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盤上に咲く幼竜  作者: ぬっく~


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第十話 勝ったのに、忘れられない

 優勝した日の夜だというのに、天羽しおりは眠れなかった。


 布団はやわらかかった。

 部屋は静かだった。

 リビングの電気は消えていて、廊下の向こうから聞こえてくるのは、冷蔵庫のかすかな駆動音と、時折きしむ家鳴りくらいだった。


 それなのに、頭の中だけがうるさい。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 駒音が消えない。


 大会会場の、あの独特の乾いた空気。

 知らない子どもたちの緊張した息づかい。

 対局時計のない、けれど確かに一手ごとに時間を削られていく感覚。

 負けたら終わりではないはずの子どもの大会で、なぜか誰もが“ここが世界のすべて”だと信じているような、あの小さな熱。


 その中心にいたのは、間違いなく自分だった。


 優勝した。

 全部勝った。

 泣かなかった。

 崩れなかった。

 読み切った。


 なのに。


「……忘れられない」


 小さくつぶやいた声は、当然ながら誰にも届かない。


 忘れられないのは、優勝の瞬間ではなかった。

 表彰でもない。

 母が「すごいね、しおり」と涙ぐみながら抱きしめてくれたことでもないし、父が珍しく語彙を失って「いや、すごいな、お前……」と何度も同じことを繰り返していたことでもない。


 忘れられないのは、最後の対局だった。


 御門凛々花。


 たぶん、自分が生まれ変わってから初めて会った。


 なのに、あの子だけは、盤越しに見た瞬間から妙に古かった。


 古い、というのは年寄りくさいという意味ではない。

 むしろ逆だ。顔立ちは整っていて、目は大きく、髪は艶があって、年齢相応に愛らしい。大会用なのか、襟の整った淡い色のワンピースを着ていて、姿勢まできれいだった。

 礼もきちんとしていた。


 ただ、将棋が古かった。


 いや、正確には――勝負勘の置き方が、古くて新しかった。


 普通の子どもは、目の前の一手しか見ていない。

 少し強い子は、二手三手先を見る。

 教室で褒められるくらいの子になると、簡単な詰みや受けの形を知っていて、相手の狙いも少し読める。


 けれど、御門凛々花は違った。


 あの子は、盤面そのものに温度差を作っていた。


 ここが熱い。

 ここは冷たい。

 ここに触れれば流れが変わる。

 今取るべき駒と、取ってはいけない駒の区別が、“形”ではなく“気配”でできている。


 それは理屈で覚えた将棋ではなく、感覚の将棋だ。

 そして感覚だけなら、子どもには珍しくない。

 厄介なのは、その感覚に、幼いなりの整理がすでに乗っていたことだった。


 ――次は勝つ。


 対局後、凛々花はそう言った。

 泣きもせず、怒りもせず、悔しさを呑み込んだまま。


 あれは、負け惜しみではない。


 事実確認に近い声だった。


「……やだな」


 しおりは天井を見上げた。


 自分でも意外な言葉だった。

 嫌だ、と思っている。


 なにが嫌なのか。


 簡単だ。

 あの子が強くなる未来が、ありありと見えてしまったからだ。


 初めてだった。


 前世を含めれば、自分は数えきれないほど多くの相手と向き合ってきた。天才と呼ばれる者もいた。努力で化けた者もいた。研究で時代を変えた者もいた。勝負どころで狂気じみた精度を出す者もいた。


