第2話:最初の一日
「本当にごめんっ!」
勢いよく下げられた頭が、テーブルににぶい音を立ててぶつかった。
目の前で平身低平に謝罪を繰り返す少女――ルル。
彼女が注文した料理の、温かく香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「い、いいって。飯奢ってくれたんだから、もうチャラにしようぜ」
俺は、少し引き攣った笑みを浮かべて手を振った。
――そこは、先ほどの油臭い路地裏とは対極にある場所だった。
暖色のランプが灯り、磨かれた木製のテーブルが並ぶ、少し小洒落た酒場。
客たちの笑い声は適度に遠く、焼きたてのパンとハーブの香りが混ざっている。
(しかしまさかあんなことになるとは…)
自分を通報した少女と今こうして食卓を囲むまで。
数奇な経験を反芻する。
ーー
捕まった後、俺は自分の人生を呪っていた。
なぜあの列で逃げてしまったのか。
なぜおとなしく殴られなかったのか。
そもそもなぜこんなことになっているのか。
まるで漬物石を飲み込んだように、胃に重みを感じたところ…
「あの…俺、この後どうなっちゃうんですかね…」
「…冒険者同士の揉め事など日常茶飯事だが…」
それじゃあ、大丈夫ってことか!?
一気に希望が胸に込み上げる。
「そうですよね!毎日起こってますよね!だって冒険者ですもんね!」
「いや、貴様はそうは行かない。身分証がないからな。」
「え…」
身分…証…
「あの、地元のやつなら…」
それもない。
財布自体はあるものの、身分証になるものが今日に限ってどこにも入っていない。
「嘘だろ、免許証もない…」
なんて運が悪いんだ。
たまたま家におき忘れてしまったらしい。
「…その様子だと、お目当てのものはなさそうだな」
「そう…ですね」
万策尽きた。
「このままだと、俺はどうなるんですか…」
「そこまで説明してやる義理はないが…よくて強制労働といったところだろう。」
「き、強制労働…!」
冗談じゃない。
何が悲しくて異世界まで来て労働でこき使われなければいけないのか。
だがそれをどうにかする手立ては思いつかない。
硬く冷たい地面の感触だけが、俺の現実。
(どうにもできないのか…)
「あの!」
万策尽きたとブルーになっていたそのとき、聞き覚えのある声がした。
「…お前は」
他ならぬこの現状を招いた元凶の一つ。
他でもない通報者本人だ。
「何用かな?」
「えっと、私彼を通報しちゃったんですけど…多分間違いみたいで」
「…ほう」
「えっと、君!さっきはごめんね、事情はなんとなくわかったから!」
「とにかく…私の早とちりだったんです!解放してあげてください!」
「お前…」
冷静に考えればマッチポンプだが、今ばかりは救いの聖女のように見えた。
「ですが彼は身分証となるものを所持しておりません。」
「法的解釈に基けば、逃亡の可能性が高いわけです」
「え、君そうなの!?」
「…は、はい」
「…えっと、彼実はあの直前にギルドで登録をしようとしていたみたいなんです。」
「それは...彼は、私がスカウトした『勇者クエスト』の志願者なんです!」
「だから! 私が身元引受人になります!」
「……ほう?」
「私のパーティメンバーとして登録します。もし彼が逃亡したり問題を起こしたら、私の冒険者ライセンスを剥奪して構いません! だから……!」
一斉に視線が降り注ぐ。
(なんだよ勇者クエストって…)
通報した少女が必死に首を縦に振る。
(そうか、俺に『はいそうです』って言えってことか!)
「はい、勇者になるつもりでした!!」
「ほう、そうでしたか。だとすれば話は変わってきますね。」
(な、なんか急速に話がいい方向に向かっている…!なんなんだ勇者クエストって…)
▽▲▽▲
あの後、事態は意外なほどあっさりと解決した。
無事俺の潔白は証明されたのだ。
『……多大なるご不便をかけた。心よりお詫び申し上げる。』
衛兵さんの謝罪。それはかたい、しかし心のこもったものだった。まあ、彼らは彼らの職務を全うしていただけなので、敵意があったわけではないのだろう。今思えば、怖がるような相手じゃなかった。俺たちの間にあったことは、本当に単なる不運でしかなかったのだ。
もっとも、釈放された瞬間、膝の力が抜けるほどの安堵を感じたのが本音なのだが。
(…まあ、正義感からやったんだろうけどさ)
俯き、顔を真っ赤にしている彼女を眺める。
――確かに、無抵抗な相手を殴り続けようとした(ように見えた)俺を止めたのは、一般市民としては正しい。
だが、心の片隅で、どうしても拭えない「不運」への愚痴が漏れる。
(どうせなら、俺がカツアゲされる「前」に来てほしかったよ。マジで)
――しゃくり。
カツアゲ、転移、逮捕、そして釈放。
たった数時間で人生の荒波をすべて乗り越えた気分になりながら、俺は目の前の「お詫びのディナー」に手を伸ばした。
(おお...!)
異世界の料理は、意外や意外、とてもおいしかった!
