百鬼夜行
満月が綺麗な夜だった。
雲ひとつない夜空に、月だけがぽつんと浮かんでいる。
小野篁は、その月を見上げながら盃を傾けていた。
今宵は客がいた。
客といっても、藤原平である。
平は弾正台の同僚であり、友人でもあった。
「篁、聞いたか」
「なにがだ、平」
「噂話だ」
「お前が持ってくる噂話は、ろくなものではない」
篁は吐き捨てるように言った。
以前、平が持ってきた噂のせいで、篁は散々な目にあった。
朱雀門で生霊と遭遇したのである。
「百鬼夜行というものを知っておるか」
「酔うておるのか、平」
「このくらいの酒で、我が酔うと思うか」
笑いながら平は言うと、盃に口をつけた。
「大内裏から朱雀門に抜けたところで、百鬼夜行が出た」
「見たのか、平」
「馬鹿いうな。百鬼夜行を見た者は、現世には居られない。死ぬそうだよ。もし、俺が百鬼夜行を見ていたとしたら、ここでこうしてお前に話などしておらんだろ」
再び、平が笑う。
「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」
「なんだそれは」
「百鬼夜行と出会った時に唱えると、命が助かるとされる呪文じゃ。覚えておけ、篁」
「それでは私が百鬼夜行に出会うことを前提としていじゃないか」
「許せ。だが、覚えておいてそんはないぞ」
盃を傾けながら話す平は、どこまでが本気なのかわからなかった。
翌日、篁は宿直だった。
昨晩と違い、夜空は雲に覆われている。
月明かりが無い。
なんだか嫌な感じだった。
そもそもこれも、平のせいだ。
あの男が余計な話を吹き込むものだから、朱雀門周辺の巡邏を行うのに、ついつい警戒をしてしまう。
しかし、その晩は特に何も起こらず、篁の宿直の仕事は終わろうとしていた。
「もし」
朱雀門の脇を通り抜けようとした時、闇の中から声をかけられた。
驚いた巡察弾正が松明の火を向けると、そこにはひとりの男が立っていた。
巡察弾正にも声が聞こえたということは、この男は現世の者であるようだ。
「どうかなされたか」
男の服装を見る限り、それなりの役についている人間のようだ。
「私は藤原良門と申す者だ。すまないが、私を屋敷まで送ってはくれぬか」
「これはこれは、藤原良門殿でしたか。失礼を。私は弾正少忠の小野篁にございます」
「良かった、篁殿でしたか。助かった、助かった」
良門は安堵の表情を浮かべた。
藤原良門といえば、時の左大臣である藤原冬嗣の六男である。良門自身は、内舎人の役についているはずだ。
「なにか、ありましたか」
「い、いや、ちょっとな。少し疲れていたのかもしれん……」
そういいながら良門は、ぽつりぽつりと語りはじめた。
その日、良門は内舎人の役を終えた後、大内裏で同僚たちと少しだけ酒を飲んでから朱雀門を出た。すでに日は落ちていたが、牛車で帰るほどの距離でもなかったため、徒歩で屋敷へ帰ろうと歩きはじめたという。
しばらく良門が歩いていると、どこからか鼓を叩くような音が聞こえてきた。
どこぞの屋敷で稽古事でもしておるのだろうか。
そんなことを思いながら、良門はその音が聞こえてきた方向へと顔を向けた。
なにか生暖かい風に頬を撫でられたような感触があった。
少し離れたところ、ちょうど朱雀門の向こう側に小さな明かりがあった。
その明かりに近づいてみると、青白い炎であり、その炎はゆらゆらと揺れていた。
鬼火だ。
「あなや」
その炎の正体を知った良門は、思わず声を上げてしまった。
すると鬼火の向こう側から、現世のものとは思えぬような連中が姿を現した。
ひとつ目の大入道に鬼、天狗、河童、烏天狗といった《《あやかし》》たちが次々と現れたのだ。
あまりにも驚いた良門は、その場で腰を抜かしてしまった。
「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」
必死に良門は唱えた。
この呪いは、乳母から教わったものだった。
もしも、百鬼夜行に出会った時は唱えなさい、と。
目をつむり、良門はずっとその呪文を唱え続けていた。
すると、いつの間にかあやかしたちの姿は消えており、その代わりに松明の炎が見えた。
それが篁たち弾正台の京中巡邏であった。
「それはそれは大変でございましたな」
篁は声をかけて落ち着かせながら、良門を屋敷まで送り届けた。
その晩、篁たちは警戒をしながら京中巡邏を行ったが、あやかしどころか夜盗などにも遭遇することは無く、その日の任務を終えたのだった。