 そういう相手たちに共通していたのは、最初の時点で何かひとつ、決定的な“芯”を持っていることだった。


 御門凛々花にも、それがあった。


 しかも厄介なことに、しおりの芯と噛み合う類の芯だった。


 自分が攻めれば、受け切ってくる。

 自分が受ければ、焦れずに締め上げてくる。

 こちらが最善を積み上げた先で、さらにその一枚上から手をかけてくる気配がある。


 いまはまだ幼い。

 経験も知識も足りない。

 終盤力も荒い。


 だから勝てた。


 けれど数年後はどうだ。


 十年後は。


 もし、あの子が負けの悔しさを正しい方向に燃やし続けたなら。

 もし、あの子の家に将棋を支える環境があるなら。

 もし、あの子が途中で折れず、腐らず、ずっと盤の前に座り続けたなら。


 ――盤上で一番会いたくない相手になる。


 しおりは布団を頭までかぶった。


 勝った夜に、勝者がこんな顔をしていていいのだろうか。

 もっと素直に喜んでもいいはずなのに、胸の奥には薄い冷気が残っていた。


 怖い。


 その感情を認めた瞬間、しおりは目を閉じた。


 怖いのだ。

 御門凛々花が。

 自分に並ぶかもしれない誰かが。

 いや、違う。


 もっと正確に言えば――また“追いつかれること”が怖いのだ。


 前世で味わったもの。

 時代に置いていかれる感覚。

 自分が積み上げた王座の足元から、静かに新しい正解が侵食してくる感覚。

 努力しても、読み続けても、追いつけない速度で世界が先へ行く感覚。


 最後に負けた日のことを、しおりは思い出してしまう。


 あのときも、最初は違和感だった。

 若手の研究が妙に鋭い。

 こちらの感覚が、ほんの少しだけ古い。

 知っているはずの局面で、相手のほうが一手早い。

 読みの深さで勝ってきたはずなのに、その読みの前提そのものがずれている。


 結果として、それは連敗になった。

 偶然ではなく、時代だった。


 しおりはその時代に敗れ、そして目覚めたら赤ん坊になっていた。


 だから今度こそ、と思っている。

 今度こそ、置いていかれないように。

 今度こそ、勝ち続けられるように。

 今度こそ、将棋の変化を自分のものにし続けるために。


 そんな自分の前に、幼い少女の姿をした“未来”みたいなものが現れた。


「……最悪」


 でも、ともしおりは思う。


 胸の冷たさの隣に、ほんの少しだけ別の熱がある。

 嫌悪ではない。

 警戒だけでもない。

 たぶん、それは期待に近い。


 強い相手がいる。


 長く戦える相手がいる。


 自分が勝ち続ける物語の中で、ただの踏み台では終わらない誰かがいる。


 それは苦しい。

 面倒だ。

 怖い。

 でも、少しだけ嬉しい。


 しおりは布団の中で小さく息を吐いた。


「……次も、勝つけど」


 誰に向けた宣言でもなかった。

 自分に言い聞かせるような、幼い決意だった。


 ◇


 翌朝、しおりは盛大に寝不足だった。


「しおり、眠いの?」


 朝食の席で、母の真紀が首をかしげる。


 しおりはコップの牛乳を両手で持ちながら、こくりとうなずいた。


「ねむい……」


「そりゃそうだよなあ。昨日、興奮してたもんな」


 父の恒一が笑いながら味噌汁をすすった。

 休日の朝らしい、少し遅い時間。窓から差し込む光は明るく、昨日までの戦いの空気はもう家の外へ溶けてしまったみたいだった。


 だが、親の方はまだ完全には余韻から抜け出せていない。


「しかし、ほんとに優勝って……」


 恒一はそこで箸を止め、改めてしおりを見た。

 その目には、親ばかだけでは片づけられない戸惑いがあった。


「なんか、実感わかないな」


「私も」


 真紀も苦笑した。


「教室で強いとは聞いてたけど、ああいう大会で最後まで勝つなんて思わないじゃない。しかも相手の子たち、みんなちゃんとしてたし……」


「ちゃんとしてた」


 しおりは小さく復唱する。


 それがおかしかったのか、真紀が笑った。


「うん、ちゃんとしてた。礼儀もよかったし、みんな真剣だったし。しおりも、ちゃんとしてたよ」


