9章 夢の値段
黒川と出会った夜から、佐藤の頭の中はずっとざわついていた。
ベッドの天井を見上げても、黒川の言葉が耳の奥で鳴り続ける。
「心が動けば金も動く。結局、同じことだろう?」
現実を見ているようで、どこか挑発的な響きだった。
それが不思議と、佐藤の胸に残って離れなかった。
起業してから半年。
理想だけで走ってきた「Reframe」は、今や資金難のど真ん中にいる。
スポンサーは離れ、機材は中古をつなぎ合わせたもの。
次の展示に必要な費用すらギリギリだった。
松田は「もう少し自分たちで頑張ろう」と言ったが、
佐藤はもう限界を感じていた。
彼の脳裏には、
“本当にこのままでいいのか?”という焦りが絶え間なく渦巻いていた。
夜更け、机の上で再生した映像には、
母と笑い合う松田の姿が映っている。
「ねえ、お母さん、覚えてる?この海。」
撮影のときにそう言っていた松田の声が、妙に優しく響いていた。
その映像の向こうに、自分たちが追い求めていた“原点”がある気がした。
だが、そこには現実の金は流れない。
「……このままじゃ終わる」
そう呟くと、スマホの画面に黒川の名刺を見つめた。
翌朝。
喫茶店「ルポ」で、佐藤はいつになく早く来て待っていた。
曇り空の下、窓の外を見つめながら、
カップに注がれたコーヒーの黒が、まるで決断のように重く見えた。
やがて、松田がドアを押して入ってくる。
彼は少し疲れた顔で笑いながら座った。
「昨日の人……黒川さんって言ったっけ?」
「うん。覚えてる?」
「もちろん。あの人の笑い方、なんか引っかかるけど」
松田はそう言いながら、スプーンを回した。
佐藤は少し身を乗り出した。
「彼、資金出してくれるって。技術支援までしてくれるらしい。
これ、チャンスだと思うんだ。」
「……“らしい”ね」
松田は低く言って、目を伏せた。
「でもあの人、『心を動かすことも商売のひとつだ』って言ってたよな。
それ、ちょっと違う気がする。」
「違う? 何が?」
「俺たちがやりたかったのは“売るための感動”じゃなくて、
“残る感動”だろ?」
佐藤はわずかに眉をひそめる。
「でも、それを広めるには金がいる。
お前の母さんの治療費だって、まだ続くだろ?」
松田の手が、カップの取っ手で止まった。
小さく震えた。
「……それを持ち出すのは卑怯だろ」
「卑怯じゃない。現実だ」
「金で母さんを救えるなら、もう救われてるよ」
喫茶店の空気が、わずかに冷えた。
隣のテーブルにいた客が、新聞をたたむ音がやけに響く。
「……お前、焦ってるんだろ」
「焦ってるよ。俺たちの夢、もう消えそうだ。
黒川さんが手を差し伸べてくれてるのに、
お前は“なんか違う”って感覚で拒むのか?」
「感覚じゃない。違和感だよ。」
松田は強く言い切った。
「金の匂いしかしない感動なんて、誰の心にも残らない。」
その言葉に、佐藤の表情が一瞬歪む。
「……理想だけじゃ、客も救えないんだよ。」
「理想がなかったら、そもそも始めてない!」
一拍、二拍、沈黙。
カップの中の液面に、揺れる二人の顔がぼやけて映った。
やがて松田は、ふと立ち上がる。
「……分かった。もし本気で進めたいなら、俺も行く。
黒川さんと直接話して、それで決めよう。」
「……ああ、いいよ。」
佐藤の声は小さく、どこか疲れていた。
喫茶店を出ると、雨が上がったばかりの空気が肌を刺した。
道路に残った水たまりが、信号の赤を揺らめかせている。
歩きながら、松田はポケットの中で母の写真を握りしめた。
ベッドで穏やかに笑うその顔に、
「俺、間違ってないよな」と小さく呟いた。
一方で佐藤は、遠くを見つめていた。
黒川の言葉――“現実を見ろ”が、
どこかで正しいようにも思えていた。
“金を稼げば、誰かを救える”
そう思い込もうとするたび、
胸の奥で何かが擦り切れる音がした。
二人の足音だけが、濡れたアスファルトを叩く。
同じ道を歩いているのに、
心の距離は、もう並んではいなかった。




