の身体は昂る感情を裏切り、無情にも呼吸は不規則になっていく。足りない酸素をどうにか吸い込もうと喉が引き攣った瞬間、ザラつく地面に躓いて、悠斗は転げるように足を止めた。
堪え切れずに膝に手を突き、はあはあと荒い息を吐きながら、悠斗は耳を澄ませた。自分の呼吸音がやけにうるさい。悠斗はもどかしさに苛立ち、乱れた呼吸を無理やり抑えつけておそるおそる後ろを振り返った。
薄ぼんやりとした街灯に照らされた暗い道は、しん、と静まり返っていた。悠斗は見えない闇の向こうを見透かそうとするように、その奥を凝視した。だが少女の姿どころか、足音ひとつ聞こえてこない。本当に、追いかけてきていないのだろうか。
そのまましばらく悠斗はじっと息を殺していたが、何の物音も聞こえないことを知ると、ふっと緊張を解いた。こめかみをじっとりと濡らしていた汗が、首筋に落ちる。
悠斗は深く息を吐いた。向き直って歩き出そうとし、そしてその場に棒立ちになった。
目の前に見覚えのある家が浮かび上がっていた。
悠斗は思わず後退さった。どう見てもそれは、さっき自分が逃げ出してきた、自分の家だった。
戻ってきてしまったのだろうか。悠斗は、再び肌に汗が滲み出すのを感じた。灯りの点いていない窓がやけに不気味に見える。今にもあの少女がその奥から現れそうだ。
そのとき、悠斗の嗅覚を芳ばしい香りが刺激した。恐怖に囚われかけていた悠斗は、はっと我に返った。
改めて周囲を見回すと、少女といた時にはまるで人気のなかった家々に灯りが点いている。カーテンの向こうに揺れる人影。夕食の美味しそうな匂いが漂っている。
悠斗は肩の力を抜いた。戻ってきたのだ。普通の世界に。冷静になってよく考えれば、一向にあの少女の姿も見えないし、もう何も恐れることはないはずだ。
悠斗はほっとして、自分の家へと歩き出した。控え目な石造りの階段を上り、慣れた手つきで玄関の扉の二つある鍵穴に鍵を差し込む。
「ただいま」
扉を開けると、悠斗は誰もいないとわかっていながら、つい習慣でそう口にした。
「お帰りー」
だが、悠斗しかいないはずの家の中からは、明るい返事が返ってきた。
悠斗は驚きのあまり土間に立ち尽くした。ぱたぱたと近づく足音が聞こえてくる。逃げなくては。悠斗が反射的にそう思うのと同時に、リビングへ繋がる曇りガラスの扉が開いた。
「……琴子」
悠斗は呆然と呟いた。目の前に立っていたのは、妻の琴子だった。
もちろん彼女が家にいたからといって、何ら問題はない。妻が家にいるのは当然だ。そう。それが一ヶ月前のことなら。
「そんなところで何してるの、悠斗?ご飯冷めちゃうよ」
琴子はそんな悠斗の表情を怪訝に思う様子もなく、快活に笑った。
金縛りにあったような悠斗の右腕を、琴子が取る。
「ほら、行こうよ」
悠斗は腕を引かれるまま、いつの間にか灯りの点いている部屋の中へ入っていった。
夢だろうか。悠斗は思った。この一ヶ月、一人でカップ麺を啜っていたテーブルの上に、二人分の食事が並べられていた。
悠斗は促されるまま、椅子に座った。
「いただきまーす」
向かいに座った琴子は早速箸を手に取り、悠斗を気にする風もなく食べ始める。それを見て、悠斗もようやくのろのろと箸を持ち上げた。
目の前の煮物を摘まむ。持ち上げた大根からはかすかに湯気が立っていた。口に含み、ゆっくり咀嚼する。少し甘い醤油味。懐かしい味。
これが夢であるはずがない。悠斗は何か温かいもので胸がいっぱいになるのを感じた。こんなにもリアルな感覚が、嘘であるはずがない。きっとこれまでが悪い夢だったのだ。最近仕事が忙しかったから、ストレスが溜まっていたのだろう。悠斗はしみじみとその味を噛みしめて言った。
