凍結された時間
世界が、止まっていた。
音も、光も、カフェ・ムーンライトに満ちていたはずの温度さえ、ひとつの瞬間に縫い留められている。
湯気の立ち上る途中で固まったカップ。壁に掛けられた時計は、秒針を失ったかのように沈黙していた。
「……これが、時間を凍結させた状態」
陽菜は、言葉を失った。
動いているのは、陽菜とヒナリアだけだった。
「安心して。この状態なら、犯行の痕跡は壊れないわ」
ヒナリアはそう言って、個室の中をゆっくりと歩いた。足音は、ほとんど響かない。音そのものが、空間に吸い込まれているようだった。
「……でも」
陽菜は、伯爵の遺体から視線を離せずに言った。
「どうして、殺されたんでしょう。誰も動けないはずなのに」
「だからこそ、魔法が疑われるの」
ヒナリアの声は、淡々としている。
「異世界には、時間凍結の中でも行動できる術式が存在する。研究段階のものだけれど……理論上は可能よ」
"可能"。
断定ではなく、あくまで仮説。それでも、陽菜の胸はざわついた。
「じゃあ……犯人は、この部屋を歩き回って……」
「そう考えるのが、自然でしょうね」
ヒナリアは懐中時計を軽く弾き、個室の隅に視線を向けた。
そこで、陽菜はそれを見た。
「……影?」
壁に、不自然な影が落ちている。
人の形に近いが、どこか歪だ。肩幅が曖昧で、輪郭がやけに細く――どこか鋭い。まるで、人と物の中間のような――そんな印象。
「誰かが……そこに立っていた、ってことですか?」
「そう見えるわね」
ヒナリアは、肯定も否定もしなかった。
陽菜は影を見つめながら、説明できない違和感を覚える。
「時間を止めて、動けて、そのまま伯爵を刺した……」
「鉄壁のアリバイね」
ヒナリアは静かに頷いた。
「時間凍結中の殺害。外部から見れば、完全犯罪に見える」
陽菜の視線が、テーブルに残されたカップへ移る。
「……でも」
小さな引っかかりが、胸の奥に残っていた。
「伯爵、コーヒーを飲んでいませんでした」
「ええ」
「毒殺なら、飲ませた方が自然です。それに……」
陽菜は、言葉を選びながら続ける。
「刺し傷は正面。争った形跡もない。椅子も倒れていません」
凍結された部屋を、改めて見回す。
「もし犯人が自由に動けたなら、もっと"整えられた現場"にできたはずです」
沈黙。
ヒナリアはすぐに答えなかった。懐中時計を指先でなぞりながら、陽菜を見つめる。
「……なるほど」
それだけ言って、時計の蓋を閉じた。
パチン。
音と共に、世界が動き出す。
止まっていた空気が流れ、カフェの日常が、何事もなかったかのように戻ってくる。
「今は、その考えでいいわ」
ヒナリアは、いつもの席へ戻りながら言った。
「"時間凍結中に動ける犯人がいる" まずは、そう仮定して進みましょう」
陽菜は頷いた。
だが、胸の奥の違和感は消えない。
本当に、犯人は動いていたのか。
それとも――動いていないのに、動いたように見えただけなのか。
カフェ・ムーンライトの夜は、まだ答えを教えてくれない。




