13章 沈黙の境界
深夜、オフィスの照明は半分落ちていた。
モニターだけが青白く光り、無機質な空間を照らしている。
松田は、ひとり椅子に腰を下ろしたまま、
進捗フォルダの中を整理していた。
「……ん?」
見慣れないフォルダがひとつ、隅にあった。
「VR_archive_ex」──そんなファイル名、記憶にない。
佐藤が試作中のバックアップでも入れたのかと思い、
軽い気持ちで開いた。
中には、動画ファイルがいくつも並んでいた。
「test_memory_01」「prototype_ver3」「user_sample」……。
どれも、正式なデータベースには存在しない。
松田は無意識のうちにクリックしていた。
画面に映し出されたのは、
夕焼けの下の古い公園だった。
揺れるブランコ、赤錆びたジャングルジム。
そして、小さな男の子と、その手を握る女性の姿。
「……これ……」
母親が子供の髪を撫でる。
柔らかく微笑むその横顔に、見覚えがあった。
――佐藤の、母親。
呼吸が止まった。
目の前の映像は、明らかに“思い出”を再現している。
でも、誰がこの映像を入力した?
佐藤本人しか知りえない記憶だ。
そのとき、画面の隅に白いロゴが一瞬光った。
「Kurokawa Industries」。
息を呑む。
心臓が小さく跳ねた。
あの男の名前。
黒川。
嫌な予感が、肌を這い上がる。
松田はそっと画面を閉じ、額に手を当てた。
胸の中に湧いてくるのは怒りよりも、
理解できない“喪失感”だった。
どうしてだ。
なぜ、佐藤が──。
机の上には、二人で描いた事業計画書が広がっていた。
“人の思い出を、もう一度“感じられる”装置をつくる”
あの日、理想だけで走り出した夢。
それが今、金と契約のにおいにまみれようとしている。
指先が、震えた。
「……信じたかったのにな。」
小さく呟いた声は、冷たい蛍光灯の音に掻き消えた。
翌朝。
いつものように佐藤が先に出社していた。
白いシャツの袖をまくり、笑顔で迎える。
「おはよう、昨日残業してたでしょ?進んだ?」
その声が、妙に軽く聞こえた。
松田は笑顔を作り、返した。
「まあな。少しだけ、形になってきたかも。」
「よかった。次の試作、もう一段階いけそうだな。」
ふたりの会話は普段どおり。
だが、その裏で松田の視線は、
佐藤のポケットに忍ばせたUSBの膨らみを見逃さなかった。
昼、佐藤は電話のため外に出た。
松田は、コーヒーを片手に窓際へ向かい、
見えないふりをして、ドアの外の声に耳を澄ませた。
「……はい、黒川さん。ええ、予定どおり週末に。
試作データは整理できています。」
静かな声だった。
だが、それが松田の胸に深く突き刺さる。
やっぱり。
佐藤の声は穏やかで、誠実にさえ聞こえる。
裏切りを自覚していないようにも感じられる。
だからこそ、苦しかった。
黒川と手を組んだ理由を知りたい。
けれど、問い詰めればすべて壊れる。
その夜。
佐藤は再び残業をしていた。
松田は帰るふりをして階段の陰に身を潜めた。
ガラス越しに見える佐藤の姿。
机の上に広げられたノートPC、
その横に置かれた黒川の名刺。
佐藤は画面を見つめ、
深く息を吐いていた。
「……これでいいのか……?」
彼の口から漏れたその言葉が、
松田の胸を締めつけた。
“これでいいのか”
つまり、迷っている。
完全に黒川の手の中に落ちたわけではない。
だからこそ、まだ間に合うかもしれない。
松田は踊り場に背を預け、
静かに空を仰いだ。
階下からは自販機の音。
遠くで雨が降り出していた。
「……ごめんな、佐藤。」
呟いた声は誰にも届かない。
翌日、佐藤は少し浮かれたような顔で出社してきた。
「黒川さんの会社、ついに試作支援の契約が通りそうなんだ。」
松田の胸が、ドクンと音を立てた。
「そうか……」
その言葉だけで精一杯だった。
佐藤は続けた。
「これで、VR装置の基盤をちゃんとつくれる。
今までの“想像の装置”から、“体験の装置”へ進化できるんだ。」
その瞳には、かつてと同じ熱が宿っていた。
だが、その熱の向かう先はもう、違う場所を見ている。
松田は黙って頷いた。
「いいと思う。だけど……焦るなよ。」
佐藤は笑った。
「わかってるよ、親方。」
冗談めかした呼び方に、
懐かしさと痛みが混ざった。
松田は自分のデスクに戻り、
スマホのメモアプリを開いた。
タイトル:「黒川との接点」
そこに箇条書きで、
・非公開フォルダ“VR_archive_ex”の存在
・黒川のロゴ入り映像
・週末の面会予定
と記した。
そして最後に、一行だけ追加した。
“彼を責めるな。見届けろ。”
モニターの光が、目に沁みた。
黒川から届いたメールを開く。
宛名は「佐藤悠」だけ。
文面は短く、冷たい。
“契約の準備は整いました。
次のステップへ進みましょう。
あなたの決断を、私は信じています。”
“信じています”という文字が、
まるで皮肉のように見えた。
松田はその画面を閉じ、
静かに椅子の背にもたれた。
黒川の目的は何なのか。
資金か、技術か、あるいは……人の記憶そのものか。
ひとつだけ確かなのは、
もう二人の関係が、元の形には戻らないということだった。
「今度は俺が、お前を見守る番だ。」
低く呟いたその声は、
誰もいないオフィスに溶けていった。
蛍光灯の明かりが一瞬だけ揺れ、
空気が変わったように感じた。
まるで、
“戦いの始まり”を告げる合図のように。




