雷獣
夜霧が立ち込めていた。
雷獣を誘い出す場所として選ばれたのは、空海が管理を任されている左京にある東寺だった。
普段であれば篝火が焚かれ昼間のように明るい境内も、今宵は月明かりだけが頼りとなっていた。
門は全部で六つあるが、そのうちの四つは封鎖されていた。
開いているのは北と南の門だけである。
その開いている門も、武装した悪僧たちで固められており、誰ひとり東寺の境内に入ることは出来ない状態となっていた。
境内の北門付近に設けられた舞台の上では、尾張浜主が龍笛を吹いている。
その透き通った音色は、聞いている者を別世界へといざなうような素晴らしいものだった。笛の音色は東寺の境内だけではなく、東市などの周辺にも響き渡っており、人々はその音色に酔いしれていた。
そんな中、篁はひとり緊張した面持ちで立っていた。その姿は珍しく、褐衣に括り袴という下級武官の装束姿であり、右手には弓を携えている。
この装束は空海が指定したものであった。いつもであれば直垂に小袴という庶民とあまり変わらぬ質素な格好を好んでいる篁であるが、空海に装束まで用意されてしまったため、渋々それを身に着けていた。
雷獣を捕らえる。空海は簡単に言ったが、そんなことが本当に出来るのだろうか。
不安な気持ちを押し殺しながら、篁は闇の中をじっと見つめていた。
その頃、南門では一匹の獣が入り込んできたため、悪僧たちが懸命に棒を振り回していた。それは雷獣かと思われたが、ただの野犬であったため、その報告は篁にはされることはなかった。
風が吹きはじめ、雲が月を覆った。
月明かりが無くなると、篝火の無い境内は闇となる。
獣の臭いがした。
「来たな」
篁は腰に佩いている太刀を確認すると、弓を持って立ち上がった。
北門に一匹の獣が佇んでいた。その姿は野犬や狼に似てはいるものの、それよりもひと回りは大きかった。鋭い爪と鋭い牙は、野犬などよりも獰猛なものに見える。そして、何よりも他の獣と違うのは、前足は二本であるにも関わらず、後ろ足が四本あるということだった。こんな姿の獣を他では見たことがなかった。
間違いなく、雷獣である。
雷獣が北門を潜って境内に入るのを見届けると、悪僧たちはすべての門を閉じ、どこかへと姿を消した。
いま境内にいるのは、龍笛を吹く尾張浜主とその隣にいる空海、そして篁の三人と雷獣だけだった。
篁は矢を番えると、弦を引き絞る。
雷獣の身体は、まるで雷を帯びているかのように蒼く光っており、毛は逆立っていた。
未知なる獣と対峙する恐怖と緊張に篁は押しつぶされそうになっていたが、それを跳ね返すように弓の弦を限界まで引き絞った。
まだだ。もう少し近づいて来い。
龍笛の音色は続いている。
雷獣が吠えた。
それと同時に辺りに火花が散る。
篁は矢を放った。
矢が風を切る音と龍笛の奏でる音が混ざり合う。
一瞬、辺りが明るくなる。
雷鳴。
その刹那、雷獣の悲鳴に似た鳴き声が境内に響き渡った。
篁の放った矢が雷獣の左目を射貫いていた。
しかし、雷獣は怯む様子を見せず、それどころかものすごい勢いで篁へと突進してきた。
篁の反応は速かった。
持っていた弓を投げ捨てると、そのまま自分も横方向へ飛び去る。
雷獣もそれに反応するかのように横へ体の向きを変えて、篁へと飛び掛かる。
すれすれのところで雷獣の鋭い爪を躱した篁は、腰に佩いていた太刀を抜き、雷獣との間合いを取った。
ほんの少しの攻防だったにも関わらず、篁の息は上がっていた。
浜主による龍笛の演奏はまだ続いており、上空では雷鳴が鳴り響いている。
篁は息を整えながら、雷獣との距離を少しずつ縮めていく。
雷獣は唸り声をあげながら、篁に噛みつかんばかりに牙を剥く。
大きな雷鳴が聞こえた。
それと同時に篁は飛び上がっていた。
雷獣もそれに合わせるように篁へと飛び掛かる。
闇の中で鬼切無銘が雷鳴に反射して蒼く光るのが見えた。
地響きのような轟音がした。
どこかに雷が落ちたようだ。
篁は、鬼切無銘をゆっくりと鞘へと収めた。
※
その日、篁の屋敷の前には牛車が停められていた。
牛車の主は、陰陽助である藤原並藤であり、並藤は広幡浄継を伴って、篁の屋敷を訪ねて来たのであった。
「この度は、本当にご迷惑をおかけいたした。これは詫びの品じゃ。どうか受け取ってくだされ」
並藤はそういうと従者に運ばせた葛籠を篁の前に差し出した。
どの葛籠も立派な作りのものであり、中身は高級品が入っているということが予想できた。
「いえ、このようなものは受け取るわけにはいきません。そもそも、今回の件は公務でございますので」
篁はそう言うと、並藤の差し出した品を受け取ろうとはしなかった。
小野篁という人物は金銭に対して非常に淡泊だったという。俸禄に関しても、自分よりも貧しいものに分け与えていたため、かなり貧乏な暮らしをしていたという話が残されていたりするほどである。
「なるほど、よくできたお方じゃ。浄継よ、少しは篁殿を見習え」
並藤はそう言って、持っていた扇子で浄継の頭をぴしゃりと叩いた。
叩かれた浄継は項垂れるばかりで、篁には顔向けできないといった様子だ。
「して、浄継が封印を解いてしまった雷獣はどうなったのですかな」
並藤が篁に問う。本日訪ねてきた本当の理由は、これだったようだ。陰陽師として、平安京を騒がせた物の怪がどのようになったのかを知っておきたかったのだろう。
「雷獣は、元の剣の中に空海様が封印いたしました」
「なるほど。さすがは少僧都伝灯大法師位の空海様じゃ。して、その剣はいずこに」
「東寺の宝物殿に収められていると聞いております」
「左様か、左様か」
なにか並藤は納得したかのように言うと、自らの膝を扇子でぴしゃりと叩くと軽快な声で笑い声をあげた。