正直街並みを見た限りの文明レベルでは想像もしていなかったが。
「これ、めっちゃ美味いな、冷めないうちに食べようぜ。」
俺が舌鼓を打ったのは、炒めた梨のような果物の乗った、鶏肉のステーキだ。
あふれる肉汁に、塩気やスパイスが乗り、それでいて果物の香りと甘みが絶妙なハーモニーを奏で、噛めば噛むほどうまみが染み出る。
思わず、顔がとろけそうだった。
(おいしいご飯を食べれば、トラブル続きだろうと心が休まるな...)
「君っていいやつだね……えっと、ライチくん、でいい?」
テーブルに並んだ料理をぱくり、と一口運んだルルが、顔を上げてそう言った。
「ん? ああ。木道ライチだ。よろしく、ルル」
「コノミチ……なんだか珍しい響きの名前だね。どこから来たの?」
「あー、名前がライチで、苗字がコノミチだ。来たのは……その、故郷をどう説明すればいいのか分からなくてな」
(姓名の順は、こっちだと逆なのか...)
さりげない会話の中で、自分とこの世界の「ズレ」が浮き彫りになる。
俺にとっては当たり前の「名字・名前」の順やこの名前すら、ここでは「珍しい響き」として処理されるらしい。
(元居た世界でも割と珍しい名前ではあったのだけれども)
「まあそんなことはともかくだ。本題に入らせてもらうぜ。」
アイスブレイクはもう十分だろう。
ここから先はより切実な問題ーー
「勇者クエストってなんだ?俺どうなるんだ?」
ずばり、件の勇者クエストについて。
あの八方塞がりを打開するほどのなにか。
「俺は勇者ってことか…?」
「まあ、そうなるかな」
「ええ!そんなに簡単になれちゃうものなのか」
「スタートラインに立つだけならね」
「クエストってなんだ?」
「ギルドで受ける依頼のことだね。あ、君の分登録済まさなきゃだよね。」
「なんかさっきから返答が簡潔すぎないか?」
「ふふ、バレた?」
「バレるもクソもまんまじゃねえか!」
「ふふ、君面白い反応するね。」
「ま、意地悪はこれくらいにして。」
(最初からその対応で頼むぜ…)
「おほん、勇者クエスト。正式には、魔王討伐の無制限なフリークエストのことだね。とても公共性の高いクエストで、挑むだけで身分や市民権、つまり信頼が得られる格の高いクエストだよ」
「こーきょーせい?」
「国のためになるってことだね」
「それに挑む人間だから見過ごされた…ってことか?俺受けてねえけど…」
「それはこれから現実にすればいいのさ…それに、なにも意気込みだけで解放されたわけじゃない。」
(たしかに、みんなそのクエスト受けちゃえば役所の仕事がなくなっちゃうもんな…)
「だって君私のパーティだから」
ルルが悪戯っぽく、しかし申し訳なさそうに一枚の羊皮紙(端末でも可)を差し出す。 そこには、さっき衛兵所で俺が適当にサインさせられた書類の写しがあった。
「……これって」
「私が身元引受人になることで、特例として釈放してもらったの。これでもう、私が一緒にいれば君は大丈夫ってわけ。」
「嫌なら逃げてもいいけど……身元引受人がいなくなると、強制労働確定だから気を付けてねー」
(正直現状も強制労働に似た何かを感じるけどな...)
「……詰んでるじゃねえか」 「あはは、ごめんごめん。でも、鉱山よりはマシでしょ?」
ルルは手を合わせて謝りつつも、どこか楽しそうだ。 俺は大きなため息をつき、残りの肉を口に放り込んだ。 ……美味い。
「なら、これが最後の晩餐か?」
「ふふっ、それは私たち次第だね」
「でも、悪いことばかりじゃないよ」
「え?」
「冒険のあとのご飯はね、今の何倍も美味しいんだから」
彼女は窓の外、夜の闇に沈む街の向こう側へと視線を向ける。
「壁の外には、死ぬほど怖い思いをして、泥だらけになった人だけが見られる『絶景』が待ってる」
冒険。
そして、彼女は俺に向き直り、ニカっと笑った。
「行こうよ、ライチ君。――最高の『おかわり』をしにさ」
彼女の話を聞いていると、不思議と胸が躍った。
右の拳を、テーブルの下でそっと握りしめる。 あの路地裏で感じた、世界が止まるような全能感。 そして目の前で笑う、紫色の瞳の共犯者。
どうやら俺の人生は、俺の知らぬ間に大きく舵を切ってしまったらしい。 なら、その波に逆らうよりも――乗りこなしてみるのも、悪くない気がした。
「じゃあ、腹ごしらえにもう少し食べておいていいか?」
「お、いいねいいね、その意気だ!」
手に入れたのは、身元引受人の美少女と、謎の「使命」。
【魔王を倒し、天使の力を取り戻せ】
(……上等だ)
俺はフォークを握り直す。 このふざけた運命も、目の前の肉も。 残さず平らげてやろうじゃないか。
「すみませーん! お肉追加で!」
かくして、俺の異世界生活は、満腹と波乱と共に幕を開けた。




