障害対応で一番危険なのは、だいたい「まだ大丈夫」という思い込みだ
神殿を出た頃には、夜明けが近づいていた。
東の空がわずかに白んでいる。
冷えた空気の中、丘の上から見下ろす村は静かだった。だが、その静けさが逆に不気味だった。
井戸の汚染。
神殿ノードの暴走。
水系ノードの不安定化。
そして、十八時間以内の拡大予測。
どれか一つでも十分にまずい。全部同時進行なのが終わっている。
俺の隣を歩くセレナは、いつもより無口だった。
地下管理層で見たものが、まだ頭の中で整理しきれていないのだろう。
無理もない。
信仰の対象だと思っていたものが、権限分散された管理システムの一部だった可能性が高い。神官としての世界認識が根本から揺らいでいる。
だが、立ち止まって考える時間はない。
「セレナ」
「……はい」
「村に戻ったらやることを分ける」
「指示ですか」
「役割分担だ。嫌なら提案だと思え」
セレナは小さく息を吐いた。
「続けてください」
「お前は神殿側の記録を洗え。古文書、祈祷書、奉納記録、歴代神官の引き継ぎ。特に水に関する記述と、“鍵”になりそうなものだ」
「鍵……」
「管理画面に出ただろ。“水ノードへのアクセスキーを確保しろ”って」
「ええ。見えてはいませんが、あなたの説明は理解しました」
「俺は村側を当たる。井戸、水路、泉、農地、体調不良者、家畜の異常。被害範囲を切り分ける」
「……本当にそういう話し方しかしないのですね」
「障害対応だからな」
「ここは村です」
「村のインフラ障害だろ」
言い返すと、セレナは数秒黙ってから、悔しそうに認めた。
「……否定はできません」
丘を下りる途中、半透明の守護狼が俺たちの前へ回り込んだ。
足音はない。青い目だけが静かに光っている。
「ついてくる気か?」
狼は答えない。
当然だ。だが、神殿の前で座り込むでもなく、俺たちと同じ方向へ歩き出した。
セレナが警戒混じりに言う。
「まだ安定している保証はありません」
「わかってる。だが今こいつを切る手段もない」
「……切る、とは」
「停止させるって意味だ」
狼は一度だけこちらを見た。
気のせいでなければ、少し不満そうだった。
◇
村に戻ると、井戸の周りにはすでに人が集まっていた。
夜のうちに広がった話のせいか、皆の顔には露骨な不安が浮かんでいる。
桶を抱えた女たち。顔をしかめる老人。子供を引き寄せる母親。
広場の空気は、障害発生直後のオフィスに似ていた。誰も全体像を知らないまま、とにかく何か悪いことが起きているとだけわかっている状態だ。
村長ガルドがこちらに気づき、急ぎ足で近寄ってくる。
「神殿はどうでした」
「良くない。だが今は報告より先に確認が必要だ」
「確認……何を」
「まず、水を飲んだ人間と飲んでいない人間を分ける」
ガルドの顔が強張る。
「まさか、毒ですか」
「まだ断定しない。だが近いものだと思ってくれ」
俺は井戸へ近づいた。
昨夜の赤黒い光は少し薄れていたが、完全には消えていない。水面の奥で、何かが脈打つように揺れている。
視界にログが出る。
contamination level: 23%
spread route: shallow water line / shared usage
symptom risk: fatigue, fever, mana intoxication, skill instability
「……飲料だけじゃないな」
「何かわかったのですか」とガルド。
「炊事、洗濯、畑の散水、家畜用の水。全部を止めろ」
「全部!?」
「全部だ。今すぐ」
広場がざわついた。
「そんなことをしたら朝の支度が……」
「家畜が困るぞ!」
「畑はどうする!」
当然の反応だ。
だがここで中途半端に止めるのが一番悪い。
「聞け」
俺は井戸の縁に片手をつき、村人たちを見回した。
「この水は、ただの汚れじゃない。体調不良だけで済む保証がない。子供の昏睡、魔法の暴走、井戸の異常。全部つながってる可能性が高い」
「今ここで止めないと、村全体に広がる」
脅しではなく事実だ。
ただ、事実はだいたい脅しに聞こえる。
ガルドが重く口を開いた。
「……代わりの水は」
「他の水源があるなら案内しろ。なければ最優先で探す」
「山側に古い湧き水があります。今はほとんど使っておりませんが……」
「そこを見せろ」
ガルドはすぐに若者を数人呼び、井戸の封鎖を始めた。
完全に納得したわけではないだろうが、少なくとも村長は被害を止める判断をした。そこは評価できる。
俺が広場を離れようとすると、後ろから声が飛んだ。
「旅の人!」
振り向くと、昨夜の少女――ミナが立っていた。
その顔色は悪くない。少し安心する。
「どうした」
「うちのお母さんが、夜から熱っぽいの」
「井戸の水を飲んだか?」
「たぶん……夕方にスープで使ってた」
早い。
予測より発症が早い個体がいるのか、それとも元々別の要因で悪化しやすい状態だったか。
「案内してくれ」
ガルドに湧き水の確認を後回しにすると告げ、俺はミナの家へ向かった。
◇
家の中は暗かった。
藁の寝台に横たわる女性は、額に汗を浮かべ、苦しそうに息をしている。
四十前後だろうか。頬が赤く、呼吸が浅い。
「母です……」
ミナの声が震えている。
俺は寝台の横に膝をついた。
視界に状態表示が開く。
Name: Alna
status: fever / mana intoxication (mild) / skill fluctuation
cause probability:
contaminated water exposure 61%
preexisting fatigue 23%
latent blessing conflict 16%
「……複合か」
熱だけではない。
スキルの揺らぎ。つまり、汚染水が“魔力回路”のようなものにも影響している。
ミナの母、アルナの胸元で淡い光がちらついた。
意識のないまま、何かのスキルが誤作動しているらしい。
「お兄ちゃん、治せる?」
ミナがすがるように見上げてくる。
ここで安易に「治せる」と言うのは危険だ。
俺にできるのは、根本原因の除去と、限定的なパッチ対応だけだ。万能の治癒術師ではない。
「応急処置はやる。だが水の原因を止めないと繰り返す」
「それでも、お願いします……!」
俺はアルナの状態ログをさらに開いた。
temporary action available
symptom suppression patch
skill stabilizer
warning: source contamination remains
「一時安定化か」
できる。
だが、乱発すると俺の権限や負荷に何かしらの制限が出る可能性もある。まだそこは読めていない。
少し迷ってから、俺は指を動かした。
apply skill stabilizer?
