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ラムネイロガール

作者: 雨方蛍

 おばあちゃんはラムネが好きだった。

 毎年夏になるとお祭りに行き、私と一緒にラムネを買って飲むのが恒例だった程に。


 そんなおばあちゃんは昨年、92歳で亡くなった。


「なあ、おふくろ。最後に何か食べたいものとかあるか?」

「そうやねぇ……。なら、ラムネが欲しいねぇ」

「お義母さん、ラムネは飲み物ですよ」


 もう長くありませんよ、とお医者さんに言われ久しぶりにおばあちゃんの入院する病室を訪れた時も、お父さんの問いかけにそう答えていた。理由は分からない。なんでそこまでラムネにこだわるのか。


「ボケてんじゃないの? ほら、おばあちゃんって昔から変なこと言ってたじゃん」


 と、弟は言う。けれど、お父さんは「いいや、おふくろ……和香のどかのおばあちゃんは昔っからラムネが好きな人やったよ」と言った。


『あら、和香ちゃん。いらっしゃい。暑かったねぇ』

『ううん、おばあちゃんの家行ったらラムネあるもん。冷たいの飲みたくて、頑張ったんやで』


 私も覚えている。おばあちゃんの家の冷蔵庫には、夏はもちろん冬でも必ずラムネがあった。それが切れているところを私は知らない。

 夏休みやお正月におばあちゃんの家に行くとき、私はその珍しい飲み物をグイッと喉に入れるのが楽しみだった。昔からおばあちゃんがよく勧めてくれたせいだろうか。


「和香。これ、おばあちゃんの日記や。お父さんこういうのよう読まへんから、和香にやるわ。小説、好きやろ?」


 おばあちゃんの遺品の中から日記が見つかって、そしてそれが私の手元に回ってきたのは、おばあちゃんが亡くなった次の夏のことだった。実家の整理に来ていて、たまたま見つけたのだ。段ボール一杯に詰められた様々な表紙のノートたち。おばあちゃんはよく筆を握る人だったが、それが92年の人生でここまでのものになるとは。

 私が好きなのは小説を読むことよりも書くことなのだが……と思いながらも、別に読まないというわけじゃない。私はお父さんからおばあちゃんの日記を受け取り、適当に取り出してパラパラと読んでみることにした。


「姉さん、何読んでるん?」

「おばあちゃんの日記や。健太郎も読むか?」

「俺はええわ。姉さんと違って文字見とると頭痛あたまいたなんねん」


 健太郎はこめかみを押さえる仕草をする。活字嫌いは父に似たのだろう。


「あっ、そうや姉さん。これ、懐かしくない?」


 健太郎が私の傍らにコトリと置いたのは、クリアに透き通った水色の容器だった。冷たさを感じる色合いに、キラキラと挟まったビー玉が揺れる。それはラムネだ。おばあちゃんが好きだったラムネだ。


「……なんで好きやったんやろうなぁ、おばあちゃん」


 その容器を持ち上げて太陽に透かし、今さらながら思う。人の好みはそれぞれだ。分かっていながら、何か特別な思いがあったような気がするのだ。鬼には金棒が不可欠なように、おばあちゃんにはラムネが何か特別なものだったんじゃないかって。


「せやからそれ、親父から貰ったんちゃうん?」

「それって、日記の事?」

「それ以外何があるんや。ほら、読んでみたらええやん。姉さん東京で本書いとるんやろ? そういうの得意やん」

「本や無くて、私が書いてるんはネットのコラムや。小説は、まあ趣味みたいなもんやし」

「俺にはどっちも凄いと思うけどなぁ。親父もオカンも本なんて読まへんのに、昔から姉さんだけ熱心に読んどったし」

「ほんま、誰に似たんやろうな。私」


 久しぶりに会う弟と、夏の実家でこうして話す時間も懐かしく思う。小学生の頃はおばあちゃんを挟んで二人、健太郎と私でラムネを飲みながら宿題をしたり学校の話をしたりしたっけ。


「まあ、読んでみるわ。確かになんか書いてあるかもしれへんしな」

 