「えらい?」


「えらい」


「つよい?」


「強い」


 その即答に、しおりは少しだけ胸がくすぐったくなった。


 前世では、強いと言われることは珍しくなかった。

 むしろ勝って当然の立場にいた時間のほうが長い。

 だが、いま母がくれる“強い”は、タイトルホルダーに向けられる称賛とはまるで質が違った。


 勝ったことそのものではなく、頑張ったことをまるごと抱きしめるような響きだった。


 それが、少し照れくさい。


「でもさ」


 恒一がふと、真面目な顔になる。


「これからどうする?」


「どうするって?」


「将棋だよ」


 真紀も箸を置いた。

 ここから先の話になると、二人とも慎重になる。

 しおりはその空気の変化を感じ取り、牛乳をちびりと飲みながら耳を澄ませた。


「大会で勝ったからって、急に何か変わるわけじゃないけど……でも、教室の先生、また別の大会もあるって言ってたでしょ」


「うん。あと、上のクラスの子たちとの交流会みたいなのも、見学どうですかって」


「そうそう」


「まだ早いんじゃない?」


 真紀の言葉は穏やかだったが、慎重さがにじんでいた。


「しおり、まだ小さいし。昨日も後半ちょっと疲れてたでしょう?」


「つかれた」


 しおりは素直に認めた。

 あれは事実だ。最後の凛々花戦では、読みの密度だけでなく、幼い身体そのものが悲鳴を上げていた。視界は狭くなるし、喉は渇くし、座っているだけで脚がじわじわ痛くなる。


 前世の感覚だけではどうにもならない、生身の制約だ。


「ほら」


 真紀が少しだけ勝ち誇ったように恒一を見る。


「疲れてるんだよ、本人も」


「でも本人、またやりたいよな?」


 恒一がしおりに視線を向ける。

 問いの温度は軽い。強制ではない。けれど、父はたぶんもう、しおりがどちらを向いているか知っている。


 しおりは少し考えるふりをした。


 ここで無邪気に「やる」と即答するのは、四歳児としては少し熱がありすぎる。

 しかし、あまり引けば機会を逃す。

 将棋は早く深く潜った者が有利だ。

 ただ強いだけでは足りない。

 “現代”の将棋を、幼いうちから吸い込まなければならない。


「……やる」


「おお」


「でも、いっぱいじゃなくていい」


 自分でも驚くほど自然に、子どもらしい言い方が出た。


「ちょっとずつ」


 真紀がほっとしたように目を細める。


「そうだね。ちょっとずつね」


「無理しないのが一番だ」


 恒一も頷いたが、その口調には若干の名残惜しさがあった。もっと見たいのだろう。娘が勝つところを。強いところを。

 親としては当然だ。


 しおりはその期待を感じながら、少しだけ背筋が冷えた。


 無敗でいることは、こうして少しずつ周囲の願いに変わっていく。

 一度勝つだけなら拍手で済む。

 二度三度と勝てば、「この子は負けないのではないか」という物語が、本人の外側に作られ始める。


 それは、甘い毒だ。


 期待は支えになる。

 だが同時に、檻にもなる。


 しおりは小さな手でパンをちぎった。


 竜王になるまで黒星はつかない。

 そう、自分の物語はすでに決まっている。

 いや、決めたのは自分だ。


 ならば勝ち続けるしかない。


 どれだけ苦しくても。

 どれだけ追い込まれても。

 盤上で「終わった」と誰もが思う局面が来ても。


 勝ち続ける。


 その先にしか、自分の再生はない。


 ◇


 大会の翌週、将棋教室へ行くと、空気が少し変わっていた。


「きたきた、ゆうしょうした子」


「ほんとにきた」


「しおりちゃんだ」


 入り口で靴を脱いだ瞬間から、小さなざわめきが広がる。

 以前は“ちっちゃい子”だったのが、今は“優勝した子”になっている。


 しおりは内心でため息をついた。


 こうなるだろうとは思っていた。

 子どものコミュニティは狭い。ひとつ目立てば、しばらくはその話題でもちきりになる。


「こんにちは、しおりちゃん」


 女性講師の藤枝先生が、いつもの柔らかな笑みで迎えてくれた。


