隠密の行水
時期は夏。
見上げれば満天の星。
「こんな時期は、星を見ながらお風呂に入りたいね」
そんな奥方の滅多にない我侭。
その日の定時報告で、ぽろっと喋ってしまったのは、あたし自身。
「なるほどのぉ・・・」と優しく微笑んだ頭領が、何を考えているかなんて・・・
・・・分からない方がどうかしてる。
隠密の行水
「おつかれさまでした~」
待っていたかのように、あたし達を出迎えたのは若い女達が数人。
頭領の息のかかった宿屋に着いたのは、夕方だった。
屋敷を出たのは昼間だから、休憩してた時間を引いても結構な移動距離だと思う。
・・・一日中走り回ったあの頃からみれば、徒歩でこんな距離、疲れるなんて言ったら仲間に笑われるけど。
こんにちは、自己紹介が遅れてしまったけれど、あたしはかの地を愛する名も無き隠密の一人。
現在は頭領の命により、奥方様を命がけで守ってたりします。
始終側に居ても不自然じゃないように、位置的には奥方つきの女房。
精神的には結構辛かったりするけれど・・・
・・・最近、もう慣れました。
考えることは頭領とか参謀、そういう名のついてる人に任せる。
あたしは言われたことをするだけ。
だから奥方が川で子供達と戯れようが、山菜摘みに行って昆虫採って来ようが、あたしはそれに付き合うだけ。
なんでこんなことするんだろう、とか悩むだけ無駄!
悟ったなぁ。あたしも。
辿り着いた宿屋は地元でも一、二を争う有名どころ。
立地条件の良さと、切り盛りする女将さんの人柄もあって、かなり繁盛していると聞く。
料理はもちろん、露天風呂から見える景色は絶景。
うまいことに、今日は三日月。雲も少ないだろう。
月明かりで眼前の海が煌き、空一面には散りばめられた無数の輝き。
乙女心をくすぐる風景が拝めるであろうことは間違いない。
さすが頭領。ツボを心得てる。
「あ、いたいた」
パタパタと聞こえてきた足音に振り返れば、そこには息を切らした奥方。
あたしがこの宿の間取りやらを把握しに彷徨っていたのを、わざわざ見つけてくれたらしい。
「ねぇ、お風呂入ってこない?」
「私と、ですか?」
「そう。あ、用事があるなら後でもいいけど・・・」
「用事なんてありませんが・・・てっきり、頭領とご一緒なさるかと」
「それも考えたんだけど、今忙しいみたいだったし。
ちょっと汗かいちゃったから、さっぱりしたいんだけど・・・どう?」
やや上目遣いで微笑んでくる奥方。
どう?って聞いてるくせに、こちらに反論は許されないような笑み。
・・・誰かさんを思い出すのは気のせいだろうか。
やや熱い湯の張られた風呂に、思い切って浸かる。
じんわりした熱が体を包み、疲れが溶け出していくような感覚。
気持ちいー・・・。
だがその感覚すら忘れてしまいそうな光景が、今目の前に広がっている。
「・・・すごいなぁ・・・」
「・・・ですねぇ・・・」
どうやら奥方も同じことを考えていたらしい。
海に面した露天風呂から見える絶景。夜は夜で星が瞬くのだろうが・・・。
真っ赤に燃えた太陽が沈んでいくのも悪くない。
言葉に形容し難い景色が目の前で移り変わる。
燃えるような紅。
ついで薄い紫がたなびいて・・・深い蒼へ変わっていく。
空の色に追いつけと、海の色も彩を変える。
この景色は今この時間にしか存在せず、同じものを二度と見ることはできない。
「・・・はぁ・・・」
夕日が沈み、漏れる溜息はあたしのもの。
絶景のあるなしに関わらず、無粋な連中はどこにでもいるもので。
あたしは手拭で身体を隠し、陸に上がる。
「もうあがっちゃうの?」
「いえ、ちょっと気になることがありまして」
露天風呂自体は、海の見える方以外、簡単な柵と竹林で周りを囲まれていた。
柵の材料が背後の竹林であることは容易に想像ができる。
さっきも念のため確認はしたが、簡単に人が近づけるようには出来ていなかった。
・・・が、よっぽど根性のある奴なら。
柵の近くまで進み、首だけで振り返る。
都合のいいことに、手前の岩のおかげで今まであたし達がいた、今は奥方のいる場所は死角になっている。
が、ちょっと陸に上がればその姿は見えてしまうわけで・・・。
つまり、ここでこうしてるあたしは向こうから丸見え・・・って見られてもたいしたもんじゃないけど。
いやでも、女隠密として任務をこなすからにはそれ相応のモノは・・・って何言ってるんだあたし。
ともあれ、今のところ奥方の姿は見られていないはず。
その裸を他の男に見られたとあっては、頭領に何を言われるかわからない。
あたしは手近の小石を拾い、気配のする辺りへ放る。
「・・・っ」
がさりと音がして、柵の奥。竹林に人の姿が見えた。
見覚えの無いその男と目が合う。
思い切り殺意を込めた視線を送るが、柵のこちら側と向こう側。
視線だけでは人は殺せない。
こちらが手を出せないと思っているのか、男はじ、とこちらを見ているだけ。
再度小石を放る。
もともと当てるつもりはなかったけれど、避けられるとムカツク。
もう一回。
今度は当てるつもりだったが、思ったより相手の動きが早かった。
男は逃げる気配はない。
それどころか。
に、と口元が歪む。
・・・いい度胸してんじゃん。
自然、あたしの口元も歪む。
あたしは髪飾りに手を伸ばす。
それは髪飾りに模した投擲用のナイフ。
小石より真っ直ぐ飛ぶし、殺傷能力も高い。
一瞬だけそれを翻す。
これで向こうからも、刃物が反射したのが見えたはずだ。
飾りから解けた髪が背中にかかる。
構えて狙いを定めたとき、男はその身を翻していた。
小物め。
髪結うの大変だったんだけどなぁ・・・。
だったら解かなきゃいいのに、これはあたしの悪い癖。
湯に入るときは手拭でまとめることにして、とりあえず髪飾りだけでも頭に戻してやる。
・・・ま、これで一安心、かな。
そう思って戻ろうとしたあたしの耳に飛び込んで来る話し声。
もちろん奥方が独り言を喋っているわけがなく・・・。
「ほぉ。これはなかなか」
「でしょ? さっきはもっと綺麗だったんだよ」
「水の滴る姫の美しさには負けるがのぉ」
聴きなれた声に体の力が抜ける。
・・・何で居るかなぁ。頭領!!
