↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
盤上に咲く幼竜  作者: ぬっく~


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/38

第十八話 おままごとの将棋はしない

 中学校の校舎は、小学校より少しだけ静かだった。


 もちろん、実際にはそんなことはない。

 休み時間になれば廊下は騒がしいし、運動部の声は窓を震わせる。教室では笑い声も上がるし、忘れ物をした誰かが階段を駆け上がっていく音もする。


 ただ、しおりにはそう感じられた。


 世界がひとつ狭まり、その代わり、ひとつ深くなったような感覚。

 子どもの延長ではいられなくなる場所。

 部活も、勉強も、人間関係も、小学校のときより少しずつ輪郭を持ち始める場所。


 中学一年生になった天羽しおりは、その空気を嫌いではなかった。


 授業は前より難しくなった。

 宿題も少し増えた。

 だが、それは問題ではない。


 将棋の時間をどう捻出するか。

 放課後をどう使うか。

 学校生活の中に、将棋のための最短距離をどう引くか。


 しおりが中学入学後、最初に真剣に考えたのは、その一点だった。


 ◇


「部活、どうするの?」


 入学して最初の週、夕食の席で真紀がそう聞いた。


 中学校では部活動への参加がほぼ当たり前になっている。絶対ではないにせよ、何かしら所属したほうが学校生活に馴染みやすい――そんな空気があった。


 恒一は味噌汁を飲みながら、いかにも分かりきったことを尋ねる顔をした。


「将棋部、あるんだろ?」


「ある」


 しおりは即答した。


「じゃあ決まりか」


「たぶん」


「たぶん?」


 真紀が首をかしげる。


 しおりは箸を止め、少し考えてから答えた。


「ちゃんとしてるなら、入る」


「ちゃんとしてるなら?」


「遊びみたいなら、やだ」


 真紀と恒一が顔を見合わせる。


 言いたいことは伝わったらしい。

 しおりにとって将棋部は、学校生活の彩りではない。単なる所属先でもない。

 強くなるために使える場所かどうか、それだけが問題なのだ。


「まあ、見学してみればいいんじゃないか」


 恒一が言う。


「入ってみて違うと思ったら、そのとき考えれば」


「うん」


 しおりは頷いた。


 実際、その通りだった。

 見もしないで切るのは良くない。

 けれど、もしそこでぬるい将棋しか指せないなら、時間の使い方を考え直さなければならない。


 中学の三年間は短い。

 そして自分には、その先に奨励会がある。


 ◇


 将棋部の見学は、翌週の放課後だった。


 校舎の三階、特別教室棟の端にある和室。

 障子は半分だけ開いていて、入口には小さく【将棋部】と紙が貼られている。


 しおりは鞄を持ったまま、その前で一度だけ立ち止まった。


 中から聞こえてくるのは、駒音――ではなく、話し声だった。


「いや、それ反則だろ」

「反則じゃないって」

「待ったなしねー」

「え、ちょっと待って、やっぱ違う、今のなし」


 しおりの眉が、ぴくりと動く。


(……いやな予感)


