大嶽丸
その日、篁の姿は父・岑守の屋敷にあった。
篁の父である小野岑守は、今年のはじめに大宰府より京官として復帰していた。職は、勘解由長官と刑部卿を兼務しており、従四位上の官位を持つ貴族となっていた。
勘解由とは、地方行政を監査、監督する朝廷の役職であり、刑部は司法全般を管轄し重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行する役職である。岑守はこの役職の長を兼任するといった朝廷の重要な位置に就くこととなったのだ。
めでたい話はもう一つあった。篁の末の妹が藤原敏行と婚姻し、正室となったのだ。
ちなみに平安時代は一夫多妻制であり、貴族たちは何人もの妻を迎えていた。複数人の妻がいると誰が正室で誰が側室なのかといった考えに至るが、正室は一人だけといった法令が決められたのは江戸時代以降のことであり、平安貴族たちは何人もの正室を迎えていたという記録が残されている。また平安時代前期の婚姻は、妻問婚と呼ばれる結婚しても夫婦は別々に暮らし、夫が妻のもとへと通うというスタイルが主流であった。
妹の婚姻のこともあり、篁は父の屋敷へと顔を出したのである。
岑守と酒を飲み交わし、母や弟の千株としばらく団らんしていると、篁だけが岑守に別室へと呼ばれた。
部屋に入ると妙な緊張感が漂っている。篁は嫌な予感がしていた。心なしか、父の表情も硬いように見えた。
「どうかいたしましたか、父上」
「ひとつ、そなたに頼みたいことがあってな」
岑守はじっと篁の眼差しを見つめながら言った。
「頼みでございますか」
「さよう」
岑守はそう言うと、辺りの様子を伺うかのように左右を一度見回し、もっと近くに来いと篁のことを招き寄せた。
「大嶽丸という名を聞いたことはあるか」
「いえ、初めて聞く名ですか」
「そうか」
そう言ったきり、岑守は黙ってしまった。
どういうことだろうか。篁は困惑しつつも、父の次の言葉を待つことにした。
「先の変があった時、わしは近江守を命じられ鈴鹿関を守った」
ぼそりと呟くように岑守が口を開いた。
先の変というのは、平城上皇と藤原薬子が起こした薬子の変のことである。
「はい。それは存じております」
「その際に、鈴鹿山からやってきたという妙な一団と会ってな」
「妙な一団ですか?」
「ああ、妙な一団だった。彼らは山の者だといい、鈴鹿関を通らせろというのだ。その時、共に鈴鹿関を守っていた坂上広野麻呂殿と、その一団の頭だという男が言い争いになってな」
何かを思い出すかのように岑守は遠い目をしながら言う。
ちなみに、坂上広野麻呂というのは、かの征夷大将軍・坂上田村麻呂の次男である。
「広野麻呂殿が、その一団の頭を斬ってしまったのだ。その頭の名は、大嶽丸といった。その時は、頭を斬られた一団は逃げるようにして去っていき、それ以上は何もなかったのだが……」
そこまでいうと岑守は、ぴたりと口を噤んでしまった。
嫌な予感というのは、当たるものだ。篁はそう感じていた。
坂上広野麻呂といえば、先ごろ病で亡くなったばかりである。なぜ、父がこのような話を聞かせはじめたのか。篁には、その話の先がわかるような気がした。
しばらく経って岑守は意を決したかのように再び口を開く。
「先日、広野麻呂の葬儀で大嶽丸の姿を見てな……」
それは普段の岑守からは考えられないほど、弱々しい口調だった。
「あやつは、広野麻呂の葬儀で笑っておったのじゃ」
「なんと」
「あやつはあの時の恨みを晴らすために、冥府から蘇ってきたのだ。次はわしが狙われる番であろう」
そこまでいった岑守は疲れた顔をして黙ってしまった。
「父上、大嶽丸というものの特徴を教えてはいただけませぬか」
「篁、そなた……」
「私がなんとかしてみせます」
篁がそう言うと、岑守は弱々しく頷いた。
これ以上、こんな弱々しい父を見てはいられなかった。末妹の婚姻で肩の荷が下りたのかと思っていたが、それ以上のものを父は背負っていたのだ。父の厄災である大嶽丸という者を引き受けよう。篁はそう決意したのだった。