 おばあちゃんの日記は古びていて、すごく年代を感じられた。パラパラめくって、やめて。また新しいものを発掘して、パラパラとめくる。


「どんなこと書いてるんや?」

「色々やな。お父さんが子供の頃のこととか、旅行のこととか。お爺ちゃんとのこともあるわ」


 かなりマメにつけていたらしく、日記はゆっくり読んでいると夏休みが終わってしまいそうなほどあった。

 そんな山のような書の中、一つだけ際立って年代の古いものがあった。健太郎が見つけたそれを私に渡す。相変わらず自分で読む気は無いんやな、と思いながらも、私は渡されたそれを素直にめくった。


 そして、理解した。


「……‟廉太郎さんは、自分をラムネの中のビー玉だと言った。自由を奪われ、自分ではどこにも行けないビー玉だと”。……なぁ、健太郎。多分私が本が好きなんはおばあちゃんの影響や」


 それは、おばあちゃんが17歳の頃の日記だった。拙い字で、それでも一生懸命書きあげた一冊の本だった。


 **


 砂浜を歩く。すると、海が見える。海が見えると、細島さいじまハツは決まって背伸びをした。うーんと伸びて、目を凝らして、その向こうを見ようとした。


「あかん、何も見えへんわ」


 けれど、その目には期待していたものは映らなかった。

 学校では、海の向こうで兵隊さんたちが戦っていると聞いた。空の果てでお国のために命を捧げていると聞いた。けれど、ハツがいくら背伸びをしても、その雄姿を見ることは叶わなかった。


「全然違う。海も、空も、ずーっと静かなままや」


 白波の音。雲はひとつも無かった。乱すのは、砂浜に残ったハツの足跡だけ。もんぺが汚れるのも気にせず、ハツは砂浜にぺたりと尻をついた。何もない日は、こうしてぼんやりと過ごす。そうしたら、なんだかここが非日常に思えてきて、その感覚が好きだった。


 いつも静かだ。海は囁くのみで、空は永遠と広がっている。でも、時折その中を轟音が響くことがある。

 

「あっ、来た……!」


 合図はそよそよと吹く風と、近くの飛行場からの歓声。すると、あっという間にそよ風は突風になり、パラパラと小さかった音は轟音に変わる。


「いってらっしゃいっ! いってらっしゃいっ!」

 

 ブゥーン―――、と大きな音を立てて頭上を飛んでいく戦闘機に手を振る。振り返されることはない。けれど、女で子供のハツにはお見送りすることしかできなかった。


 あとできることは、実家の手伝いぐらい。ハツの家はここ鹿児島で定食屋をしていた。もともとは大阪でやっていたものだが、疎開で家族ごと引っ越してきたのだ。父は赤紙で戦争に呼ばれ、母と叔母、それにハツが定食屋を切り盛りしていた。


「ほら、たーんと食べなあかんで!」


 ハツは看板娘だった。母と叔母が料理を作り、ハツがそれを机に運ぶ。最初は緊張したものだ。だって、定食屋に食べに来るのは軍人ばかりだったのだから。見るからに町の男衆とは違う、屈強な軍人。見慣れない彼らの元へ料理を運ぶのは手が震えた。声も震えていた。


 けれど、それが今や定食屋『細島飯処サイジマハンショ』の元気印である。持ち前の明るさが軍人たちに受け入れられたのだ。


「ハツちゃん。今日も元気だね」

「ウチが元気ちゃうかったら明日の天気は雪やと思って!」

「ハハハ、それはいい。雪なんて何年ぶりかなぁ」


 細島飯処に食事しに来る軍人たちは、ハツの軽快さを咎めるどころか、それを気に入った。ちょうどハツの歳が15で、若い兵士たちからすれば同じ年頃だったのもあるだろう。

 もっと経験を積んだ将校でも、ハツには普段通り接するように頼んだ。ハツもそれを快諾し、軍刀をぶら下げた軍のお偉いさんに対しても、


「はい、梅定食お待ちどうさん。おかわりあるから、お腹いっぱいなるまで食べてや!」


 と、明るく接客をした。

 人によっては、それを信じがたい無礼と取るかもしれない。実際、細島飯処を初めて訪れた軍人の中にはそのような態度を見せるものもいた。「女風情が、無礼な!」と激高したのだ。だがその権幕にハツが何やらする前に、周りの軍人がそれを諫めた。ハツではなく、場を乱したその新兵が後々処分されたという。