 襖を開ける。


 部屋の中には、六人の生徒がいた。

 二年生らしい男子が三人。

 三年生らしい男子が二人。

 そして女子が一人。


 盤は三面。

 だが、どの盤も空気が軽い。


 ある卓では駒をつまんだまま笑い合い、別の卓では対局より雑談のほうが長い。

 詰将棋の本が置いてあるものの、きちんと読まれた形跡は薄い。

 姿勢もばらばらで、礼もない。


 もちろん、部活とはそういうものかもしれない。

 放課後に同じ趣味の仲間と集まり、ゆるく楽しむ。

 それ自体を悪いとは思わない。


 でも。


 しおりが欲しい場所ではない。


「見学?」


 奥にいた三年の男子が声をかけてきた。

 背は高いが、少し猫背。気安い口調だった。


「うん」


「一年?」


「そう」


「へえ。将棋できるの?」


 その訊き方で、しおりはだいたい察した。

 知っていて聞いているのではない。

 単に、新入生の女の子が来たから軽く話しかけただけだ。


「できる」


「ルール知ってるくらい?」


「……まあ」


 少し曖昧に答える。

 ここで自分から何かを誇る気はなかった。


 三年の男子は笑った。


「じゃ、初心者でも全然大丈夫だよ。うち、ゆるいし」


 その“ゆるい”という言葉に、しおりの中で何かが冷えた。


「大会とかも、出たい人だけだし。勝ち負けっていうより楽しくやろうって感じ」


 別の二年生が言う。


「女の子少ないから歓迎するよ」


 女子部員も柔らかく笑った。


 悪意はない。

 誰も悪人ではない。

 ただ、決定的に噛み合わない。


 しおりは部屋の中央に並ぶ盤を見渡した。


 雑な駒音。

 待ったあり。

 勝負の温度がない笑い声。

 負けても悔しがるより先に「もう一回」が軽く出る空気。


 それを見て、しおりははっきり理解した。


 ここは、強くなるための場所ではない。


 ◇


「じゃあ、とりあえず一局やってみる?」


 三年の男子が言った。


「一年生の歓迎戦みたいな」


 しおりは視線を戻した。


「だれと?」


「俺でもいいし、こいつらでもいいし」


「部長、やれば?」


「いやいや、見学なんだから気楽にね」


 気楽に。


 その言葉が、しおりの耳には妙に引っかかった。


 将棋を気楽に指すこと自体は悪くない。

 でも、対局に座っている以上、盤の上にだけは最低限の真剣さがあってほしい。


 勝つ気もなく、負けても何も残さず、待ったや笑いで流して終わるなら、それは自分にとって将棋ではない。


「……いいよ」


 しおりは静かに言った。


「一局だけなら」


「お、じゃあ俺やるわ」


 二年生の男子が前へ出てきた。

 肩で風を切るような歩き方をする、少し勝ち気な顔の子だった。


「坂本っていいます。よろしく」


「天羽しおり」


「へえ、名字だけじゃなくて名前まで言うんだ」


 その軽口に、しおりは何も返さなかった。


 盤を挟んで向かい合う。

 礼は、しおりのほうからした。


「お願いします」


「あ、はい。お願いします」


 相手が少し慌てて礼を返す。

 部室の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 初手から、しおりは手加減しなかった。


 する理由がない。


 坂本の将棋は、弱くはなかった。

 少なくとも初心者ではない。

 形も知っているし、基本的な手筋もある。学校の部活レベルなら、たぶん強いほうなのだろう。


 けれど甘い。


 駒の連結が薄い。

 相手の狙いへの感度が鈍い。

 何より、自分が良くなることばかり見ていて、相手に何をされるかの視点が浅い。


 三十手もいらなかった。


「えっ」


 坂本の顔が止まる。


「……うそ」


 しおりは盤を見たまま言った。


「詰み」


 部室が静かになった。


「ちょ、ちょっと待って」


「待たない」


「いや今のはさすがに」


「待たないって言った」


 しおりの声は小さい。

 だが、さっきまでの部室の軽さをその一言で切り裂くには十分だった。


 坂本は盤を見て、数秒後にようやく頭を下げた。


「……負けました」


「ありがとうございました」


 しおりは礼を返し、すぐに立ち上がろうとした。


 だが、それで終わりにはならなかった。


「ちょっと待ってよ」


 今度は別の二年生が口を開いた。


「たまたまでしょ」


 しおりはその子を見る。


「たまたま?」


「坂本、油断してたし。ていうか一年でそんなムキになる?」


 その言い方に、三年生の部長らしき男子が「おい」と小さく制したが、もう遅かった。


 しおりの中で、何かがすっと冷える。


「ムキ?」


「いや、だってさ」


 その二年生は半笑いだった。


「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん。そんなガチガチで来られても困るっていうか」


 坂本の「部活ってもっと楽しくやるもんじゃん」という言葉に、しおりはしばらく何も返さなかった。


 和室の空気は軽いままだった。

 畳の上には駒が散り、盤の横には開きっぱなしの棋書が伏せられ、対局中のはずの盤面ですら、もう半分は雑談の小道具みたいになっている。


 その景色を、しおりは静かに見回した。


 ここにいる全員が将棋を嫌いなわけではない。

 むしろ好きなのだろう。

 だから部活に入っている。


 けれど、好きであることと、勝負として向き合っていることは違う。


 その違いが、しおりには我慢ならなかった。


