六道辻の井戸
「もし」
宿直の仕事を終えて屋敷へと戻ってきた小野篁が縁側でうたた寝をしていると、どこからか声が聞こえてきた。
目を開けると庭の灌木のところに一匹の蛍が止まっていた。
「花か」
「さようにございます」
蛍はゆっくりと篁の近くまで飛んでくるとそこで姿を消した。
「ご無沙汰しております」
今度は声が家の中から聞こえた。
振り返ると、そこには着物姿の花が立っていた。
相変わらず、面妖な雰囲気を身にまとっており、その姿にはどこか色気すらも感じるほどだった。
「なに用かな」
「用がなければ、現れてはなりませぬか」
「いや、そういうわけではないが。用があったから、わざわざ姿を現したのだろう」
「さすがは篁様でございます」
花は着物の袖で口元を隠すようにして笑って見せた。
「して、どのような用件で参られたのかな」
「あら。お忘れになられたのですか」
「なにをだ」
「先日、わたしは篁様にお礼をと申し上げました」
「そういえば、そうだったな。しかし、そなたに助けられた」
あの時、篁はもう少しで鬼に首をへし折られるところだった。
それを花は、まばゆい光で救ってくれた。
「礼はそれだけで十分だ」
「それはなりません。わたしが怒られてしまいます」
「怒られるとは、誰にだ」
「主です」
「ほう、そなたの主とな。一体、何者だ」
「ちょうど、篁様を主のもとにお招きするよう言われてきております」
「そうか。では、ゆこう」
篁は縁側から立ち上がると、太刀を左手に持って家を出た。
家人(この場合、下人のような役割の人を指す。下人という言葉が使われるのは平安中期からであるため、奈良時代より使われている家人とする)には「少し出てくる」とだけ伝えて篁は屋敷を出た。
屋敷の外では、牛車が待っていた。牛車を引く牛の背には、水干を着た童子が座っており、篁の姿を見ると頭を下げた。
「篁様、牛車にお乗りください」
「牛車か」
そう呟きながら篁は花と共に牛車へと乗り込んだ。
行き先はわからなかったが、しばらく平安京の中を牛車は移動していた。
「到着いたしました」
童子が花に声を掛けてくる。
「こちらでお降りください、篁様」
そう言われて篁が牛車から降りると、そこは寺の門前であった。
「ここは」
「はい。六道の辻にございます」
「すると、この寺は六道珍皇寺か」
「さようにございます」
「このような寺に招くとは、花の主とは坊主なのか」
「いえ、違います。ささ、中へどうぞ」
花に言われて六道珍皇寺の門を潜ったが、どこか様子がおかしかった。
辺りは霧に覆われているかのように、真っ白である。
おかしな真似をされたのではないか。
そんな気持ちが篁の心に芽生えはじめていた。
「篁様、こちらにございます」
そういって花が指したのは、六道珍皇寺の裏手にある井戸であった。
「この井戸がどうかしたのか」
「お入りくださいませ」
「はあ?」
「さあ、はよう」
「戯れておるのか」
「いえ、花は真剣でございます」
そう言われて篁が井戸の中を覗き込むと、漆黒の闇が広がっていた。
「ささ、篁様」
花はそういって、篁の尻をひょいと押した。
押された篁は、井戸を覗き込む姿勢のまま、井戸の中へと落ちていった。