19章 もう一度あの場所で
夜の工房に、機械の低い唸りだけが響いていた。
「……準備、できた。」
佐藤は静かに言った。
松田は彼の隣に立ち、最後のケーブルを差し込む。
「ほんとにやるのか?」
「やらなきゃわからないだろ。」
その声に迷いはなかった。
だが、松田には分かっていた。
佐藤は“知りたい”んじゃない。
“取り戻したい”んだ。
モニターに走る波形。
呼吸のリズムを測る装置が、淡い緑の光を点滅させる。
「……何かあったら、すぐ切るからな。」
「あぁ。」
佐藤がヘッドセットを装着する。
黒いバイザーが目元を覆い、世界が閉じられる。
スイッチが押され、青白い光が弾けた。
気がつくと、そこは春の河川敷だった。
風が草を揺らし、夕焼けが川面に揺れている。
懐かしい匂い。懐かしい音。
「……ここ、俺らの場所じゃねぇか。」
十七歳の頃、優斗とよく来ていた場所。
未来のことを語り合い、くだらない夢を笑い合った。
「やっぱり……ここに、いるのか。」
川の向こうから、誰かが手を振っていた。
白いシャツ。無造作に伸びた髪。
夕日に照らされて、笑っている。
「……優斗……?」
彼は確かに、そこにいた。
記憶の中と変わらない笑顔で。
「お前、変わってねぇな。」
「お前こそ。髪伸びたな。」
会話が自然に流れる。
十年前の続きを、そのまま始めたみたいだった。
「覚えてるか? 最後に喧嘩した時。」
「……覚えてる。
俺、あの日、あんなこと言うつもりじゃなかった。」
「“お前なんかもう友達じゃねぇ”って?」
優斗は笑った。
その笑みには怒りも悲しみもなかった。
「俺、あの時、運転しなきゃよかったな。」
佐藤の声が震える。
「俺が止めてれば……お前、死ななかったのに。」
風が止まった。
空気が、わずかに重くなる。
優斗は少し黙ってから、
「なぁ、もういいんだよ。」と静かに言った。
「俺はここでちゃんと生きてる。お前も前に進め。」
その言葉に、胸が締めつけられた。
“生きてる”──その響きが、どこか不自然に響いた。
「……優斗、お前、今、どこにいるんだ?」
「ここだよ。お前が望んだ場所に。」
彼の瞳が一瞬だけ、ノイズを走らせた。
笑顔が途切れ、輪郭がわずかに揺れる。
現実世界。
松田はモニターを食い入るように見つめていた。
脳波が高ぶり、危険値を示している。
「佐藤……戻れ、深く入りすぎてる!」
通信は届かない。
佐藤は装置の中で小さく呟いていた。
「もう少しだけ……もう少し、話したいんだ。」
優斗は微笑んだ。
「なら、ちゃんと覚えててくれよ。
俺がここにいることを。」
「でも……ここって、どこなんだ?」
優斗は答えなかった。
ただ、遠くを見て微笑んでいた。
その背後の風景が、少しずつ崩れ始める。
夕焼けが黒く染まり、川面がノイズのように歪んでいく。
「優斗!」
佐藤が駆け寄ろうとした瞬間、
視界が真っ白に弾けた。
目を開けると、そこは再び工房だった。
松田が彼の肩を揺さぶっている。
「佐藤! 聞こえるか!」
「……あぁ、大丈夫。」
汗に濡れた額。
けれど、その目はどこか遠くを見ていた。
「見えたんだ。」
「何が?」
「優斗が、笑ってた。」
松田は何も言わなかった。
ただ、静かにその言葉を受け止めた。
だが、モニターの隅。
消えたはずのデータログに、ノイズ混じりの音声が残っていた。
『……ここは、どこなんだ……?』
それが佐藤の声なのか、優斗のものなのか。
誰にも、わからなかった。