「……楽しく、は別にいいよ」


 小さな声だった。

 だが、さっきまでの空気を切るには十分だった。


「でも」


 しおりは盤の前に座ったまま、真っ直ぐ坂本を見る。


「勝つ気がないのは、将棋じゃない」


「は?」


 坂本が眉を吊り上げる。


「なんだよそれ」


「そのまま」


 しおりは言った。


「待ったして、負けそうになったら笑ってごまかして、終わったらなんとなく片づけて。そういうの、わたしは指さない」


「おい」


 今度は部長が低い声を出した。

 先ほどまでより少し強い調子だった。


「言い方考えろ」


「考えてるよ」


「それでか?」


「うん」


 しおりは一歩も引かなかった。


「わたし、おままごとの将棋を指すつもりないから」


 部室が、しんと静まり返る。


 さっきの「楽しくやる」より、この言葉のほうがよほど決定的だった。

 ただ厳しいだけではない。

 この部のやり方そのものを、将棋として認めていない。


 そう言い切ったに等しい。


 坂本が立ち上がる。


「言ったな」


「言った」


「一年のくせに」


「一年だから何」


「……っ」


 言い返そうとして、言葉に詰まる。

 しおりがまるで怖がっていないからだ。


 部長が間に入ろうとするより先に、しおりのほうが先に口を開いた。


「そんなに気に入らないなら、証明して」


「証明?」


「みんながちゃんと将棋指せるってこと」


 しおりはゆっくり立ち上がった。

 畳の上に置かれた三つの盤を見る。


「一局ずつじゃ、時間がもったいない」


 その一言に、全員が眉をひそめる。


「……何言ってんの」


 女子部員が半分呆れたように言う。


 しおりは、盤を順番に指差した。


「三面指しする」


 数秒、誰も意味を理解できなかった。


「は?」


 坂本が間の抜けた声を出す。


「三人同時」


 しおりは繰り返す。


「坂本先輩と、そっちの先輩と、部長。三人まとめて」


 今度こそ、本当に部室の空気が止まった。


「おいおい……」


 三年の部長が苦笑しかけて、笑えなかった。


「本気で言ってるのか?」


「本気」


「お前、自分が何言ってるか分かってる?」


「分かってる」


 しおりの声に揺れはなかった。


「わたしが勝ったら、ここでちゃんと将棋するって認めて」


 坂本が顔をしかめる。


「じゃあ負けたら?」


「入らない」


 即答だった。


「この部には入らないし、さっきの言葉も取り消さない」


 それは挑発であり、宣言でもあった。


 もう逃げ道はない。

 しおりは自分から橋を焼いた。


 坂本の頬がひくりと動く。

 怒っている。

 だが、その怒りの下に、別の感情も混じっていた。


 舐められている。

 試されている。

 そして、盤の上でひっくり返されるかもしれない怖さが、ほんの少しだけある。


「いいじゃん」


 先に答えたのは、もう一人の二年生だった。


 坂本ほど感情を露わにするタイプではないが、口元が引きつっている。


「そこまで言うなら、やろうよ」


「部長」


 坂本も振り向く。


 部長は数秒黙ったまま、しおりを見つめていた。

 小さい。

 中学一年の女子。

 見た目だけなら、三面指しを要求する側ではない。


 なのに、目だけがまるで違った。


 冗談じゃない。

 意地でもない。

 本当に、自分たち三人を同時にねじ伏せるつもりでいる目だった。


「……分かった」


 部長は静かに言った。


「受ける」


「部長!」


「ここまで言われて断ったら、それこそ終わりだ」


 それは将棋部の面子ではなく、もっと単純な勝負の話だった。


「ただし」


 部長が言う。


「あとで泣いても知らないぞ」


「泣くのはそっちかも」


 しおりが言った瞬間、坂本が「上等だよ」と吐き捨てた。


     ◇


 三面の盤が、横一列に並べられた。


 中央にしおり。

 向かいに坂本、二年の佐原、そして部長の黒田。


 女子部員と残りの一人は壁際へ下がる。

 もはや見学ではない。

 部活の空気を賭けた勝負になっていた。


「条件ある?」


 黒田が聞く。


「ない」


 しおりは言う。


「ただ、待ったなし」


「……分かった」


「感想戦はあと」


「勝った気かよ」


 坂本が吐き捨てる。


「勝つつもりでやるから」


 しおりは答えた。


 そして三つの盤へ、それぞれきちんと礼をした。


「お願いします」


 三人も遅れて礼を返す。


「お願いします」


 駒音が鳴った。


 最初の十手は、三人とも慎重だった。


 当然だ。

 怒りに任せて突っ込めば負ける。さっき坂本がそれを身をもって知ったばかりだ。

 それに、三面指しという形式が厄介だった。


 しおりは中央の立ち位置から、一手ごとに盤を渡る。

 坂本へ一手。

 佐原へ一手。

 黒田へ一手。


 足を止めない。

 視線も迷わない。

 まるで三局が最初からひとつの盤であるかのように、自然に回っていく。


「……速っ」


 女子部員が思わず漏らす。


 速いだけではない。

 置かれる手が全部、嫌な場所を突いていた。


 坂本の盤では、攻め急ぎを逆用するように陣形の綻びへ針を刺し、

 佐原の盤では、教科書通りの形を少しずつずらして将来の悪形を作り、

 黒田の盤では、こちらから無理をせず、相手の判断を問う形を積み上げていく。


 しおりの中では、すでに優先順位が決まっていた。


(最初に崩れるのは坂本)


