第四話(一)
「一緒にマーマレードでも作る?」
そう誘われて、井伊くんの家に来ていた。だけれど、いざ作ろうと材料を用意していた時に、肝心の砂糖が残り少ないことに気がついた。
「ちょっと砂糖買ってくる!」
慌てて出て行った井伊くんを草石と見送った。
「まあ、椅子にでも座って待っていようではないか」
「うん」
わたしが椅子の上に座ると、草石が膝の上に乗って来た。撫でろといわんばかりの態度に苦笑しながらも撫でさせてもらう。
艶々の真っ黒な体。さらふかの毛並みは撫でていて気持ちいい。
――こうしていると普通の猫なんだけどな……。
けれど、尻尾は二つに分かれている。それは、草石があやかしであることを示していて。 猫又は長生きした猫が化けたあやかしだと本には載っていた。
「草石はいつからこの家にいるの?」
ふと気になってそう訊ねてみた。
ごろごろと喉を鳴らしていた草石の耳がぴくりと震えた。
「吾輩のことが気になるのか?」
「気になる」
「そうか……どれ、路久が帰ってくる前に、一つ昔話でもしてやろう」
そうして、草石は話し出した。草石の過去の話を――。
*
元々、吾輩は白猫だった。とある家で飼われていて、それはもう大事にされていた。
ある日、その家の奥方が手を怪我した。
吾輩はそれはもう心配した。だって、奥方が吾輩のご飯を用意してくれていたから。美味しいご飯が食べられなくなるのは困るだろう?
にゃーと奥方に近づいて、「大丈夫か?」と訊いた。
「××――吾輩の昔の名前だ――も心配してくれるの?ありがとう」
奥方が吾輩を撫でようとしてくる。吾輩は優しいその撫で方が大好きだった。
奥方が慣れで利き手を使った。
「痛っ!」
吾輩を撫でることはできたが、その時に痛みを感じたようだ。だけど、その時それはわかった。
「……あれ、痛くない?」
何と、怪我をした手が治っていたのだ。
「不思議ねぇ。もしかして、××が心配してくれたのかしら?」
なんて、冗談で奥方が言った。
それから、何度も家の者は怪我をした。転んで足を怪我した坊、紙で指を切った主人、その怪我は大から小まで様々だ。
我はその度に心配した。だって、いつまでも怪我を気にしていたら、吾輩を撫でてくれるのが疎かになるだろう?
不思議なことに、吾輩を撫でると家の者たちの怪我が治った。
いつからか、「撫でると怪我が治る猫」と吾輩の噂が広まって行った。
噂を聞きつけて吾輩を撫でようとする者が増えた。すると、まるで神様のように扱われるようになった。食べ物を貰えるのは嬉しいが、撫で繰り回されるのは嫌だった。
そんな吾輩の体にある変化が現れた。吾輩も年を取ったからか、真っ白な吾輩の体に黒い斑が浮かんできたのだ。それはまるで吾輩の体を侵食するかのように広がっていった。
真っ白な猫から斑模様の猫へ変わっていき、気がついたら黒猫に変わっていた。鏡の前で体を見た。尻尾も指先も腹も背中もすっかり真っ黒だ。
その頃からだったろうか、吾輩を撫でてもその者の怪我が治らなくなった。期待して来たものの怪我が治らずにがっかりして去って行く者が増えた。
ある日、誰かが言った。「黒猫なんて不吉」だと。治癒する猫と言われていた吾輩はいつのまにか猫が不幸を呼ぶから周りの人が怪我をするんだと言われるようになった。
その声を皮切りにどんどん噂が広まって行った。家の者が怪我しても、吾輩は彼らの傷を治すことはできなかった。
幸運の白猫から不幸を呼ぶ黒猫へ吾輩は変わってしまった訳だ。
自分では何も変わっていない。それなのに、人々の蔑む目は日に日に酷くなっていった。
「お前は不幸を呼ぶ。そんな猫は飼えない」
主人がそう言って、道端に吾輩を置いた。
――ああ、捨てられたんだ。
そう察して、主人の後を追おうとは思わなかった。
吾輩は不幸を呼ぶ猫。誰も癒すことはできない。我はもうどうなってもいいやとその場に丸くなった。
どれ程経ったのかわからない。もう動く気も起きなかった。
綺麗だった毛並みは荒れ放題で目やにも酷い。体も瘦せ細った。誰も吾輩に近づこうとしなかった。
だけど、その男は違った。
「おや、こんなところに猫又がいる」
「猫又?」
何の話だと思ってむくりと体を起き上がらせる。
「君のことだよ」
「吾輩は普通の猫だ」
「普通の猫は尻尾が二つに分かれていないよ」
そう言われて自身の尻尾を見てみる。すると、確かに尻尾が二つに分かれていた。
何よりも男に自分の会話が通じることが、吾輩が普通の猫ではないことを示していた。
吾輩は気がついたらあやかしになっていたようだ。
唖然とする吾輩をよいしょ、と男が持ち上げる。
「がりがりだね。うちでご飯でも食べる?」
「……うむ」
吾輩は男の言葉に頷いた。
男はご飯を振る舞ってくれた。そのご飯は爽やかな香りがして、食べると酸っぱかった。でも、やみつきになってそのご飯をぱくぱくと食べた。
男が吾輩の背を撫でる。背を撫でられるのは久方ぶりのことだった。目を細めていると男が言う。
「橘のご飯美味しいだろ?」
「橘とは?」
「あそこにある木だよ」
男が外を指差した。窓から見える木には黄色の実がたくさんついていた。
「あの実を食べるとあやかしが元気になるんだ」
「言われてみると、力がみなぎって来た気がする」
ご飯を食べたからだと思ったが、どうやらあの実も関係しているようだ。
男は話してくれた。あの橘のことや自分があの木の守り人だということを。
吾輩は話した。自分の身の上話を。男は真面目にも吾輩の話を聴いてくれた。
「行くとこないならうちに住まない?それで、もしよかったら僕と一緒に橘を守ってくれないかな?」
男がそう提案してきた。
吾輩は考えた。こうして救われた命。無駄にして良いものかと。
一宿一飯の恩義を返さないほど礼儀知らずな吾輩ではない。
それに、久しぶりに人のぬくもりに触れてそれを手放すのが惜しくなった。
「美味しい物を食べさせてくれるのなら」
そう約束した。男はにこりと笑って吾輩の頭を撫でた。
今までの自分を捨てようと思って名前をねだった。
「それじゃあ、君の名前は草石だ」
男によって吾輩に新たな名前が付けられた。鈴の付いた首輪がきらりと光る。
そして、その男が亡くなった後も、子孫によって約束は受け継がれていった。
ずっとずっとその約束は守られている――。