27章 共鳴の代償
灰色の空の下、ガラス張りのオフィス街の一角。
そのカフェの隅で、松田は黒川を待っていた。
久々に届いた黒川からのメッセージには、短く「話がある」とだけ書かれていた。
そして最後に添えられていた一行――
「あの映像を見た」
テーブルに置かれたコーヒーは、もう冷めていた。
黒川は、時間ぴったりに現れた。
黒いスーツ、無表情の目。だがその瞳の奥には、何かを隠しているような熱がある。
「久しいな、松田くん」
「……あんたのコード、使わせてもらった。助かったよ」
「助かった、ね。だが君、あれがどんなデータか理解してるのか?」
黒川の声には穏やかさと警告が混じっていた。
松田はわざと気づかぬふりをするようにカップを口に運ぶ。
「母の映像が完成した。笑ってたよ」
「それは良かった。だが、それは――君の母親じゃない」
静寂。
空気が一瞬、凍りつく。
黒川はタブレットを取り出し、松田の装置に残されたログを映した。
そこには、感情波形の一致率「93.6%」という数値。
比較対象は、黒川が十年前に失った母の感情データだった。
「君が見た“笑顔”は、私の母の感情を再構築した結果だ」
「そんなはず……」
松田は言葉を飲み込んだ。
黒川はゆっくりと続ける。
「私は、自分の母の“死”を受け入れられなかった。
だから、彼女の感情を記録し、データとして保存した。
それを君のアルゴリズムに渡したのは、偶然じゃない。
君がそれをどう扱うか、見たかったんだ」
「実験のつもりだったってことか」
松田の声が低くなる。
「違う。君の“心”を確かめたかった。
私は、感情の再現が“誰かを救う”か、“壊す”かを知りたかった」
その言葉に、松田は拳を握りしめた。
「ふざけるなよ……! 俺は母を救うために――」
「救っているのは誰だ? 君の母か、それとも君自身か?」
黒川の声は冷たかった。
「共鳴には代償がある。
他人の感情を自分の中に取り込めば、それはやがて君自身を侵食する。
感情は共有できても、責任は共有できないんだ」
松田は立ち上がった。
「それでもいい。誰かが笑ってくれるなら、それでいいんだ!」
「……そうか。なら、もう止めはしない」
黒川は小さく微笑んだ。
だが、その微笑みはどこか寂しかった。
帰り道、松田の頭の中で、母の声と黒川の言葉が混ざり合う。
「感情は、誰のものだ?」
「笑ってくれるなら、それでいい」
その二つの言葉が、何度も反響した。
開発室に戻ると、佐藤が待っていた。
「黒川に会ったのか?」
「ああ」
「どうだった?」
「……多分、俺たちは正しいことをしてる。でも、それが“誰にとって”正しいのかは、もう分からない」
佐藤は黙って松田の肩に手を置いた。
モニターには、“ReFeel”の新バージョンが起動していた。
画面の中で、笑顔の母がもう一度現れる。
松田は、そっとヘッドセットを手に取った。
「この笑顔のためなら、俺は何を失ってもいい」
その瞬間、モニターの端に小さく文字が浮かんだ。
「Emotion Source: Kurokawa_Prototype_02」
だが松田は気づかない。
装置が再び動き出し、データが呼吸を始める。
感情と記憶、現実と虚構の境界が、再び溶けていった。