「この前はすごかったですね」


「……ありがと」


「最後まで集中できていました。特に、最後の対局」


 そこで先生の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「難しい将棋でしたね」


 しおりは先生を見上げた。


 やはり、この人はただの優しい先生ではない。

 細部を見ている。勝った負けただけではなく、将棋の内容を。


「むずかしかった」


「うん。見ていて、ひやひやしました」


 先生はそう言って笑ったが、その笑みの奥には別の感情も混じっていた。驚き、戸惑い、そして観察。


 しおりが子どもの枠に収まらない何かを持っていると、少しずつ周囲も感じ始めている。


「御門さんも今日は来る予定ですよ」


 その一言に、しおりの心臓がどくりと跳ねた。


「……りりか?」


「はい。交流戦みたいな形で少し指そうかなって」


 しおりは無意識に手を握った。


 来る。


 もう会うのか。


 大会のあと、少なくとも一度は盤を挟むことになると思っていた。

 けれど、こんなに早いとは思わなかった。


「しおりちゃん?」


「……なんでもない」


 藤枝先生はそれ以上追及せず、「じゃあ支度しましょうか」と盤の並ぶ部屋へ歩いていった。


 しおりはその背中を追いながら、自分の感情を整理する。


 怖いのか。

 楽しみなのか。


 どちらでもある。


 前世でも、名勝負のあとに同じ相手とすぐ当たるのは好きではなかった。

 相手の熱がまだ冷めていないからだ。

 負けた直後の相手は、一番危険だ。悔しさで研ぎ澄まされている。

 しかも御門凛々花は、あの負けをちゃんと持ち帰った顔をしていた。


 今日の一局は、たぶん前回よりきつい。


 しおりは自分の席につき、駒箱のふたを開けた。


 木の匂い。

 指先に伝わる感触。

 落ち着く。


 将棋だけは、いつだって裏切らない。

 苦しいときほど、盤は正直だ。


 勝てる手はあるか。

 負ける筋はどこか。

 それだけを見る。


「天羽さん、おめでとうございます」


 不意に、静かな声がした。


 しおりが顔を上げる。


 御門凛々花が、そこにいた。


 今日も姿勢がきれいだった。

 大会の日とは違って、私服のカーディガンにチェックのスカートという年相応の格好をしているのに、不思議と盤の前に立つと空気が変わる。


「……ありがとう」


「次は負けません」


 あまりにもまっすぐで、しおりは少しだけ笑ってしまった。


「うん」


「笑いましたね」


「わらった」


「どうしてですか」


「ほんとにいうから」


 凛々花は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく口元を引き締めた。


「本当です」


「しってる」


 その短いやり取りを聞いていた周囲の子たちは、なんだなんだと落ち着かない様子になる。

 大会決勝の再戦、というだけで、子どもたちにとっては十分すぎる見世物なのだろう。


 藤枝先生が二人を見る。


「じゃあ、せっかくだから一局やってみましょうか。感想戦までちゃんとやりましょうね」


「はい」


「うん」


 向かい合って座る。


 礼をする。


「お願いします」


「おねがいします」


 駒を並べる手つきは、前回より落ち着いていた。

 凛々花は緊張していないわけではない。だが、その緊張を外に漏らさない技術がある。


 しおりはそこで気づく。


 この子は、勝負の場に感情を持ち込みすぎない。

 悔しさも、怖さも、全部奥に押し込めて、盤面だけを見ようとする。


 年齢のわりに、ずいぶん完成度が高い。


 先手はしおり。

 初手を置く。


 ぱち。


 凛々花もすぐに応じる。


 ぱち。


 前回と似ているようで、違う入りだった。

 大会のときは慎重さが先に立っていたが、今日は互いに相手を意識している。探り合いながらも、“前回の続き”を盤に持ち込んでいる。


 数手進んだところで、しおりは軽く眉を動かした。


(もう変えてきた)