[YES / NO]
「YES」
青白い光が、アルナの胸元から全身へ広がる。
一瞬だけ苦しげに眉が寄ったが、すぐに呼吸が落ち着いた。胸元のちらつく光も収まる。
ミナが目を見開く。
「すごい……!」
「一時的だ。水は絶対に飲ませるな。別の水を用意しろ。食事も今あるものを確認して、井戸水を使ってるなら捨てろ」
「は、はい……!」
寝台から立ち上がった俺は、部屋の隅に置かれた鍋を見た。
まだ昨夜のスープが残っている。
「これも駄目だな」
鍋に視線を向けると、すぐにログが出る。
contamination trace detected
完全にアウトだった。
外へ出ると、ちょうどセレナが村の通りを歩いてくるのが見えた。
息を切らしている。かなり急いで回ってきたらしい。
「真壁!」
「何かわかったか」
「あなたもですか」
「今は情報交換が先だ」
セレナは一度息を整え、低い声で言った。
「神殿の古い記録に、水の管理についての記述がありました」
「続けろ」
「この村の水は、ただの地下水ではありません。丘の地下にある“風脈”と、北の谷の“水脈”が交わる場所を通って流れているようです」
「……複合系か」
嫌な予感しかしない。
「さらに、“青鍵”という言葉が何度も出てきました。正式には『水門の青鍵』」
「アクセスキーっぽいな」
「ええ。ただし保管場所が曖昧です。神殿長のみが知る、となっていて」
「引き継ぎなし、と」
「……はい」
やはりそうなる。
「もう一つあります」とセレナが続ける。「古文書の端に走り書きがありました。“水は境界を記憶する”と」
「抽象的だな」
「あなたの言葉で言えば、何を意味しますか」
俺は少し考えた。
「流路ログ、あるいは履歴保持機能かもしれない」
「相変わらず半分もわかりません」
「つまり、水を辿れば異常の出どころを追えるかもしれないってことだ」
セレナはようやく少し納得した顔をした。
そこへ、村長ガルドが走ってくる。
普段の落ち着きは消え、明らかに顔色が悪い。
「大変です!」
「今度は何だ」
「家畜小屋で、牛が二頭倒れました! それと、畑の一部が……」
言い終わる前に、俺の視界に警告が走った。
contamination spread confirmed
livestock impact detected
crop mana-burn symptoms detected
regional water node degradation: 31%
「ちっ、もう回ったか」
「真壁!」とセレナ。
「行くぞ。まず畑だ」
村の北側へ走る。
朝の光が少しずつ強くなり、被害の輪郭がはっきり見え始めていた。
問題の畑に着いた瞬間、俺は言葉を失った。
土の色が変わっていた。
黒ずんでいるわけではない。むしろ白く乾き、細かなひびが走っている。そのひびの間を、赤黒い光が糸のように這っていた。
「何だこれは……」
若い麦の芽は途中からねじ曲がり、先端だけがガラスみたいに透明化している。
自然現象には見えない。完全に“魔力焼け”だ。
セレナが青ざめる。
「こんな症状、見たことがありません」
「水を撒いたのはいつだ」
「昨日の夕方です」とガルド。
「井戸水か」
「はい……」
俺はしゃがみ込み、土に触れた。
指先にぴりっとした痺れ。
同時にログが開く。
mana-burn contamination
source match: village well / upstream pollution
note: same signature as node interference
「同一原因だな」
その時だった。
畑の奥から短い悲鳴が上がる。
「きゃっ――!」
振り向くと、村の若い男が尻もちをついていた。
その足元、用水路の浅い水の中で、何かがうごめいている。
蛇のような細長い影。
だが鱗ではない。表面は水そのものが固まったように半透明で、その内側を赤黒い筋が流れている。
「下がれ!」
俺が叫ぶのと同時に、その“何か”が跳ねた。
水の鞭みたいにしなり、男の足首に巻きつく。
「うわああっ!」
「セレナ!」
「わかっています!」
セレナの杖が光り、風刃が飛ぶ。
だが相手は生き物というより流体に近い。切れても、すぐにつながる。
視界に対象情報が出る。
contaminated water-form
classification: pseudo-life / unstable
origin: water node overflow fragment
weak point: core current disruption
「また面倒なタイプかよ……!」
水路の中の異常が、擬似生命みたいな形で溢れ始めている。
つまり汚染は、もう“飲むと危ない”段階を越えた。
インフラ障害が、実体化し始めている。
俺は用水路を睨みながら、低く吐き捨てた。
「悠長に鍵探ししてる時間もなさそうだな」
水の魔物めいたそれは、細い体を揺らしながら、ゆっくりとこちらへ顔のような先端を向けた。
朝日を受けた水面が赤く光る。
次の現場は、もう目の前まで来ていた。




