羅城門の鬼
時は平安。京の都に、小野篁といふものありけり。
篁は、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府にて閻魔大王の裁判補佐をおこなっているともっぱらの噂であった。
偉丈夫だった。身長六尺二寸(約188センチ。当時の平均身長は160センチ程度だったとされている)の長身で、大勢の中にいても見つけるのは容易い。
家柄は間違いなく、祖父である小野永見は征夷副将軍、父である小野岑守は陸奥守と、武芸に優れた家系でもあった。
篁自身も父の岑守に従い陸奥国に赴き、武芸で名を馳せており、陸奥国で小野篁という名を知らぬ者はいなかった。当時の陸奥国は、蝦夷との武力衝突が絶えず行われており、その中でも偉丈夫である篁は蝦夷にとっても恐ろしい存在であった。
そんな篁も二十歳になる頃には文章生となり、京の都で学問に励むようになり、その二年後には巡察弾正という弾正台の下級役人となった。
弾正台の主な職務は、中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりといった、いまでいうところの警察に近い存在であり、その中でも篁の偉丈夫は目立っていた。
鬼も恐れる弾正、篁。
そんな言葉が京の子どもたちの間で流行るほど、篁の活躍は目覚ましく、その翌年には少忠という弾正台の役職に出世していた。
静かな夜だった。
風もなく、辺りはしんと静まり返っている。
その晩、篁は宿直であった。
弾正台の宿直は、夜の平安京を巡視するのが仕事である。
その夜の篁の受け持ちは、御所周辺であり、篁は部下である二名の巡察弾正と共に夜道を歩いていた。
先頭を歩く巡察弾正は右手に松明を持って辺りを照らしており、その後ろを歩く篁はいつでも太刀を抜けるように右手を束に掛けながら歩いている。さらに背後を守るように巡察弾正がいるため、もし暗がりで夜盗などに突然襲われたとしても供えは万全であった。
「もし」
どこからか、女の声が聞こえてきた。
篁は足を止めたが、先頭を歩く巡察弾正は気づかなかったのか、そのまま歩き続けた。
「どうかなさいましたか」
突然、篁が歩みを止めたため、後ろを歩いていた巡察弾正が声を掛けて来た。
「女の声が聞こえなかったか」
「いえ、私には何も」
「そうか……」
空耳か。篁はそう思い直し、歩きはじめようとした。
「もし」
また聞こえた。今度ははっきりと聞いた。間違いない。
後ろを振り返ったが、そこにいるはずの巡察弾正の姿はなく、辺りには霧が立ち込めていた。
これは妙だ。篁がそう思った時、再びあの声が聞こえてきた。
「もし」
篁は声のした方を睨みつけ、腰に佩いた太刀をいつでも抜ける姿勢を取った。
どこにも姿は見当たらなかった。
しかし、気配のようなものは感じる。
現世の者ではない気配だ。
「お待ちください。あなた様は、小野篁様でお間違いないでしょうか」
「いかにも。私は、弾正少忠の小野篁だ」
そう答えたものの、やはり相手の姿はどこにも見えない。
しびれを切らした篁は、女の声がしてきた方へ向けて声をあげた。
「姿を見せられよ」
「これは、失礼いたしました」
辺りを漂う霧が濃くなってきた気がした。
警戒心を解いていない篁は、太刀を持つ手に力を込めていた。
もし、物の怪が姿を現そうものならば、斬って捨ててやろう。
音もなく姿を現したのは、白い水干を着た若い女だった。
俯いているせいで顔ははっきりと見ることはできない。
「何者だ」
篁の声に、女は顔をあげた。
美しい顔をした女だった。美しさと艶やかさを兼ね揃えているのだが、どこか現世の人間にはない雰囲気を身にまとっている。
面妖な女よ。
篁はそう思った。
「わたくしは、花と申します」
女は切れ長の目で篁のことをじっと見つめながら言う。
「花とな」
その奇妙な名前を篁はつぶやくようにして言うと、女の目をじっと見つめ返した。
美しかった。これほどまでに美しい人は、現世にいるだろうか。
篁はそう思う一方で、別のことを考えていた。
幼き頃より、篁にはあやかしを見る力があった。
小鬼や狐狸の類から山神まで、様々な現世の者ではない者たちを見てきたが、このように美しいあやかしを見るのは初めてのことだった。
「して、なにか私に用か」
「篁様にお願いしたき事がございます」
「ほう。この弾正少忠に頼み事とは恐れ入った」
篁は声を出して笑ってみせた。
「笑いごとではございませぬ」
「怒ったか」
「怒ってはございませぬ」
女は少し唇を尖らせるような仕草をしてみせる。
なるほど、あやかしであっても人の女子と同じような仕草をするのか。
篁は女のことをじっと見つめながら、そのようなことを考えていた。
「すまん。真面目に聞こう」
「この先にある羅城門に、ひとりの男が住み着いているのはご存じでしょうか」
羅城門。それは平安京の南側に位置する大きな門のことである。この門を潜れば平安京から外界へと出ることができる。
「ああ、見たことは無いが話を聞いたことはある」
「その男を追い払ってはもらえないでしょうか」
「何故に男を追い払わなければならぬ」
篁は怪訝な顔をして女に言った。
「そもそも、あの場所は男の居場所ではございませぬ」
「それはそうであるが、それだけの理由では追い払うほどの理由にはならんな」
「では、これではどうでしょうか。かの者は現世の者ではございません。悪鬼にございます」
「なんと。人ではないと申されるか」
「はい。元は現世の者でありました。しかし、野盗の真似事を重ねているうちに、次第に心も体も鬼に乗っ取られ同化してしまいました」
「野盗とな。それは、弾正少忠としても見逃すわけにかいかぬ」
「ではやっていただけますでしょうか」
「やろう」
「よろしくお願いいたします。礼はかならず」
女はそう言うと霧の中へと消えていった。
「弾正少忠、弾正少忠」
自分を呼ぶ声で篁は我に返った。
霧は晴れており、女の姿などはどこにもない。
先を歩いていた巡察弾正が踵を返して、篁のもとへと戻って来ていた。
「どうかしたのか」
「この先の羅城門より、奇妙な声が聞こえてきています」
「ほう、奇妙な声とな」
「あれはこの世の者の声とは思えませぬ」
「その声を聞いて怖じ気付いたか、巡察弾正」
篁はそう笑い飛ばす。
「では、私がこの目で確かめてこよう。しばらくして、私が戻らなければ、様子を見に来られよ」
篁はふたりの巡察弾正にそう告げると、ひとりで羅城門へと向かっていった。