 前回の将棋で凛々花が嫌がっていた形。

 そこへ誘導されないよう、微妙に手順をずらしている。

 教わったのか、自分で考えたのかは分からない。だが、少なくとも負けた局面をちゃんと復習してきている。


 いい。


 それでいい。


 同じ負け方を繰り返さない相手は、強くなる。


 中盤に入ると、凛々花が先に仕掛けてきた。


 前回より早い。

 形より速度。

 そして速度だけに見えて、きちんと後ろも最低限つながっている。


 子どもの将棋にありがちな無謀な突撃ではない。

 “危ないけれど成立している攻め”だ。


 しおりは受ける。


 一手、二手、三手。


 受けながら、背筋に薄い汗がにじむのを感じた。


(これ、長引くとまずい)


 相手の攻め筋は細い。

 だが、細いからこそ切らしにくい。

 一発の破壊力より、持続力で圧をかけてくるタイプだ。

 しかも幼い者同士の対局では、受け続ける側のほうが疲れやすい。選択肢が多くなるからだ。


 凛々花はそれを本能的に知っているのかもしれない。


「……」


「……」


 無言のまま盤面が進む。


 周囲で見ていた子どもたちも、途中から口を閉じた。

 二人の間にある空気が、教室の普段の練習将棋とは違うものになっていると、さすがに感じ取ったのだろう。


 しおりはある局面で、わざと端を薄くした。


 罠ではない。

 だが、誘いではある。


 凛々花なら気づく。

 気づいた上で、踏み込むかどうか。


 凛々花の視線が一瞬だけ端に止まる。

 それから、止まらない。

 迷いなく踏み込んできた。


(そう来る)


 しおりの胸が少しだけ高鳴る。


 この子は、見えている危険にひるまない。

 自分が届くと判断したら、多少の傷を承知で踏み込む。

 その決断力は、たぶん武器だ。


 だが武器である以上、使いどころを誤れば致命傷にもなる。


 しおりは盤の右辺で受けを利かせ、反対側に火種を作る。

 大きく見れば、互いの王がまだ遠い。

 しかし局地戦では、すでに一手の遅れが敗着になりうる温度だ。


 凛々花の攻めが深く刺さってくる。


 受けを誤れば終わる。

 いや、誤らなくても一瞬で差が開く。


(強い)