 それほどに、細島飯処のハツという少女は鹿児島飛行場の軍人たちにとって特別な存在であった。戦争の中で、ただひとつ息が抜ける場所。もはや日常と化した戦火の中で、非日常となった幸せを味わえる場所。そして、そこに行けば会えるハツという少女は、日頃生死と向き合っている軍人たちにとって、ただ一人その過酷さを忘れさせてくれる存在であった。


『ありがとう、ハツちゃん。俺らの話を聞いてくれて』

『ウチに出来るんは聞くだけ。それでええんやったら朝までつきおうたるで』

 

 酒を浴びる者。故郷の話をする者、家族の話をする者。細島飯処には様々な軍人が客として訪れた。皆一様に食事という行為を心の底から楽しみ、ハツに思い出話や愚痴や、さまざまを話した。ハツはそれを親身になって聞いた。軍人たちの話相手になった。涙を流し、その時をめいっぱいに楽しむ彼らに付き合った。


 細島飯処に訪れる者たちは皆一様に羽目を外し楽しんで。

 そして皆一様に、それから幾度かしてぱったりと店に来なくなった。

 

 そんなある日、1945年の7月のこと。細島飯処に1人の男がやって来た。同僚に付き添われてやって来たその男は、落ち着かない様子で椅子に座った。


「あの、注文いいですか?」

「はーい、ちょっと待って! 今手ぇ離せへんねん!」

「あっ、はい……」


 男はハツの返事にひどく驚いたようだった。その様子を見て、同僚の軍人がクスクスと笑う。彼らはすでに二度ほど来店していた。ハツの軽快さを知っている者たちだ。


「すみません、待たせてもうて。ご注文ですね?」

「はい。あの、じゃあこの松を」

「松定食ね。おかあちゃん! 松一つね!」


 ハツは厨房に向けてそう叫んだ。「あいよ」と威勢のいい返事。男は、初めて訪れる細島飯処にただただ驚き、半ば呆然としていた。


「お兄さん。ビックリしたやろ? ウチはこういう店やねん」

「そうなんですね。はい、驚きました。まさかこのような所があるなんて」

「ウチはハツ。お兄さんは?」

「僕は、高浜廉太郎(たかはまれんたろう)です。東京の方から来ました」

「東京!? ほんまに?」

「えぇ、本当ですよ」


 高浜は目を光らせるハツにニコリと微笑んだ。その余裕な様子と整った風貌を見て、ハツはこれが都会の人間かと感じた。田舎の人間とは違う、何かシュッとした感じ。けれど、軍服に身を包んでいればそれは一端の日本兵だ。


「なぁ、廉太郎さん。東京って食べもんが違うんやろ? やっぱここより美味しいん?」


 運ばれた松定食を食べる高浜に、ハツは興味津々に尋ねた。ここ、鹿児島飛行場近くの細島飯処には多くの軍人が足を運び、その中には北海道だったり新潟だったり、色々な所で生まれた者がいる。ハツはそんな者たちから全国津々浦々の話を聞くのが好きだった。聞いて、想像して、気分だけでも旅行するのが好きだった。


「そうですね……東京の食べ物はお洒落です。けれど、僕はよく分からない。むしろ、東京人が好む洒落た食べ物よりも、僕はここのお店で食べる人情味溢れた定食が好きです」

「へぇ、そうなんや。廉太郎さん、嬉しいこと言ってくれるやん。お世辞やとしても嬉しいわぁ」

「お世辞じゃないですよ。本当です。あぁ、でも東京には甘いものがあるんです。それは、こちらではあまり見かけないですね」

「甘いもん? はぇぇ、それはええなぁ。ウチも食べてみたいわぁ。せやけど、お菓子もんは軍人さんしか食べれへんのやろ?」

「僕らも普段から食べれられるものじゃありませんよ。特別な時にいただけるんです」


 ハツは高浜に色々なことを聞いた。高浜はハツに色々なことを話した。東京には見上げると首を痛くする建物があると。東京では川を舟で渡ると。東京では……、東京では……。


 高浜は細島飯処を訪れるたび、松定食を頼んだ。おかわりは決まって三回した。ハツはそのたびに笑顔で、ご飯をよそったどんぶりを高浜の前に置く。そしてそのついでに色々な話を聞くのだった。


