名前のないブレンド
警察がグレアムを連れていった後、カフェ・ムーンライトには再び静寂が戻っていた。
特別な魔法も、騒ぎもない。ただ、夜の店内に、古時計の音だけが響いている。 連行される彼の背中は、どこか小さく見えた。 そこに、犯行を誇るような色はなく、かといって自らを弁明する言葉もありませんでした。
動機は、金銭でも、地位でもない。 それでも、彼は一線を越えた。 主への歪んだ忠誠心と、独占欲。その果てに、彼の心は壊れていたのかもしれません。もっと無様に、哀しいほどに。
「……終わりましたね」 「ええ、終わったわ」
カウンターの奥で、陽菜は丁寧にカップを洗っていた。 洗い流されていくのは、事件の余韻だ。 まだ手の震えは完全に止まっていない。けれど、胸の中には不思議な達成感があった。
私は、守れたのだ。 この店を。そして、これからも続いていく時間を。
「それにしても」 陽菜は、ふきあげたカップを棚に戻しながら、窓際の席に目を向けた。 「本当に、すごい推理力でした。ヒナリアさんがいなければ、私はきっと気づけなかった」
銀髪の女性は、いつもの席で、いつものように琥珀色の液体を揺らしている。 唐辛子と抹茶、そしてほんの少しの蜂蜜。 陽菜には理解できない、奇妙なレシピ。
ヒナリアはふふ、と柔らかく笑った。 「私は何もしていないわ。 観察していただけ。あなたがどう考え、どう動き、どう答えにたどり着くかを」
「でも、ヒントをたくさん……」 「ヒントなんてない。 それは全部、あなたの中にもともとあったものよ」
ヒナリアはカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。 銀色の髪が、店内の照明を受けてきらめく。
「そろそろ、行くわね」 「えっ、もうですか?」 「ええ。十分楽しませてもらったから」
彼女はカウンターに歩み寄り、代金のコインを置いた。 そして、陽菜の顔をまっすぐに見つめる。 その瞳の色は、陽菜が鏡の中で見る色と、よく似ていた。 ただ、そこには陽菜がまだ知らない“深み”と、長い時間を旅してきた者だけが持つ“静けさ”があった。
「陽菜」 名前を呼ばれ、陽菜は背筋を伸ばした。 「あなたの淹れるコーヒーは、世界で一番美味しいわ」
「え……ありがとうございます。でも、そんな」 「本当よ。 だって、そこには**“始まりの味”**がするから」
ヒナリアは懐中時計を懐にしまうと、満足そうに目を細めた。 「迷うことはないわ。 あなたは、あなたが思うよりもずっと賢く、強い。 ……今のままで、大丈夫」
それは、ただの客の言葉とは思えないほど、温かく、確信に満ちていた。 まるで、未来の結果を知っているかのような。
「あの、また……来ていただけますか?」 陽菜の問いに、彼女は扉に手をかけたまま振り返る。
「ええ。 あなたがここでコーヒーを淹れ続ける限り、私はいつでもここにいる」
カラン、コロン。 ベルの音を残して、銀髪の女性は夜の街へと消えた。
陽菜はしばらくの間、閉ざされた扉を見つめていた。 不思議な人だった。 初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい。 彼女の言葉一つ一つが、ストンと胸の奥に収まる感覚。
ふと、陽菜はカウンターに残されたカップを見た。 飲み干された、奇妙なブレンドの跡。
「……唐辛子と、抹茶」
陽菜は魔が差したように、自分用のカップを取り出した。 彼女の真似をして、同じ材料を入れ、お湯を注ぐ。 立ち昇る湯気は、少し刺激的で、ちぐはぐな香りがした。
一口、含んでみる。 「……んぐ」 やっぱり、変な味だ。辛くて、苦くて、甘ったるい。 顔をしかめながら、陽菜は苦笑した。
「やっぱり、私にはまだ早いのかな」
でも。 飲み込んだ後に残る余韻は、悪くなかった。 いつか、もっと大人になって、もっと色々な時間を過ごしたら。 この複雑な味が、美味しく感じる日が来るのかもしれない。
「……いらっしゃいませ」 不意に、自分の声が店内に響く。 それは未来の客へ向けた予行演習。
陽菜は顔を上げる。 窓ガラスに映る自分の姿が、一瞬だけ、あの銀髪の女性と重なって見えた気がした。
カフェ・ムーンライト。 そこは、不思議な噂のある店。 過去と未来が交差し、美味しいコーヒーの香りが漂う場所。
陽菜は今日も、カウンターに立つ。 いつか訪れる“私”に、最高の一杯を出すために。
(完)




