羅城門の鬼
妙な風が吹いていた。
生暖かく、どこか湿っぽい風だ。
そこにあるのは、闇だった。
雲の隙間から覗く月の明かりで、羅城門の姿が浮かび上がってくる。
羅城門は門といっても、だたの門ではない二重閣の入母屋造で大きさは七〇尺(21メートル、現代でいえば6階建てのビルの大きさに相当する)を超える巨大な城門であった。羅城というのは都市を取り囲む城壁のことであり、その羅城に開かれた門が羅城門であった。ただ平安京の場合は、羅城といっても城壁があるのは南側だけであり、北は船岡山、東は鴨川、西は桂川と地形によって守られており、周りを囲むのは背の低い土塁と掘られた溝だけであった。
この門の向こう側は外界とされており、この門が都と外界の繋ぎ目の役割を果たしている。
しかし、門は十年ほど前に大風で倒壊した際に修繕を行ってからは、一度も修繕は行われていなかった。そのため、城門の形は保っているものの、中はひどく荒廃していた。
近年では、京の都から外界へと旅立つ者は少なく、この門に近づくこともしない者が多い。そのため、役人の目も羅城門には届いてはいないというが現実であった。
草木が生い茂る中に佇む羅城門を見上げた篁は、背丈の高い雑草をかき分けるようにして羅城門の入口へと進んだ。
中に入ると奇妙な臭いがした。
湿気や黴の類の臭いもしているが、それとはまた違った臭いだ。
それは、いままでに嗅いだこともなく、例えようのない臭いだった。
腐った床板を踏み抜かぬよう気を付けながら、篁は城門の中を進む。
奥に階段があるのが見える。
一階には気配が感じられないため、おそらく何かがいるとするのであれば二階であろう。
篁は鼻からゆっくりと空気を吸い込み横隔膜を大きく膨らますと、口から空気を吐き出した。息吹き。そう呼ばれる呼吸法である。
そして、何か意を決したかのように階段をのぼりはじめた。
階段の床木は所々朽ちている部分があり、篁は踏み外さぬよう慎重にのぼる。
二階に到着した時、その場の空気がおかしいことに篁は気づいた。
あの臭いも強くなっている。
気配を殺しながら、奥の部屋に足を踏み入れた時、闇の中にぼうっと明るい何かが浮かび上がっているのに気づいた。
蒼い炎だった。鬼火。そう呼ばれる類のものだ。
鬼火の灯りに照らされるようにして、大きな背中が見えた。
とても人とは思えぬほどの大きな背中である。
篁自身も偉丈夫といわれるぐらいに身体は大きいが、その篁よりもはるかに大きな身体がそこにはあった。
ゆっくりと腰に佩いた太刀を抜いた篁は、その背中に声を掛けた。
「汝、そこでなにをしておる」
力強く、そして大きな声だった。
その声にゆっくりと大きな背中の持ち主が振り返る。
ぎょろりとした黄色く濁った眼に、大きな顎。
口の周りは血のようなもので赤黒く汚れており、その隙間からは牙のようなものが見えている。
そして、散り散りになった髪の間からは二本の短い角が生えていた。
その姿は、まさに鬼だった。
篁も幼少の頃より、あやかしや小鬼、狐狸の姿は見たことがあったが、このように大きな鬼を見たのは初めてのことだった。
得体の知れぬ震えが篁のことを襲った。
「お前は、誰だ」
はっきりとした口調で鬼がいう。
鬼が言葉を発すると同時に、口からは青白い鬼火が零れだしていた。
「弾正少忠、小野篁だ」
「ほう、弾正少忠とな」
「いかにも」
「弾正少忠ごときが、わしに何用じゃ」
座っていた鬼がのっそりと立ち上がる。
その大きさは、篁よりも頭ひとつ大きかった。
「野盗の真似事をしておる者がいると聞いて見に来たのだ。まさか鬼であったとはな」
「笑わせるわ。震えておるぞ、篁」
「気安く我が名を呼ぶな、鬼め」
「鬼か……鬼とな」
鬼はそう言い、口から青白い鬼火を吐き出す。
「お前を喰らいたくなってきたぞ、篁」
「面白いことを言うな。喰らいたければ、喰らうがいい」
篁は太刀をゆっくりと上段に構えた。
剣の腕には自信があった。
父である岑守が陸奥守だった頃、蝦夷との戦いを繰り返してきた。矢が尽き、刀が折れ、素手で取っ組み合いをしたこともある。それでも篁は生き残った。その自信が鬼を目の前にしても怯まない篁の心を支えていた。