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1.空席のある教室

1.空席のある教室

春の匂いで、目が覚めた。


目を開けた瞬間、部屋の中がやけに明るいことに気づいた。


まだ朝のはずなのに、白く滲んだ光がカーテン越しに差し込んでいる。


町田花霞(まちだ かすみ)は布団の中でしばらく瞬きをした。


夢の続きのような、ぼんやりとした意識のまま体を起こす。


枕元の時計を見ると、六時を少し過ぎたところだった。


起きるには少し早い。


けれどもう一度眠る気にもなれず、花霞は静かにベッドを降りた。


窓へ歩いて、カーテンを開く。


朝の光が、まっすぐ頬に触れた。


窓を開けると、ひやりとした風が流れ込んでくる。


春の風だった。


冷たいのに、どこかやわらかい。


冬の終わりとも違う、湿った土と若い葉の匂いが混じっている。


その風の中に、かすかな甘さがあった。


花霞は目を細めた。


桜だ。


家の前の道の向こう、学校の校庭に立つ大きな桜が見えた。


昨日までは、まだ蕾が残っていたはずだった。


けれど今朝、その木はすっかり色を変えていた。


薄桃色。


空に霞がかかったように、やわらかな花が枝いっぱいに咲いている。


風が吹くたび、花びらがほどけるように舞い上がった。


朝日に透けて光るそれは、雪に似ているのにまるで違った。


消えていくものなのに、あまりにも綺麗だった。


「……満開」


小さくつぶやいた声は、風に溶けた。


花霞は桜が好きだった。


けれど、昔から少し苦手でもあった。


咲いている姿は、どうしようもなくきれいなのに。


見上げていると、胸の奥がざわつく。


理由はわからない。


嬉しいわけでもない。


悲しいわけでもない。


ただ、何かを思い出しそうになって、でもその正体に手が届かないような、落ち着かない気持ちになる。


春が来るたび、その感覚は繰り返された。


咲いた瞬間から、散る気配を知っている花だからかもしれない。


花霞は窓辺に立ったまま、しばらくその桜を見ていた。


風に揺れる枝を。


舞い上がる花びらを。


遠くに霞んだ空を。


胸の奥が、少しだけ騒いでいた。


何かが起こりそうな朝だった。


___


教室はいつもより少しだけ騒がしかった。


新学期のまだ落ち着かない空気と、窓の外の桜に浮き立つ気配が混ざっていた。


「すごい、満開じゃん」


「昨日まで全然だったのに」


「写真撮っとこ」


あちこちから声がする。


窓が開いていて、春の風がカーテンを揺らしていた。


花びらが、ひらひらと教室の中まで入り込んでくる。


花霞は鞄を肩にかけたまま、自分の席へ向かった。


窓際の横、一番後ろの席。


二年になっても変わらなかったその席は、嫌いじゃなかった。


窓の外の桜がいちばんよく見える。


授業中にぼんやり外を見るにはちょうどいい場所だった。


けれどその朝。


花霞は席に着く寸前で、立ち止まった。


呼吸が止まる。


心臓が、一拍だけ遅れる。


隣の席に、誰かがいた。


その席は空席だった。


ずっと。


一年のころから、誰も使っていない机。


掃除のときも、プリントを配るときも、そこだけいつも空いていた。


誰も座らないことに、もう誰も違和感を持たないくらいに。


昔、事情があってそのままになっている席という噂だけが残る場所だった。


なのに。


今、その席に一人の男子生徒が座っていた。


静かに、窓の外を見ていた。


制服が違う。


今の学校のブレザーじゃない。


濃紺の詰襟にも似た古い制服。


白いシャツ。


銀色の校章。


少し長めの黒髪が風に揺れている。


その横顔には、不思議なくらい静かな空気があった。


教室のざわめきから、その席だけ切り離されているようだった。


花霞は動けなかった。


転校生?


いや、違う。


そんな話は聞いていない。


そもそも制服が違う。


見慣れない。


知らないはずなのに、なぜかひどく懐かしい気がした。


胸の奥がざわつく。


息が浅くなる。


どうしてかわからない。


ただ、目が離せなかった。


そのとき。


男子生徒が、ゆっくりこちらを向いた。


目が合った。


花霞の呼吸が止まった。


まっすぐな瞳だった。


静かで、深い色をしていた。


春の光が差しているのに、そこだけ時間の色が違う気がした。


男子生徒も、驚いた顔をしていた。


見えてはいけないものを見つけたような、そんな目だった。


花霞の指先が冷たくなる。


どうして。


どうして、こっちを見ているの。


「町田?」


後ろから声をかけられて、花霞ははっと肩を揺らした。


振り返る。


クラスメイトが不思議そうに見ていた。


「あ、ごめん……」


それだけ返して、もう一度隣を見る。


まだいた。


確かに。


そこに。


静かに座っている。


けれど誰も気づかない。


誰も見ていない。


教室の誰一人として。


まるで、その席には最初から誰もいないみたいに。


花霞だけが、そこに人がいることを知っている。


喉が渇いた。


鼓動がうるさい。


自分の席に座る。


すぐ隣。


肩が触れそうなほど近い距離に、その少年がいる。


なのに、その存在はあまりにも遠かった。


窓から風が吹いた。


桜の花びらが一枚、教室へ流れ込む。


くるり、と回って。


その花びらは、彼の机の上へ落ちた。


そして——


小さく跳ね返った。


木に触れたみたいに。


確かに、何かに触れて。


花霞は息を呑んだ。


幻じゃない。


見間違いじゃない。


そこにいる。


その人は、本当に。


胸の奥が大きく鳴った。


怖いのに、目を逸らせなかった。


少年は机に落ちた花びらを見つめていた。


それから、窓の外の桜へ視線を戻す。


風が吹く。


花びらが舞う。


春の光が彼の横顔を照らす。


そして彼は、ひどく遠い声でつぶやいた。


「……今年も、咲いたんだ」


その声が耳に届いた瞬間。


花霞の胸の奥で、何かが静かに揺れた。


知らない声だった。


初めて聞くはずなのに。


なぜか、ずっと前から知っていた気がした。


花霞は言葉を失ったまま、隣の横顔を見つめていた。


桜が舞っていた。


春の匂いがしていた。


教室はいつも通り騒がしいのに、そこだけ音が遠かった。


この春、自分の中で何かが変わってしまう。


理由もなく、そう思った。


そしてたぶん、もう戻れないのだと。


まだ名前も知らないその少年の横顔を見ながら、花霞はただ、自分の心臓の音だけを聞いていた。

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