確かに奥方が静かすぎるとは思ったけれど、こういう展開になっているとは。
しかもあたしに気配を気付かせず、ここまで踏み入るなんて。
いや、もともとあたしの察知能力は、頭領や御頭様に気付くようには出来ていないのかもしれない。
座り込みそうになるような虚脱感に襲われつつ、あたしは何とか気力を振り絞る。
暗殺任務を遂行中の如く、出来るだけ気配を殺し、その存在感を無に近付ける。
邪魔者はさっさと退散。
馬に蹴られて死にたくありません。
こちらを伺う頭領の気配を背中に感じたのは、さっき入ったばかりの入り口にあたしが姿を隠してから。
「あれ、そういえば・・・」
「お前の女房なら、もうおらぬ」
ごゆっくりどうぞ・・・夕飯は先に頂いてますね。
「いつも気使ってもらってるみたいで悪いなぁ」
「それが仕事よ。姫が気にする必要はない」
「・・・そういえば貴方は一人で来たの?」
「いや・・・あぁでも、結局はそういうことかな」
「?」
ちょっとだけ長い石造りの道を通って、更衣室へ辿りつく。
既に冷えてしまった体の水分を拭いながら窓の外を見れば、早くも夕闇が迫っている。
思い出すのは先ほどの夕焼け。
・・・ほんとはもう少し温まりたかったけど、湯に入る機会なら何度でもある。
今はあの景色を見られただけでも、よしとしようではないか。
宿の女将が用意してくれた浴衣を取ろうと身を翻すと。
ぺち。
と頬を打ったのはあたし自身の髪。
いっそのこと切ってしまいたいが、これはこれで女の武器の一つ。
それほど濡れてはいないし、ほっといても乾くのだが、万が一ということもある。
癖がつくのは仕方ないが、結い上げたまま乾かすことにしよう。
あたしは髪飾りを咥え、両手で髪の毛を編み込む。
湿っているため、それほど苦はない。
「いい加減気付いて欲しいものですがね・・・」
「・・・っ!?」
背後からかけられた声に、全身が硬直する。
更衣室に入ったときは、確かに気配はなかったはず、だ。
落ち着けあたしっ。
今確か何も身に着けてないような気がするけど、とりあえず落ち着け。
ま、まずは状況確認。
その姿をこの目で確認するべく、振り返ろうと・・・。
「動かないでください。」
行動は鋭い言葉で遮られた。
「僕も丁度入ろうと思っていたので、何も着てないんですよ。
ですから、僕がいいと言うまで、こちらを向かないでくださいね」
し、承知しました。
それにしても今までどこに潜んでたんだろう、この人。
その声と口調は間違いようもなく、御頭様。別名腹黒策士。
・・・あたしの師匠であり天敵でもある。
編みこんでいた手を止めて浴衣に手を伸ばす。
動かないでとは言われたが、制止の声は聞こえなかったのでそのまま袖を通す。
「人の気配の読み方は、あれほど教え込んだはずなんですがねぇ・・・」
聞こえてくる声が背中に痛い。
「実践経験が少なくなって、カンが鈍りましたか?」
聞こえてくる衣擦れの音が途絶える。
同時にあたしの方も着付けは完了していた。
近づいてくる気配。
その人が何をしようとしているのか。
その姿をどうしても視界にいれておきたくて、あたしは振り向いた。
刹那。
迫ってくる鋭利な刃が頬を掠める。
かろうじてかわしたところで、それを横薙ぎにされ、咄嗟に体制を低くする。
瞬間、視界が黒く染まる。
何これ髪!?
「勝負あり、ですね」
・・・たしか前に奥方の前でこんな風になったとき、サダコとか言われたっけ。
いや、どーでもいいけど。
座り込んだあたしの喉元に突きつけられた刃物。
あたしは両手を挙げて降参の合図を送る。
短刀をしまい、御頭様は身を翻した。
「僕は、いいと言うまで振り向くな、と言ったはずですが」
こちらに向き直り、優しく微笑んでそんなことを言う。
今のは、振り向かずに気配を察知し避け続けろ、という意味なのは長い付き合いで分かっている。
・・・他のヤツならともかく、目の前の相手では絶対にムリ。
せめて殺気とかそういう気配を振りまいてくれれば、動きの読みようもあるのに
笑顔で切りつけててくるからなぁ、この人。
「僕も少し体が鈍っているようなので、今夜は久々に稽古につきあってあげますよ。
大丈夫、僕は逃げませんから」
ええと、それは・・・稽古をしてやるから、逃げるなよ。という風に聞こえるんですが。
冷静になった頭で、これからのことを考える。
奥方は頭領と一緒だから問題は無い。
あたしは、おそらく夜通し、稽古という名の修行。
・・・あたしが星を見ながらゆっくりお風呂に入れるのは、まだまだ先のことらしい(涙