「美味しいよ」
「何を改まって。気味悪いわよ」
琴子は怪訝な表情で答えた。
「失礼だな」
本気で不思議そうな妻に向かって、悠斗はムッとした顔を作ってみせた。琴子はころころと楽しげな笑い声を上げる。悠斗もそんな琴子につられ、思わず顔を綻ばせた。
ひととおり笑い終えると、琴子はふと口を開いた。
「そういえば、この子の名前なんだけど」
「え?」
「この子の名前。まさか自分の子供のこと忘れてたとか言わないわよね?」
悠斗は瞬きをした。琴子のお腹を見ると、確かに膨らんでいる。今まで気付かなかった方がおかしいくらいだ。
確かに妊娠したと聞いたはずだった。本当に疲れているのだろうか、と悠斗はこめかみを揉んだ。
「ねえ」
はっと顔を上げると、琴子の表情が険悪になっている。悠斗は慌てて答えた。
「そんなわけないだろ。で、名前がどうしたって?」
琴子は呆れたような顔をした。
「どうしたってって……自分の子供でしょうに」
「や、別にそんなつもりじゃ……」
「まあ、いいけど」
悠斗が口ごもると、琴子はあっさりと流した。何事もなかったように話を続ける。
「マリってどう?」
「マリ?」
「そう。茉莉花の茉莉」
「ああいいんじゃないか?綺麗……」
機嫌を取ろうと言いかけて、悠斗はふいに黙りこんだ。あの少女の顔が脳裏に浮かぶ。
『マリもお父さんとお母さんと三人で住んでるから』
自分を見上げる無邪気な顔。
『ここですよ、私の家』
指差した細い指。茉莉花。
「やっと思い出した?」
唐突に思考を遮られて、悠斗はいつのまにか考えこんでいたことに気付いた。顔を上げると、ほんの五センチのところに、彼女の顔があった。
「うわっ……」
言われた内容を認識する余裕もなく、悠斗は思わず両手を前に突き出した。瞬間、バランスを失った琴子が驚いたように口を開けた。その茶色がかった瞳を悠斗に据えたまま、どんどん遠ざかっていく。
いつの間にか、悠斗は階段の踊り場に立っていた。
そして、ぐしゃり、と何か重いものが床に落ちる音が、手を伸ばしたまま固まっている悠斗の耳に届いた。
「こ……と……」
最後に触れた指先が震える。
「違う……」
甦る記憶。
「い、やだ……」
手のひらに伝わった柔らかい感触。ふと支えを失った身体。落ちていく。歪んだ彼女の顔。小さな悲鳴。
再生される、それはちょうど一ヶ月前の悲劇。
「俺じゃない!」
悠斗は何かを拒絶するように激しく首を横に振りながら逃げ出そうとした。
そのとき、ズルズルと床を這う音が、悠斗を引き止めた。悠斗は立ち止まり、おそるおそる暗がりに目を凝らした。
白い手がもみくちゃになった袖口からはみ出し、悠斗に向かって伸びている。階段の横にできた黒い水溜まりのように見えたのは、その身体から流れ出す大量の血だった。
悠斗は立ち止まったことを後悔した。逃げたくてたまらないのに、足は釘でも打たれたようにぴくりとも動かない。
「ゆ……うと……」
か細い声が不気味な静寂を破った。布の塊がかすかに身動きする。悠斗は目を見開いて叫んだ。
「琴子っ」
まだ生きている。悠斗は駆け寄ろうとし、だが、触れる寸前で立ち止まった。
何かが、その裂けた腹の中から這い出ようとしていた。内臓を掻き分ける湿った音が廊下に響く。白い指が、長い髪が、裸の足が、ゆっくりとその姿を現す。
「やっと、思い出した?」
生まれたての赤ん坊のように粘膜を引きずり、血に塗れた少女が悠斗を見上げて嬉しげに問いかけた。