 感情が盤に出る。

 強くなりたい人間には必要な熱だが、怒ったままでは読みが荒くなる。


(次が佐原)


 形を知っているぶん、誘導に弱い。

 自分の知っている筋から少し外れると、途端に指が止まる。


(最後が黒田)


 一番マシ。

 でも、一番マシなだけ。


     ◇


 先に崩れたのは、予想通り坂本だった。


「え?」


 たった一手で顔色が変わる。


「ちょ、待っ――」


「待たない」


 しおりが即座に切る。


「自分で言ったでしょ、待ったなしって」


「くそ……!」


 坂本は受ける。

 だが、その受けがすでに遅い。


 しおりは次の盤へ移り、佐原と二手交わし、黒田に嫌味な一手を置いてから戻ってきた。


 坂本の玉はもう、逃げ道を失っている。


「詰み」


 短く言われて、坂本は唇を噛む。


 盤を睨み、睨み、ようやく頭を下げた。


「……負けました」


「ありがとうございました」


 しおりは礼だけ返して、もう振り返らない。

 残り二面へそのまま歩く。


 坂本の敗北は、部室の温度を一気に変えた。


 偶然じゃない。

 勢いでもない。

 この一年は、本当に三面指しで勝ちにきている。


     ◇


 二面目、佐原は明らかに焦っていた。


 自分の番になるたび、指が少し遅い。

 考えているのではない。

 迷っている。


 しおりはそこを逃さない。


「……うそだろ」


 佐原がこぼす。


 守ったつもりの場所に、次の瞬間には別の綻びが生じている。

 しおりの将棋は、相手の手を否定するのではなく、相手が正しいと思って選んだ手の価値をその場で下げていく。


 それが何度も続くと、自信が剥がれる。


 佐原の顔が引きつる。

 黒田のほうへ視線を飛ばしかけて、すぐに戻す。

 助けはない。


 数手後。


「……負けました」


 佐原も頭を下げた。


 これで二面。


 部室に残った緊張は、もうひとつの盤へ全部集まった。


     ◇


 黒田は、ここまで一言も無駄口を叩かなかった。


 盤面を見ている。

 真剣に。

 たぶん、ようやく理解したのだろう。


 これはただの喧嘩ではない。

 自分たちがどんな部活をしてきたのかを、盤上で突きつけられているのだと。


「……大したもんだよ」


 黒田が低く言う。


「二面潰して、まだ息も乱れてない」


「まだ一局残ってる」


「分かってる」


 黒田の将棋は、さすがに一番しぶとかった。


 駒組みに無駄が少ない。

 中盤で崩れない。

 派手には来ない代わりに、こちらの読みを空振らせようとする。


 しおりは少しだけ楽しくなってきていた。


 この人は、ちゃんと鍛えれば伸びる。

 部の空気に流されてぬるくなっていただけで、根っこのところでは将棋を勝負として見られる人間だ。


 だからこそ、ここで折る価値がある。


 しおりは一度、わざと踏み込んだ。

 黒田なら食いつく。

 そう読んだ通り、黒田はその踏み込みを受けず、逆に手を伸ばしてきた。


(やっぱり)


