第三話(三)
ずずっと鼻を啜る音がした。目元を手で拭ったミギリがこちらを振り向く。
「お前たちありがとな。おかげでスイが天界に帰れたよ」
井伊くんが静かに問う。
「……ミギリはスイと一緒にいたかったんじゃないの?」
「俺は……スイの弱ったところを見る方が辛かったからな。だから、これでいいんだよ。元々、住む世界が違ったのさ」
それは心からの言葉だとも、強がりだとも思った。
知らぬうちに、わたしは言っていた。
「でもスイはミギリに会えて良かったと思うよ。あんなに寂しそうに笑っていたんだもの」
きっと、目を閉じたスイはミギリと過ごした日々のことを思い出していたんだとわたしは思った。
「……そうだな。そうだといいな」
ミギリが口元を緩める。柔らかな眼差しが天上の月を眺めていた。
「それじゃあ世話になったな」
ミギリがスイが入っていた籠を撫でる。一つ頭を下げて、彼は去って行った。
「……さて、僕たちも帰ろう……って、あー……」
「どうしたの?」
「……帰り道がわかりません」
「あ!」
言われてみれば、ここは竹藪の中だ。慌ててミギリが去って行った方を見たが、もう彼の姿は何処にもなかった。
「ど、どうしよう……」
「取り敢えず、歩いてみる?目印をつけて行って、境界を探すしかないかな」
「井伊くんは冷静だね……」
「これでも結構焦っているよ?一人じゃないから心細くないだけ」
そう言って井伊くんが手を差し出して来た。
「心細いなら手でも繋ぐ?」
「えっ!?」
目の前に差し出された手をまじまじと見つめる。心細くない訳じゃない。本当ならこの手を握って縋りたい。でも、そんな子どもじみたことを同級生の男の子にするには恥ずかし過ぎて。
井伊くんと手を繋ぐ自分を思い浮かべて、顔が熱くなった。顔を赤らめたであろうわたしにつられてか、井伊くんの顔も赤くなっている。
「な、何でもないです……」
さっと下がった手を思わず目で追ってしまった。それにすら恥ずかしくて、顔を俯かせる。
何とも言えない空気の中、ちりんちりんと鈴の音が鳴り響いた。
何だろうと顔を上げると、竹藪ががさがさっと揺れる。
井伊くんがさっと前に立ちはだかった。二人して息を潜めていると、揺れた竹藪の中から見知った姿が出て来た。
「あー、いたいた」
現れたのた草石だった。「何だ草石かー」と二人で息を吐く。
「何だとは何だ!折角探しに来てあげたというのに!」
「探しに来てくれたの……?」
「べ、別に二人が心配で来たんじゃないんだからな!」
「何でツンデレ風なんだよ……」
「何をする……あー、そこそこ」
井伊くんが呆れた様子ながらもよしよしと草石の首元を撫でる。ごろごろと喉を鳴らしながら、草石は満更でもなさそうだ。
「まいごのまいごのお二人さん。お前たちの家まで連れて行ってあげようか」
二つに分かれた尻尾を振りながら、草石が言った。
――草石がこんなにも頼りになるとは!
失礼ながらもそう思ってしまった。だって、いつもは日向ぼっこをしたり、散歩をしたりするばかりなので。
「帰ったら何か作ってくれ」
「はいはい、わかりましたよ」
ご褒美もちゃんと貰うつもりらしい。ぬかりないなと思いながら、みんなで歩き出す。
「そう言えば竹藪の中で言っていた、『食べ物が落ちていても食べないように』ってどういうこと?」
さっきは落ちている物なんて食べるはずがないと思ったけど、ふと疑問に思って井伊くんに訊いてみた。
「黄泉戸喫って言葉があるんだけど、簡単に言えば『あの世の食べ物を食べるとこの世に戻れなくなる』ってことなんだ。異界の物を口にしたら元の場所に戻れなくなることもあるから、絶対に食べちゃダメだよってこと」
「へ、へぇ……」
元の場所に戻れなくなるなんて想像しただけでも恐ろしい。
気をつけようと心の中で思っていると、草石が付け加えた。
「まあ、食べていなくても戻れない時は戻れないんだけどな」
「ひ、ひぇ……」
「草石、怖がらせるなって」
二人――一人と一匹と言った方が正しい――に置いていかれないように早歩きをする。
「やっぱり手、繋ぐ?」
わたしは心配そうに言って来た井伊くんの手を握るかどうか本気で迷ったのだった。