その向こうに横たわる、空っぽの脱け殻を見やって、悠斗はか細い声で言った。
「琴子を……どうしたんだ」
悠斗の唇が小刻みに震えているのを見て、少女はくすりと唇の端を上げた。
「どうした?」
低い声で悠斗の言葉をなぞりながら、ぬめぬめと赤く光る指を悠斗に向ける。
「貴方が殺したんでしょう?」
その指の向こうに揺れる白い袖を見たとき、ひとつの記憶が悠斗の思考に浮かび上がった。
『それ何?』
訊ねた自分の声。
『赤ちゃんの産着よ。いつ生まれてもいいように』
琴子が愛おしむように撫でた白く柔らかく、小さな産着。
そして今、目の前の少女の赤く染まったワンピース。
「ねえ」
少女の熟れた赤い舌が、真っ赤な血を舐め取る。
「お父さん?」
血に濡れて笑う少女は、ぞっとするほど琴子に生き写しだった。
「違う!!」
悠斗は叫んだ。少女の呼びかけを否定したのか、琴子の死を否定したのか。自分でもよくわからないまま、悠斗は縺れる舌で必死に叫んだ。
「俺じゃない!俺は殺してない!」
あれはただの事故だった。
「軽く押し退けただけなんだ!」
毎日の残業。苛々していた。そこに琴子が話しかけてくるから。あんな楽しそうな顔で。
「落ちるなんて思いもしなかった!」
そんなつもりはなかった。
「殺すつもりじゃなかったんだ!」
そう。殺すつもりなんかじゃなかった。愛していた。美しい妻。自分の子を身籠った妻。それでも確かに、琴子を殺したのは。
「貴方よ」
琴子によく似た少女は言った。いや……その口から出たのは、琴子自身の言葉でもあった。
「貴方よ」
少女はゆっくりと繰り返した。耳に心地好い低音が、琴子の声が、悠斗の胸を抉る。少女は言い含めるように微笑んだ。
「ねえ、忘れようとなんてしないで」
一歩。また一歩。その足が床を踏む度に、黒い染みが痕を残す。
「ねえお父さん」
「ねえ悠斗」
少女の口から、二人の言葉が紡ぎ出される。不協和音を奏でる。
「私のこと、ちゃんと覚えてて?」
「許してくれ……」
悠斗は掠れる声で請うた。立ち去ることもできず、少女が近付いてくるのを、ただじっと見つめる。
「頼む。俺が悪かった。だから……」
くすくすくすくす。二重の忍び笑いが淀んだ闇を揺らす。
「だから?」
少女は続かなかった悠斗の言葉尻をさらりと掬った。
「だめよ」
少女は歌うように口ずさんだ。
「貴方だけ生きたいなんて」
悠斗の目の前で、ワンピースの裾が揺れた。
「一緒に逝きましょう?」
少女は手を伸ばした。暗闇の中で、その白だけがぽっかりと浮き上がる。
「だって貴方が」
悠斗はその手から逃れようと必死に足掻いた。硬直した喉から、悲鳴になり損ねた懇願が漏れる。
「やめ……」
悠斗の頬に細い手が添えられた。温度もないその手の感触の中、生々しい赤だけが悠斗の肌を濡らす。
息を持たない少女は囁いた。
「貴方が殺したのよ」
悠斗の首に、その白い指が埋まっていた。
「あ……ぁ……」
裂けた喉から、ごぼりと泡が零れる。
悠斗は片手を少女に伸ばしながら、床に崩れ落ちた。
ぐにゃりと曲がった手足。痙攣する瞼の下、赤い筋の走る眼球。くるりと裏返った皮膚。
「あーあ」
白い足が血の池を踏む。
「死んじゃった」
くすくす。歪んだ唇から漏れる無音の嘲笑が、暗い夜道に波紋を広げる。
「これで一緒だよ」
色を失うその肌に、
「ねぇ?」
真っ赤な真っ赤な花が咲く。
「お父さん」
そして闇が、堕ちた。
夏のホラー参加作品です(* ̄∇ ̄)ノ
頑張って怖くしたつもりです!