26章 データの呼吸
映像の中で揺れる桜並木。
その下を歩く女性の背中に、松田は思わず息を詰めた。
後ろ姿しか映っていないのに、分かる。
あれは母だ――いや、“母のような存在”だった。
「再現、できた……?」
佐藤が声を震わせる。
松田は何も答えず、ただ画面に手を伸ばした。
まるでそこに触れれば、かつての時間に戻れるような気がして。
だが、その映像は次の瞬間、ノイズを伴って崩れた。
ピンク色の花びらがデータの粒子に変わり、母の輪郭が滲んで消える。
「――やっぱり、まだ不安定だ」
モニターが暗転し、室内にはパソコンのファン音だけが残った。
「松田。あれ……どうやって生成した?」
「黒川の感情データをベースにしたアルゴリズムを組み替えた。母の写真と声の波形を組み合わせて……」
「それ、本当に大丈夫なのか?」
「何が?」
「誰かの“感情”を使うってことだよ」
佐藤の声が低く響いた。
「誰かの悲しみや痛みを、母の笑顔に変える。そんなこと、やっていいのか?」
松田は少しの沈黙のあと、笑うように息を吐いた。
「……じゃあ、感情を使わなければ、何を使う? ただのデータに意味はないだろ」
「違う。俺が言ってるのは――」
言いかけた佐藤の言葉を、松田は遮った。
「この装置が完成すれば、母はもう一度“生きる”んだ。
過去じゃなく、今として」
その言葉に、佐藤は返す言葉を失った。
松田の瞳の奥に、狂気のような確信が宿っていたからだ。
それから数日、松田はほとんど寝ずに作業を続けた。
感情データを“呼吸”として再現する新たな試みを始める。
人が感情を抱くときのわずかな身体変化――心拍、体温、瞳孔の動き――を数値化し、
そこに“記憶の断片”を結びつけるというもの。
コードの名は 「DataBreath_α」。
夜中、松田はまた母の写真をモニターに映した。
画面の奥から柔らかい笑みが返ってくる。
「母さん……もう少しだよ」
だが、彼が知らないところで、そのデータの一部には黒川の実験プログラムが組み込まれていた。
“人間の感情パターンを模倣するAIの試作コード”――つまり、
今の松田が生成している映像は、誰かの“追憶”ではなく、
黒川自身が抱えていた喪失の感情を反映したものだった。
翌朝。
佐藤が出社すると、松田はモニターの前で虚ろな目をしていた。
「松田、大丈夫か?」
「……母が、笑ってたんだ。昨日。ちゃんと、こっちを見てた」
「え?」
モニターには、穏やかな笑顔を浮かべる女性の映像が映っていた。
だが、その目元はどこか悲しげで、微かに黒川の母の面影が重なって見えた。
「これ……本当に、お前の母さんか?」
「母さんに決まってる!」
松田が声を荒げた瞬間、装置が高音を立てて止まった。
「……もう、境界が曖昧になってる」
佐藤が小さく呟いた。
現実と仮想の、そして他人の感情と自分の想いの境界が――。
松田はその言葉を聞いても、ただ笑っていた。
「感情に境界なんてないよ、佐藤。
共鳴して、重なって、溶け合って、初めて“人”になるんだ」
その声は、どこか遠くから聞こえるようにかすれていた。
まるで彼の中の“何か”が別のものに置き換わっていくように。
夜、松田が帰った後。
佐藤はそっと装置を起動させ、保存データを確認した。
そこには、黒川の署名付きのファイルがあった。
「Emotion Source : Kurokawa_Prototype」
「……やっぱり」
佐藤は静かにファイルを閉じた。
そして、画面に映る“母の笑顔”を見つめた。
その笑顔の奥で、どこか別の誰かが泣いているように見えた。




