01
もうすぐ大学生活最初の夏が始まる。
その日の講義が終わり、学内を歩いていると、同じサークルの綾音ちゃんと出くわした。
「あっ、颯太くん!」
「綾音ちゃん。今からボックスだよね?」
「うん!」
俺と綾音ちゃんが所属しているのは、軽音サークル「ハーフノート」だ。俺はボーカル。綾音ちゃんはキーボード。学部は違うが二人とも一年生ということで、それなりに話が合った。
綾音ちゃんに合わせてゆっくりと、ボックス……サークルに割り当てられた個室へと向かう。悟られないように綾音ちゃんの今日の服装を観察。涼しげな水色のシャツにスッキリとした白い細身のデニム、白いパンプスだった。茶色に染めたセミロングの髪が揺れる。シャンプーなのか香水なのか、ふんわりといい香りも漂ってくる。
俺がもう少し大胆な男子大学生だったら、服装や髪型を褒めて会話に繋げる、なんていうことができただろう。あいにくそこまでのコミュ力はまだ身に着けていない。
高校生までの俺は、どちらかというと引っ込み思案で、前に出ないタイプだった。それを変えたくて選んだのが軽音サークル。ハーフノートには三十人ほどの学生が所属していて、彼らに揉まれながら、少しずつ自信というものをつけている途中である。
ボックスはサークル棟の一階だ。ドアにはガラス窓がはめられていて、電気がついていたので既に誰かがいるとわかった。俺がドアを開けた。
「お疲れさまです!」
「おう、お疲れ。二人とも、いいところに来たな」
ボックスの中にはリビングにあるような大きなテーブルがあり、その周りにパイプ椅子が置かれていた。その一つに座って声をかけてくれたのが、三年生のサークル長、拓真さんだった。
俺もそこそこ背が高いが、拓真さんはもっと高い。聞くと百八十五センチあるという。体格もがっしりしていて、いかにも頼れる兄貴分だ。担当はベース。バンドの音を支える重要な役目。そんな彼がサークル長をしているのは自然な流れだろう。
綾音ちゃんが尋ねた。
「いいところ、ってどうしたんですか?」
「まっ、二人とも座れよ。これを見てくれ」
拓真さんの正面に俺、俺の隣に綾音ちゃんという配置で椅子に座った。拓真さんがテーブルの上に出したのは一枚の白黒印刷された用紙だった。俺はタイトルを読み上げた。
「デジタルデトックス合宿……?」
拓真さんが話し始めた。
「そっ! うちのOBが無人島を持ってるんだ。なんとスタジオもついてる。そこでスマホやパソコンを手放して、自然と音楽を楽しもうっていう、ハーフノートの恒例企画だ。コテージには水道も電気もあるから快適だぞ」
用紙には日程や費用も書かれていた。八月の前半、二泊三日。バイト代で軽くまかなえそうな金額だった。綾音ちゃんがうきうきと声をあげた。
「わたし、行きたいです! 海とかでも遊べるんですよね?」
「その通り! あっ、酒は禁止な。といっても二人ともまだ飲めないから関係ないけど」
「ねえねえ、颯太くんどうする?」
「俺は……」
これはチャンスだ。綾音ちゃんと接近できるチャンス。
俺は、このサークルに入って、一目見た時から、綾音ちゃんのことが好きになった。
容姿だけではない。入ったばかりでまごついていた俺に積極的に声をかけてくれたその優しさ。キーボードの腕。真剣に音楽を楽しんでいる様子。それら全てを含めて綾音ちゃんが好きなのだ。
「俺も行きます!」
「よし、二人確保。あと、サークル外の人を一人だけ連れてきてもいいぞ。家族、恋人、友人、今回の合宿の趣旨に賛同してくれる人なら誰でもオーケーだ」
「じゃあ……」
思い浮かんだのは、瑛太の顔だった。
「弟を連れてきてもいいですか? 今中学二年生で。こういう場に連れ出してやりたいんです」
「もちろん! 綾音ちゃんは?」
「うーんと、すぐには思いつかないですね。一人での参加でもいいんですよね?」
「大丈夫。俺はもう一人連れてくる予定だよ」
帰宅した俺は、早速瑛太の部屋に行き、合宿のことを話してみることにした。
「瑛太、入っていい?」
「そうにぃ? いいよ」
部屋に入ると、瑛太は机に向かって勉強をしていた。瑛太は生真面目な性格で、俺と違って手がかからない、というのが両親の弁。しかし、顔はよく似ていて、二人でいると兄弟だとすぐ認識された。
「ああ、悪い。邪魔したな」
「いいよ。何か用?」
「実はさ……」
俺は合宿の用紙を一枚貰ってきていた。それを瑛太に見せながら説明すると、瑛太の顔はぱあっと輝いた。
「ボク、行きたい! そうにぃと出かけるのなんて久しぶりだもん!」
「そうだよな!」
俺の家は毎年家族旅行をしていたが、去年は俺の大学受験があったのでどこへも出かけなかった。その穴埋めだ。
瑛太とは、五歳離れているせいか、くだらない兄弟喧嘩をしたことがない。「そうにぃ」と呼んで慕ってくれるのは、幼い頃から変わらない。可愛い可愛い俺の弟。
今回の合宿は、綾音ちゃんと近付く、という下心もあるが……瑛太を思いっきり楽しませてやろう、という目的もある。
きっと、いい夏の思い出になるはずだ。