 悪くない。


 だが、それでいい。


 しおりはそこで局面をねじった。


 均衡だった盤面が、一気に終盤の匂いを帯びる。

 黒田の眉が寄る。

 ここで戦いを起こされるとは思っていなかったのだろう。


「ここで来るのか」


「来るよ」


「一年の踏み込みじゃないな」


「中一だから何」


 黒田は少しだけ笑った。

 だが、余裕の笑みではない。


 その数分後には、もう笑っていなかった。


 しおりの終盤は深い。

 坂本たちを見せしめのように終わらせたあとで、最後の一局に集中している。

 黒田も耐えた。

 受けた。

 逃げ道を探した。


 けれど、届かない。


 しおりの最後の一手が落ちたとき、黒田は長く盤を見つめ、ゆっくり息を吐いた。


「……負けました」


「ありがとうございました」


 三面指し、全勝。


 それで終わった。


     ◇


 誰もしばらく喋れなかった。


 坂本は悔しさを隠しきれずに畳を睨み、佐原は呆然としていて、女子部員は「ほんとに勝った……」と小さく呟く。


 黒田だけが、座ったまましおりを見上げた。


「天羽」


「しおりでいい」


「……しおり」


 呼び直してから、黒田は少し苦く笑った。


「さっきの言葉、撤回させるつもりだったんだけどな」


「できなかったね」


「できなかった」


 あっさり認めた。


 その潔さに、坂本が顔を上げる。

 部長が認めた。

 なら、自分たちももう言い逃れはできない。


「でも」


 黒田はそこで続けた。


「おままごと、って言われたのは、正直かなり効いた」


「うん」


「腹も立った」


「うん」


「……けど、盤の上で負けた以上は、半分当たってたってことなんだろうな」


 しおりは少しだけ沈黙してから言った。


「半分じゃない」


「おい」


「全部」


 坂本が「言い切るなよ!」と噛みつく。

 だが、その声にはもう最初の軽さはない。


 しおりは続けた。


「でも、今日までがそうだっただけ」


 部室が静かになる。


「これからちゃんとやるなら、別」


 黒田がその言葉を反芻するように繰り返す。


「……これから、か」


「そう」


「じゃあ訊くけど」


 黒田が言う。


「お前、入るのか」


「入るよ」


 しおりは迷わない。


「ただし、条件ある」


「また条件か」


「待ったなし。礼あり。感想戦あり。大会は勝つつもりで出る」


 坂本が顔をしかめる。


「急に厳しくなりすぎだろ」


「勝ちたいなら普通」


「うっ」


 言い返せない。


 黒田は黙ってしおりを見ていたが、やがて小さく笑った。


「分かった」


「部長?」


「受けるよ」


 黒田は立ち上がり、盤の前で部員たちを見回す。


「どうせ今日で、前までと同じ空気じゃいられない」


 坂本が口を開く。


「それは……まあ、そうだけど」


「だったら変えるしかないだろ」


 佐原も苦い顔で頷く。


「……三面指しでやられたままってのも、最悪だしな」


「でしょ」


 しおりが言うと、坂本が即座に返した。


「お前ほんと腹立つな!」


 その叫びで、ようやく部室に少し笑いが戻る。


 だが、それはさっきまでの中身のない笑いではなかった。

 悔しさを知ったあとで、それでも前を向くための笑いだった。


     ◇


 その日の部活の終わり、黒田が出席ノートを閉じながら言った。


「じゃあ明日から、ちゃんとやる」


「うん」


「坂本」


「……はいよ」


「盤、片づける前に初期配置戻しとけ。明日から対局表も作る」


「マジで?」


「マジだ」


「佐原、お前は詰将棋の本持ってこい。棚の奥にあったやつ」


「なんで俺が」


「負けたから」


「理不尽!」


「しおり」


「なに」


「入部届、明日持ってこい」


「持ってくる」


 その返事は短かったが、和室の空気には妙な重みがあった。


 たった一日で全部が変わるわけじゃない。

 坂本だって明日になればまた雑になるかもしれないし、佐原も面倒くさがるだろう。黒田もきっと全部を締め切れるわけではない。


 けれど、今日を境に一度も何も変わらない、ということだけはもうなくなった。


 しおりはそれで十分だった。


 部室を出る前に、一度だけ振り返る。


 三つの盤。

 負けた先輩たち。

 少しだけ引き締まった空気。


「次は、もっとちゃんとやろう」


 しおりが言うと、坂本がすぐに返した。


「次は一局で勝つ」


「無理」


「言ったな!」


「本当のこと」


 また小さく笑いが起きる。


 黒田はそのやり取りを見ながら、半ば呆れたように、半ば感心したように呟いた。


「……とんでもない一年が入ってきたな」


 しおりは何も答えず、襖を閉めた。


 放課後の廊下は赤く染まり始めている。

 窓の向こうからは、運動部の掛け声。

 その中でしおりは静かに思った。


 中学の将棋部は、思っていたよりぬるかった。

 でも、ぬるいままなら、自分で熱を入れればいい。


 大会でも勝つ。

 凛々花にも勝つ。

 学校の中でも、盤の上では誰にも合わせない。


 おままごとの将棋は、今日で終わりだ。


 そしてその終わりは、たぶん、将棋部にとっての最初の一手になる。

### あとがき


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。


また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。

「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。


いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。


それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。