11章 静かな裏切り
深夜のオフィスに、ひとり残った佐藤はディスプレイの光を見つめていた。
試作品のVRレンズが机の上に転がっている。
小さな金属の枠の中に、何百時間もの思い出が詰まっていると思うと、胸がざわついた。
黒川と会った夜から、ずっとこの感覚が抜けない。
理想だけで走る松田。
現実を見ようとする自分。
どちらが正しいのか、もうわからなくなっていた。
そのとき、スマホが震えた。
「――黒川です。少し、話せるか?」
佐藤はためらった。
けれど、気づけば通話ボタンを押していた。
「君、いい目をしてたよ。
理想を語るだけの若者とは違う。現実を見てる。」
黒川の声は、まるで誰かの心を掴むように低く柔らかい。
「あなたの提案……やっぱり気になります。
ただ、松田にはまだ――」
「言わなくていい。彼は信念が強い。だが、それが足かせにもなる。」
その言葉に、佐藤は沈黙した。
図星だった。
理想を守る松田の姿は、美しい。
けれど、それは時に“前に進む力”を奪う。
「君は迷っている。でも、迷うってことは、もう動き始めてるんだ。」
黒川の言葉に、心がわずかに傾く。
「……もし、僕が本気で装置を完成させたいと言ったら?」
「資金を出そう。ただし、条件がある。」
黒川の声が、静かに落ちた。
「装置の“記録機能”を加えるんだ。
ユーザーが見た思い出を保存し、共有できるようにする。
“共感装置”として売れば、一気に市場が広がる。」
佐藤は息をのんだ。
共有――つまり、個人の思い出を“商品化”するということだ。
「……それじゃ、誰かの記憶を利用することになります。」
「違う。救うんだ。孤独な人に、他人の温もりを分けてやる。
君たちの技術なら、それができる。」
黒川の言葉には、一種の熱があった。
冷酷な商人ではない。
どこか“本気で信じている”人間の声だった。
「……どうして、そこまで?」
「私も昔、思い出を失った。もう一度会いたい人がいた。
――でも、叶わなかった。
だから私は作ることにしたんだ。“失ったものを取り戻す装置”を。」
一瞬、空気が変わった。
黒川の表情が、照明の影に沈んで見えない。
その語り口には、かすかな悲しみが滲んでいた。
佐藤は息を整え、ゆっくりと頷いた。
「……データをお渡しします。開発の参考にしてください。」
黒川の口元に笑みが浮かぶ。
「正しい選択だ。君はきっと、遠くまで行ける。」
通話を切ったあと、佐藤はしばらく動けなかった。
胸の奥で何かが軋んでいる。
「……遠くまで、か。」
机の上のノートを開く。
松田の手書きの設計図が貼ってあった。
“VR記憶再体験装置『Reframe Core』”
ページの端に、走り書きのように松田のメモがある。
「現実の思い出こそ、未来を変える。」
その文字が、痛いほどまぶしく見えた。
窓の外では、夜明け前の街がうっすらと白み始めている。
遠くで新聞配達のバイクが通り過ぎた。
世界がまた動き出す。
佐藤は小さく息を吐いて、ノートPCを閉じた。
データを保存した外部ドライブをポケットに入れ、
ビルを出ると、まだ冷たい朝の風が頬を撫でた。
――これが裏切りだと分かっている。
でも、どこかで思っていた。
これがきっと“前に進むための一歩”なのだと。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
街の輪郭が浮かび上がるその中で、
佐藤の影だけが、長く、静かに伸びていった。




