地獄の沙汰
鬼を相手にこの太刀を抜くのは初めてのことだった。
鬼切無銘。閻魔大王から送られた太刀である。
抜いた太刀をゆっくりと構えると、狗神との間合いを計った。
狗神の身長は、篁の倍はある。こちらが太刀を振っても届かない距離であっても、向こうの手足はこちらに届いてしまう。だからといって遠い間合いで構えていても、こちらの剣先は相手には届かない。
攻撃を喰らうことを覚悟の上で、篁は狗神の間合いの中で太刀を構えた。
「そのような鈍ら刀でわしを斬れるとでも思っているのか」
「鈍らかどうかは、試してみなければわからんぞ」
お互いの間合いが更に詰まる。
どちらかが攻撃を繰り出せば、確実に届く距離である。
しかし、お互いに仕掛けない。
先に仕掛ければ、負けるということがわかっているからである。
後の先。後の時代に剣術や武術、武道などで、そう呼ばれるようになる技術だった。相手が仕掛けてきた瞬間を狙って、こちらも仕掛ける。現代の格闘技などでいえばカウンターに似た技の使い方だ。
しびれを切らして先に攻撃を仕掛けたのは、狗神の方だった。
鋭い爪が篁を切り裂こうと襲いかかってくる。
篁は後の先を取り、爪が自分に届く前に太刀で狗神の腕を斬りつけた。
確かな手応えがあった。
鬼切無銘は狗神の二の腕のあたりを斬り裂き、辺りに真っ黒い血を飛び散らせる。
「あなや!」
狗神が着ている水干があっという間に真っ黒な血に染まっていく。
「おのれ、篁」
怒気があふれる声をあげる狗神。
飛び散った黒い血が蛇のように、ウネウネと動き出す。
不思議なことに斬った太刀にあの黒い血は一切ついていない。
再び狗神が仕掛けてくる。
篁は太刀の棟で狗神の鋭い爪を受け流す。
そして狗神の体勢が崩れたところに、一撃を打ち込んだ。
太刀の刃が狗神の首に目掛けて伸びていく。
ギリギリのところで、狗神は身体を仰け反らして、その刃を避ける。
その体勢のまま、狗神が蹴りを繰り出す。
篁は蹴り足を横に飛んで避けると、太刀を捻ってその足を斬りにいった。
一進一退の攻防が続く。
お互い、一瞬の隙が命取りとなるため、気が抜けない。
鬼切無銘は紙のように軽く、篁の思い通りに動いた。
狗神との攻防は次第に篁の方が優位になっていき、狗神の動きを凌駕していく。
小さな切り傷が羅刹の身体につき始め、再び水干が黒く染まっていった。
これならば、勝てる。
篁がそう思った時、狗神の身体に変化が起きた。
突然、狗神が苦しみはじめたかと思うと、着ていた水干が破れ、胸のあたりから黒い球状の黒い塊が迫り上がってくる。
危険を察知した篁は、後方に飛び下がった。
「おい、まだなのか、浄浜殿」
しびれを切らした篁が浄浜に叫ぶ。
「お待たせいたした。貴殿のおかげで六壬神課を使い十二天将の一人を呼び出すことに成功いたしました」
浄浜がそう言うと、風が吹いた。
目には見えないが、そこに何かがいることは確かだった。
「後六天空土神家在戌主欺殆不信凶将。十二天将、天空。さあ、この禍々しい鬼を喰らえ」
浄浜が叫ぶと、強風が吹き荒れた。
砂塵が巻き起こり、一瞬ではあったがその形が犬のような獣を思わせるものとなる。
篁はその強い風に飛ばされぬように足を踏ん張り、耐える。
砂の犬が大きな口を開けて、狗神を飲み込んだように見えた。
風が収まった時、そこには黒い塊に覆われようとしていた狗神の姿はなく、狗頭の羅刹がぽつんと立っていた。
「狗神を払うことはできた。あとは頼んだぞ、篁殿」
疲れ果てたように浄浜はいうと、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「狗頭の羅刹、お前を地獄へ送り返す」
篁はそう言うと太刀で斬りかかった。
狗頭の羅刹は、その太刀を避けようとしたが、篁の振る太刀の方が速く、左肩から袈裟に右の腰まで一気に斬り下ろされる。
「ば、馬鹿な……」
斬られた狗頭の羅刹の身体が光に包み込まれて行く。
篁も何が起きているのか、わからなかった。
「鬼を常世に送り返したというのか」
地面に座り込んでいた浄浜が驚いたような声を出した。
狗頭の羅刹は消えていた。
代わりに羅刹が立っていた場所には、焼いた土で作られた犬の置物が転がっていた。
「これは……」
「どうかしたのか、浄浜殿」
「誰かが禁呪を使ったようですね」
「禁呪?」
「ええ。少し前の時代の術です。何者かが禁呪を使って、鬼を召喚し、その鬼に対して蠱毒を使った。二重に術を施す危険なやり方ですね」
「誰がそのようなことを」
「わかりません。わかりませんが、相当な術師のはずです。これほどまでに強力な狗神を生み出すとは」
篁には浄浜の言っていることが半分以上わからなかった。
浄浜は、落ちていた犬の置物を拾い上げ、懐へとしまう。
「今宵の件は、陰陽寮で調査を行います。もし、弾正台でも調査が必要でしたらお声掛けいただければと思います」
その夜はそれで浄浜と別れた。




