蜘蛛と羅城門
うだるような暑さの日が続いていた。
布衣姿の小野篁は中務省の建物の中で、よく冷えた瓜をつまんでいた。
帝より正六位の官位が与えられ、弾正台から中務省へ転属となったのは八月の暑い日のことであった。
中務省で書の才能が認められた篁は大内記という官職に就くことができた。大内記の職は弾正少忠のような武官ではなく、詔書や勅書、帝の動静などを書き記す文官であり、職務中はほとんど大内裏から出ることもなかった。
「篁よ、少し肥えたのではないか」
友人でもある藤原平より、からかい半分に言われたこともある。確かに弾正台にいた頃に比べれば平安京内を歩くことは減っていた。あの頃は見回りとなれば、一日掛けて左京、右京と歩きまわっていた。
仕事の内容は違えど、忙しさは変わらなかった。むしろ、大内記の方が色々と忙しいかもしれない。大内記の下には少内記が二名、史生が四名いたが、様々な記録を書き残すことで手一杯となっているのが現状である。
「この暑さは、どうにかならんかのう」
扇子で自らを仰ぎながら賀陽親王が言った。賀陽親王は、桓武天皇の第十皇子で、中務省をまとめる中務卿であった。
「瓜などはいかがですか」
「我は好かん」
「左様でしたか」
他の者が賀陽親王のご機嫌を取ろうと瓜をすゝめてみたものの一蹴される姿を篁は少し離れた場所から見守っていた。
「大内記の小野篁は、おるか」
賀陽親王が篁の名を呼ぶ。
「はい、ここに」
篁は食べかけの瓜を置くと立ち上がって、賀陽親王のところへと歩み寄っていった。
弾正少忠の頃に履いていたような裾が絞られた小袴ではないため、少々足元に不安を覚えたが、これも慣れるしかあるまいと篁は考えていた。
「どうかいたしましたか?」
「ちょっと頼まれごとをしてもらいたい」
「どのようなことでしょうか」
篁がそう言うと、賀陽親王は少し周りを見回して、口元に扇子を当ててから言った。
「ここでは何だ、別のところで話そう」
「はあ……」
なんだか嫌な予感を覚えながらも、篁は賀陽親王の後に従い、中務省の奥の部屋へと向かった。
部屋に入ると賀陽親王は従者たちを部屋の外に出すなど人払いをして、篁とふたりっきりとなった。
ふたりっきりになると、部屋の中に妙な緊張感が生まれる。
「して、篁。お主はあやかしの類が見えるそうじゃな」
「はあ」
「見えるのはどのようなものじゃ。《《あくがる》》などか?」
賀陽親王は神妙な顔をして篁にいう。
ここでいう『あくがる』というのは生霊のことであり『あこがれる』という言語の由来となったという説もある。
「まあ、そんなところでしょうかね」
「そうなのか。では、鬼などはどうじゃ。見えるのか」
身を乗り出すようにして賀陽親王が言う。
「賀陽親王様、大変失礼ではありますが、何をお聞きになりたいのでしょうか」
「すまん、すまん。篁のことに興味を持ちすぎて、本題に入るのを忘れておってわ」
扇子を開いた賀陽親王はパタパタと自分のことを扇いで照れ隠しをする。
篁はどうしても、嫌な予感を拭いされることが出来ずにいた。
「一昨日の晩に内裏に忍び込んだものがいる」
「盗賊ですか?」
「いや、盗まれたものは何もなかった」
賀陽親王はそう言って、扇子をぴしゃりと閉じた。
「その晩から、病に臥せっておる姫がおってな」
「はあ」
「その姫がうわ言のように、お主の名前を口走ったそうじゃ」
「私の名をですか」
篁はいぶかし気な表情でいう。
なぜ、自分の名がそこで出てくるというのだろうか。篁の顔にはそう書かれていた。
「そうじゃ」
「私のような地下は内裏に入ることも許されておりませんので、内裏の姫に知り合いなどはおりませぬ」
地下というのは官位が四位以下の者を指し、地下は天皇の生活拠点である清涼殿などのある内裏には入ることの許されない身分であった。
「そうよのう。しかし、姫がうわ言でそなたの名を申しておるのじゃ」
「何かの間違いではございませぬか」
「藤原某であれば、そう考えるのじゃが、小野篁という名では聞き間違いもしずらい。それに何人もの女房たちが、その言葉を聞いておるそうじゃ」
これは困ったな。正直なところ、篁はそう思っていた。きっと、面倒なことが起きるに違いない。そんな確信めいたものが篁の中にはあったのだ。
「そのうわ言を聞いたという女房を呼んでおいたから、話を聞くが良い。もし、お主がその姫の病を治せたとあらば内裏でも、お主の評判は高まるだろうのう」
再び開いた扇子で口元を隠しながら賀陽親王は笑って見せると、その女房が待っているという別室へと篁と共に移動した。
篁が賀陽親王と共に別室へと向かうと、ひとりの女性が座って待っていた。
「あ、そなたは」
その顔に見覚えのあった篁は思わず驚きの声をあげてしまった。
「これは、篁様。お久しぶりにございます」
待っていた女房は頭をさげる。
「なんじゃ、篁。内裏に知り合いはいないとか言っておいて」
賀陽親王は篁にそう言ったが決して怒っているような口調ではなかった。
どうやら、最初からこの女房と篁が知り合いであるということを賀陽親王は知っていたようだ。おそらく、女房の方から話を聞いていたのであろう。
「我はもう行くぞ。あとは篁に任せた」
それだけ言うと賀陽親王は部屋から去って行ってしまった。
部屋の中に、女房とふたりっきりとなった篁は小さくため息をついた。
「申し訳ございません、篁様」
「いえ、貴女が謝ることではございません」
そう言ってから、ふたりはお互いに笑って見せた。
この女房の正体。それは宮内卿である藤原三守の末娘であった。
藤原乙姫(乙姫とは次女や末っ子の姫という意味)とは、以前より親しい付き合いがあり、時おり文のやり取りなどをしている仲でもあった。
「そなたが女房になられていたとはな、知りませんでした」
「私も、篁様が大内記になられているということは知りませんでしたよ」
そう乙姫がいい、またふたりは笑った。
「して、病に臥せられているお方の話ですが」
「そのお方の詳しいことは申すことはできませぬが、一昨日の晩より寝込んでしまわれているのです。その際に天井に大きな蜘蛛がいたと」
「大きな蜘蛛?」
「はい。私は、その日は務めではなかったので見てはいませぬが、他の女房たちもその蜘蛛を見たと申しております」
「なるほど。して、なぜ私の名前が出てきたのでしょうか」
「それは……」
乙姫はそういって顔を伏せた。
「それは?」
「私めが普段からそのお方に篁様のお話を聞かせていたからかと存じます……」
少し顔を赤らめながら乙姫は言った。
「なんと……」
篁もどうすれば良いのかわからないといった顔をする。
「篁様であれば、その大蜘蛛の退治が出来るかと思いまして」
「しかし、その大蜘蛛がいずこにいるかは」
「それなのですが、妙な噂が内裏に流れておりまして。羅城門に巣があるとか」
「羅城門か」
なんだか妙な感覚を篁は覚えていた。
羅城門のあやかし。以前もそんな話があったな。篁はそう思いながら、口を開いた。
「わかりました。調べてみましょう」
そう言って篁は立ち上がった。




