15章 歪んだ共鳴
黒川の研究施設を出たあと、
松田は夜風の中でしばらく立ち尽くしていた。
湿った風が頬をなでる。
だが心の中は冷たいままだった。
──佐藤は、もうあの頃の佐藤じゃない。
思い出を語り合って笑っていた大学時代。
“人の記憶を温めるような仕事をしたい”
そう言っていた友の姿が、遠く霞んで見える。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面には知らない番号。
一瞬ためらったが、通話ボタンを押す。
「もしもし、松田さんですか?」
聞き覚えのない女性の声だった。
「黒川投資グループの関係者の方から、お話が……」
「黒川?」
「ええ、以前彼の会社に勤めていた者です。
あなたが彼と関わりを持ち始めたと聞いて……」
松田は足を止めた。
女の声は低く、どこか怯えを含んでいた。
「黒川さんには……気をつけてください。
あの人は“記憶”をただのデータだと思ってる。
人の心なんて、数字でしか見ていない。」
「どういうことですか?」
「以前、彼が手掛けた“記憶保存実験”で問題が起きました。
亡くなった家族の記憶を再構成しようとした被験者が……
現実に戻れなくなったんです。」
沈黙。
松田の指先が冷たくなった。
「黒川さんはそれを“成功例”と呼びました。
“人が過去に生き続けることも幸福の形だ”と。」
通話が切れる直前、彼女は言った。
「佐藤さんを止められるのは、あなたしかいません。」
──ブツッ。
街灯の光の下で、松田はしばらく動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
翌日、佐藤のオフィスに向かった。
以前のカフェを改装しただけの小さなスペースだが、
室内には高性能のVR機材とスタッフが並んでいた。
扉を開けると、佐藤が誰かと話している声が聞こえた。
ガラス越しに見ると、相手は黒川だった。
「──投資額を増やす代わりに、使用データを全てうちに渡してもらう。
もちろん匿名処理はする。問題ないだろう?」
「……利用者の“体験記録”ですか?」
佐藤の声が揺れる。
「そう。商業化には必須だ。」
黒川の笑みは静かだった。
「君はまだ、“理想”と“現実”の線を引けていないようだな。」
松田は思わずドアを開けた。
「待てよ、それ本気で言ってんのか。」
二人の視線が一斉にこちらを向いた。
「松田……来てたのか。」
佐藤の顔に、微妙な戸惑いが走る。
「“体験記録”って、人の記憶そのものだろ?
それを勝手にデータとして売るつもりか?」
黒川は肩をすくめた。
「“売る”なんて下品な言い方をしないでくれ。
データを“価値化”するんだ。
思い出を共有することで、人は新しい形の共感を得る。」
「共感じゃない、それは搾取だ。」
一瞬、空気が張り詰めた。
だが佐藤は、黒川の方を見たまま言った。
「……でも、もしそれで資金が集まるなら。
もっと多くの人が“救われる”かもしれない。」
「佐藤、お前まで……」
松田の声がかすれた。
黒川がゆっくりと立ち上がり、
「若い理想家にしては賢い選択だ」と言い残して部屋を出ていった。
静寂が残る。
時計の針の音がやけに大きく響く。
「なあ、佐藤。」
松田が絞り出すように言った。
「お前、本当にそれでいいのか?」
「松田……俺だって分かってる。」
佐藤は俯いた。
「でも、俺たちが“きれいごと”を言ってる間に、
黒川は本当に世界を変えようとしてる。
方法が間違ってたとしても、結果は残る。」
「間違ってたら、意味なんてないだろ。」
「意味を決めるのは俺たちじゃない。」
その言葉に、松田は何も返せなかった。
佐藤の目には、迷いと焦りと、どこか寂しさが混ざっていた。
──あの頃と同じ夢を見ているのに、
見ている景色はもう別のものになっていた。
外に出ると、雨が降り始めていた。
傘も差さずに歩く松田の胸の中で、
あの言葉が何度も反響していた。
「意味を決めるのは俺たちじゃない」
違う。
そうじゃない。
けれど、どう反論すればいいのか分からなかった。
街の明かりが滲み、
夜の匂いが重く沈んでいた。
松田の中で、
友情の形が、静かに崩れ始めていた。