 しおりはその感想を、今回は素直に認めた。


 前回の勝ちは、初見の優位もあった。

 凛々花の未知数にこちらが先に適応できた分も大きい。

 だが今日の凛々花は、明確に前回より強い。


 研究、と呼ぶにはまだ幼い。

 しかし負けを素材にして自分を変える速度が速い。


 このまま同年代の大会で経験を積めば、すぐに周囲を置いていくだろう。


 だからこそ、ここでまた勝つ必要がある。


 しおりは深く読む。


 前世の感覚。

 幼い身体の集中力。

 まだ完全ではない現代将棋への適応。

 それらすべてを束ねて、一本の細い勝ち筋を探す。


 見つけた。


 見つけたが、嫌な筋だった。


 こちらから踏み込めば、こちらの玉も薄くなる。

 分かりやすい安全策ではない。

 見物している大人から見れば、むしろ危なっかしい一手に映るだろう。


 だが、他にもっと良い道はない。


 しおりは指した。


 ぱち。


 凛々花のまつげが、ほんの少しだけ動く。


 読んでいなかったのだろう。

 いや、候補にはあったが、実際には選びにくいと見ていたのかもしれない。


 そのわずかな認識のずれが、終盤では生死を分ける。


 凛々花もすぐに応じる。

 最善に近い。

 すごい、としおりは心のどこかで感心してしまう。ここで崩れないのか、と。


 ならばさらに踏み込む。


 盤上の駒が減る。

 空間が広がる。

 読みの精度が直接、勝敗に食い込んでくる領域。


 しおりは息を止めた。


 ――勝てる。


 ただし、少しでも順を違えれば逆転される。

 そのくらいの差しかない。


「……っ」


 凛々花が初めて小さく息を漏らした。

 苦しいのだろう。

 自分の攻めが、いつの間にかこちらの首を絞め返してきているのを感じたのかもしれない。


 それでも、目は死んでいない。


 最後の最後まで諦めない相手だ。


 ならば、そこまで付き合う。


 しおりは詰めろをかけ、受けを強要し、さらに薄い地点へ利きを通す。

 凛々花は粘る。

 受ける。

 かわす。

 逃がさない。


 そして十数手後。


「……まけました」


 凛々花が、静かに頭を下げた。


 しおりも礼を返す。


「ありがとうございました」


「ありがとうございました」


 教室に、わっと息が戻る。


「またしおりちゃん勝った」


「すげー……」


「りりかちゃんもつよかった」


「こわかった……」


 子どもたちの感想は率直だった。

 藤枝先生も、すぐには口を挟まなかった。余韻を壊さないようにしているのかもしれない。


 しおりは盤を見下ろしたまま、指先を膝に置いた。


 勝った。


 たしかに勝った。


 けれど楽勝ではない。

 今回も、盤の細いところを渡り切っただけだ。少しでも精度を欠けば危なかった。


「どこでだめでしたか」


 凛々花が言った。


 泣かない。

 拗ねない。

 まず聞く。


 しおりは顔を上げた。


「……ここ」


 小さな指で、ある地点を示す。


「ここ?」


「うん。ここで、はやい」


「早い……」


「せめるの、わるくない。でも、ちょっとだけ」


 言葉を探す。

 四歳児の語彙は、本当に不便だ。頭の中ではもっと正確に説明できるのに、口から出る言葉はずっと短い。


「……いそぎすぎ」


 凛々花は盤を見つめたまま、黙っていた。


「でも、ここがダメなら、どうするんですか」


「ほかから、せめる」


「どこから」


 しおりは別の筋を指す。

 すぐに全部を教える気はない。

 だが、感想戦を拒むつもりもなかった。


「こっち、ためる」


「ためる」


「うん。すぐいかない。つよくしてから」


 凛々花は何度も盤面を見返し、小さく頷いた。


「……分かりました」


 たぶん、本当に全部は分かっていない。

 でも、それでいい。

 今は種だけでいい。

 この子は持ち帰って、自分で育てる。


 それができる相手だ。


「天羽さん」


「なに」


「次は、もっと強くなってきます」


「うん」


「だから、また指してください」


 しおりは一瞬だけ言葉に詰まった。


 その頼み方は、勝負の宣言であると同時に、どこか不器用な友達申請にも聞こえたからだ。


 友達。


 そんなものが、前世の自分にどれだけいたか。

 盤を挟む関係は多かった。敬意も敵意も向けられた。だが、同じ景色を見ながら長い時間を歩く“戦友”のような存在が、どれほどいたかと言われると、答えは曖昧になる。


 御門凛々花は、そういう存在になるかもしれない。


 いや、なる。


 きっと。


「……いいよ」


 しおりが言うと、凛々花はほんの少しだけ目を丸くした。

 それから、初めて年相応の笑みを見せた。


「はい」


 それは勝負師の顔ではなく、ただの少女の顔だった。


 ◇


