特等席の支配者
個室に残された銀色の置き物は、そのままになっていた。
警察が持ち帰らなかった理由は単純だ。
凶器だと断定できなかったから。
鋭角的な装飾品。
飾り棚に置かれた、ただの美術品。
だが、陽菜はそれを見つめながら確信していた。
「……これ、うちの店の物じゃありません」
ヒナリアの視線が、ゆっくりと陽菜に向く。
「そうなの?」
「はい」
陽菜ははっきりと頷いた。
「似たテイストのアンティークは扱っています。
でも、こんなに鋭利な形のものはありません」
毎朝、棚の埃を払う。
位置が変わっていれば、必ず気づく。
「事件の前日、開店準備の時にはありませんでした」
「つまり」
「誰かが、持ち込んだんです」
店内に、静かな緊張が走る。
「それも、客として入店して。
誰にも怪しまれずに、この棚へ」
ヒナリアは、すぐに次の問いを投げた。
「でも、それだけでは足りないわね」
「はい」
陽菜は、視線を椅子に移す。
「仕掛けを置くだけでは、殺せません」
伯爵が、あの席に座らなければ意味がない。
「数センチずれただけで、
角度も距離も成立しない」
「だから」
ヒナリアが言葉を繋ぐ。
「誰かが、座らせた」
「ええ」
陽菜は、記憶を辿る。
「伯爵は、用心深い人でした。
命を狙われていると怯え、
異世界の刺客を警戒していた」
そんな人物が、偶然で深く腰掛けるだろうか。
「普段、伯爵は窓際の席を選びます。
開けた場所で、背後を気にせずに済むから」
それなのに。
「あの日だけ、奥の個室でした」
ヒナリアの目が細くなる。
「理由は?」
陽菜は、はっとした。
「……予約です」
すぐにカウンターへ向かい、台帳を開く。
事件当日のページ。
そこには、伯爵本人の筆跡ではない文字があった。
『主人が静かな席を所望しております。
奥の個室を予約したい』
陽菜の喉が鳴る。
「伯爵自身が書いたものじゃありません」
「代理人」
「はい」
スケジュールを管理し、
席を指定し、
助言ができる人物。
「伯爵の行動を、自然に誘導できる人」
ヒナリアは黙って聞いている。
「事件の日、伯爵は一人で来店しました。
でも、入口までは誰かと一緒だった」
思い出す。
「従者です」
いつも影のように付き従い、
主人の安全を第一に考えていると見せていた男。
「彼なら」
陽菜の声が、わずかに震える。
「『奥の方が安全です』
そう言えば、伯爵は疑いません」
「椅子を引き、
『この位置が一番落ち着きます』
そう言われれば、深く腰を下ろす」
静かに、結論が形を成す。
「このトリックに必要だった最大の条件は、
技術でも、魔法でもありません」
陽菜は、強く言った。
「信頼です」
ヒナリアは、小さく息を吐いた。
「被害者からの信頼を利用した殺人」
「はい」
陽菜は、置き物を見つめる。
「犯人は、
仕掛けを置けて、
席を指定できて、
その場にいなくても怪しまれない」
条件は、ほぼ一つに絞られていた。
その時。
カラン、コロン。
店のベルが鳴った。
二人は同時に入口を見る。
夜の冷気を背に、
一人の男が立っていた。
整えられた髪。
黒い服。
白い手袋。
穏やかな笑み。
「こんばんは」
男は、深く頭を下げた。
「主人が、忘れ物をしたようでして」
その視線は、
陽菜の手元にある予約台帳へ向けられていた。
「回収に伺いました」
陽菜の背筋が、冷たくなる。
推理は、終わった。
これから始まるのは。
証明の時間だ。




