10章 見えない境界線
黒川のオフィスは、都心のビルの最上階にあった。
全面ガラス張りの窓から見下ろす夜景は、まるで別世界のようだ。
ネオンの光が反射して、壁一面がゆらゆらと輝いている。
「ようこそ。久しぶりだね」
黒川は上機嫌な笑みを浮かべ、二人をソファに招いた。
その仕草にはどこか舞台俳優のような誇張がある。
テーブルにはワインが並び、壁の大型モニターには無数の映像が流れていた。
子供が亡き父と笑い合う光景。
若い女性が結婚式で亡くなった祖母とハグを交わすシーン。
どれも美しく、しかしどこか不自然だった。
「これは……あなたが作った映像ですか?」
松田が訊ねると、黒川は満足げにうなずいた。
「そう。AI……いや、我々は“自動演算編集”と呼んでいるが、
これが今の『記憶再現ビジネス』の最先端だよ。
“現実に存在しなかった思い出”を、完璧に映像化できる。」
松田は眉をひそめた。
「存在しなかった、って……それはつまり嘘ですよね。」
「嘘でも救われるなら、それでいいじゃないか。」
黒川は笑った。
「人はみんな、過去を美しく覚えたいんだ。
私たちの仕事は、それを“再編集”してあげることだよ。」
その言葉に、松田の心がざわつく。
横で佐藤が慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「……僕たちがやろうとしているのは、少し違うんです。
“思い出を作る”んじゃなくて、“思い出にもう一度触れる”ことなんです。」
黒川の笑みがわずかに薄れる。
「触れる?」
「はい。まだ開発途中ですが、
本当は“体験として入り込める装置”を作りたいんです。
ヘッドセット型の装置で、匂いや温度、音まで再現して、
その人が“あの時間”に戻れるようにするんです。」
黒川の瞳が光を帯びる。
「……面白い。つまり、VRのようなものか。」
「はい。けど、ただのVRじゃありません。
撮影された映像を再生するんじゃなく、
本人の記憶データと照合して“再構成”する。
――その人にしか再生できない“個人の思い出”です。」
松田の声には、揺るぎない確信があった。
しかし黒川は、その理想を静かに笑い飛ばした。
「夢はいい。だが夢だけじゃ動かない。
資金、設備、そして時間……どれも足りないだろう?」
佐藤の表情がわずかに曇る。
図星だった。
「もし私が資金を出せば、実現はすぐそこだ。
だが、条件が一つある。」
黒川はグラスを置いた。
「“体験”をもっと売り物にするんだ。
悲しみや後悔じゃなく、“理想の記憶”を提供する。
例えば、失恋した人に“もし別れなかった世界”を見せる。
亡くした家族と、未来の自分の結婚式を体験させる。
――そういう映像なら、誰でも金を払う。」
「それじゃ……ただの幻想じゃないですか。」
松田の声がかすれた。
「僕たちは、人が“逃げるための記憶”を作りたいんじゃない。
向き合って、前に進むための思い出を再現したいんです。」
「きれいごとだ。」
黒川の声は低く響いた。
「現実を見ろ。
君の母親は、もう外に出られない。
君は“思い出を再体験させたい”と言いながら、
結局、彼女を動かせるのは“理想の記憶”だけじゃないか。」
松田の胸に、強い衝撃が走った。
まるで心の奥をえぐられたような痛み。
「……それでも、僕は“本物”がいい。
母が覚えているままの景色、空の色、風の匂い。
そこに嘘を混ぜたくない。」
黒川は肩をすくめ、佐藤の方を見る。
「彼の理想は美しい。でも、事業は理想で動かない。
君なら分かるだろう?」
佐藤は一瞬、視線を落とした。
黒川の言うことが全て間違っているわけではない。
理想だけでは、このプロジェクトは永遠に進まない。
「……少し、考えさせてください。」
「いいとも。考える時間を与えよう。」
黒川は笑みを浮かべ、名刺を差し出した。
「ただし、チャンスは二度と来ないかもしれない。」
部屋を出た瞬間、都会の光がまぶしかった。
エレベーターを降り、ビルの外に出ると、風が頬を刺す。
しばらく無言で歩き、松田がぽつりと呟いた。
「……あんな人の言葉、信じちゃダメだ。」
「分かってる。」佐藤は短く答えた。
だがその声には、自信がなかった。
ふと、松田は足を止めて夜空を見上げた。
「俺さ、母さんにこの装置を使ってもう一度“あの海”を見せたいんだ。
子どもの頃、よく行った小さな港町。
あの波の音と風の匂いを、もう一度感じさせてあげたい。」
その横顔を見ながら、佐藤は胸が締めつけられた。
“理想”と“現実”、
どちらが正しいか、もう分からなかった。
けれど、心のどこかで――黒川の言葉が、まだ響いていた。
「救われるための幻想は、罪じゃない」
その夜、佐藤は眠れなかった。
机の上の試作品――小さなVRレンズを見つめながら、
無意識に黒川の名刺を取り上げる。
そして、ゆっくりとスマホにその番号を打ち込んだ。