 帰り道、しおりは父の車の後部座席で窓の外を見ていた。


 流れていく景色は、どこにでもある住宅街だ。

 スーパー。

 公園。

 信号待ちをする自転車。

 犬を散歩させる人。

 前世では勝敗のことで頭がいっぱいで、こんな景色をちゃんと見たことがあっただろうか。


「今日はどうだった?」


 運転席から恒一が聞く。


「かった」


「うん、それは聞いた」


 送迎のときの父は、たいてい少し浮かれている。


「それだけじゃなくてさ。大会で当たった子、また来たんだろ?」


「りりか」


「そうそう。強かった?」


「つよい」


 即答だった。


 バックミラー越しに、父の眉が少し上がる。


「へえ。そんなにはっきり言うんだ」


「つよいよ」


 しおりは窓の外を見たまま繰り返した。


「またつよくなる」


 今度は助手席の真紀が振り返る。


「仲良くなれそう?」


 その質問に、しおりは少し困った。


 仲良く、という言葉の定義が難しい。

 お菓子を交換して、手をつないで、遊びに行くような関係を指すなら、まだ違う。

 でも、たぶん自分にとっては、それ以上に近い。


「……わかんない」


「そっか」


「でも、またあう」


「うん」


 真紀はそれ以上深く聞かなかった。

 親は親なりに、子どもの世界へ踏み込みすぎない距離感を探っているのだろう。


 しおりはシートに背を預け、目を閉じた。


 また会う。

 また指す。


 その未来を想像すると、胸の奥に複雑な熱が灯る。


 勝たなければならない。

 けれど、勝ち続けるだけでは物足りない相手でもある。


 自分を追い詰める存在。

 自分を磨く存在。

 自分の無敗を、ただの予定調和ではなく、毎回ぎりぎりの現実に変えてくる存在。


 そういう相手がいるからこそ、勝つ意味が重くなる。


 しおりはふっと息を吐いた。


 無敗は楽ではない。

 無敵でもない。

 ただ、負けないだけだ。


 盤上では何度も死にかける。

 何度も終わりが見える。

 それでも最後に立っているのが自分であるよう、一手ずつ積み上げるしかない。


 御門凛々花は、その道をさらに険しくしてくるだろう。


 ならば望むところだ。


 しおりは目を開け、流れる空を見た。


 青かった。


 どこまでも高く、遠い空だった。


 竜王まではまだ果てしなく遠い。

 奨励会も、段位も、プロの門も、その先にあるタイトル戦も、何ひとつ手の中にはない。

 いまの自分は、ただ将棋教室で少し強いだけの幼い子どもにすぎない。


 でも。


 だからこそ、一手目が大事だ。


 最初の大会で、最初のライバルと出会った。

 それは物語の始まりとして、あまりにできすぎている。


 しおりは小さな手をぎゅっと握った。


 負けない。

 絶対に。


 竜王と戦うその日まで、一局たりとも。


 そして、その誓いのすぐ隣で、もうひとつ別の声が囁く。


 ――次は、もっと面白くなる。


 しおりはその声を否定しなかった。


 勝負は怖い。

 けれど怖いからこそ、燃える。

 ギリギリまで追い込まれて、それでも最後にひっくり返す瞬間があるから、将棋はやめられない。


 あの子も、きっと同じだ。


 次に会うとき、御門凛々花はまた少し強くなっているだろう。

 そして自分も、もっと強くならなければならない。


 家に着くころには、しおりの寝不足は少しだけましになっていた。


 不安は消えない。

 警戒も消えない。

 忘れられなさも、そのままだ。


 でも、それでいい。


 忘れられない相手がいるということは、そこに未来があるということだ。


 玄関のドアが開く。

 いつもの家の匂いがする。

 真紀が「手を洗ってね」と言い、恒一が「おやつあるぞ」と笑う。


 その日常の中に、盤上の灼けるような感覚を持ち帰りながら、しおりは靴を脱いだ。


 まだ小さなその背中には、もう次の一局が始まっていた。

### あとがき


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


少しでも「面白かった」「続きが気になる」と思っていただけましたら、**お気に入り登録**や**評価**をしていただけると、とても励みになります。


また、作品への**感想やコメント**も大歓迎です。

「ここが好きだった」「このキャラが気になる」など、どんな一言でもいただけると嬉しいです。


いただいた反応を励みに、これからも楽しんでいただける物語を書いていきたいと思います。


それでは、次のお話でもお会いできれば嬉しいです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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