「ほらほら廉太郎さん。ようけ食べへんとお腹すくよ?」


 それはハツの口癖だった。「いいや、自分は……」と遠慮する軍人にお節介にも二杯目のおかわりを勧める彼女は、細島飯処の名物であった。分かっていてわざと一杯で帰ろうとする軍人もいたりする。


 高浜はそんなハツに促されるがまま、細身の体で飯をたんと食らった。その食べっぷりを、ハツはニコニコと嬉しそうに、まるで自分のことのように見守っていた。


 ある時、そんな高浜の目の前でハツのお腹がグーッと鳴ったことがある。


「ハツさん、お腹空いたんですか?」

「ほんまや、忘れとったわ~~」


 高浜に言われ、ハツは恥ずかしそうに笑い飛ばした。厨房に戻り、そしてわずか数分で戻ってきた。曰く、その短時間で食べたという。聞くと、それは客である軍人たちが食べているものからは想像もできないほど質素なものだった。僅かな玄米に、葉っぱが少し浮いた汁物。芋ひとかけらで終わり。ふだん「いっぱい食べてや!」と笑顔で走るハツが、誰よりも食べていなかった。


「ハツさん、これ食べてください。僕、もうお腹いっぱいいただきましたんで」


 それを見かねて、高浜は御茶碗に半分残った白い飯をハツに渡そうとした。だが、ハツは首を横に振ってそれを固く拒んだ。


「あかんよ、廉太郎さん。アンタら軍人さんはウチらの代わりに命かけて戦ってくれとるんや。なら軍人さんである廉太郎さんは、ウチらの代わりにいっぱい食べなあかん」


 そう言って、ハツは結局一口も高浜の碗から食べることはしなかった。



 毎日のように細島飯処を訪れていた高浜だったが、彼もまた、他の軍人と同じようにぱったりと店に来なくなった。ハツはそれをいつものことだとあきらめる。別に、彼が初めてじゃない。珍しいことでもないから。けれど、どうしてか高浜の話してくれる東京のことは他の誰よりも面白いと感じたし、彼と話している時間は何よりも楽しく感じていた。だから、ハツは初めて寂しいと思った。


「また会えへんのかなぁ」


 叶わないと思いながらも、そう願ってしまうほどに。


 高浜がまた細島飯処を訪れたのは、その三日後のことだった。突然、開店前の戸が叩かれた。


「廉太郎さん!? 急にどうしたんです? ああ、松定食すぐに……」


 しっかりと軍服に身を包んで店の前に立つ高浜に驚いたハツだったが、すぐに厨房へ向かおうとした。松定食はいつも高浜が頼むもの。またお話ができると思って、嬉しかったからその足取りも早いものになる。


「すみません、ハツさん。今日は食事に来たのではないんです」

 

 けれど、高浜は戻ろうと背を向けたハツにそう言った。「えっ? なら何をしにきはったんです?」と、当然ながらハツは困惑する。高浜は状況の飲み込めていないハツの手を引き、店から連れ出した。


「どこ行くんです? 廉太郎さん」

「突然すみません。どうしても、ハツさんに渡したいものがあって」


 高浜がハツを連れて行った場所は、近くの海辺だった。いつもハツが散歩に来る砂浜だ。いつもなら一筋の足跡が、今日は二人分。四つ並んで刻まれている。


「それで、渡したいもんってなんなんです?」

「ああ、これです」


 高浜は軍服の物入れから、キラキラと光る瓶を二本取り出した。ハツは、初めて目にするそれに「なんやそれ!?」と驚きを隠しきれない。


「これは、‟らむね”って言うんです。ハツさん、甘いもの欲しいって前に言ってたでしょ? たまたま手に入ったんで、ハツさんに飲んでほしいって思ったんです」

「らむね……不思議な響きや。それに、ビー玉が入ってる!」

「アハハ、それが魅力なんですよ。そのビー玉をグッて押して……貸してみてください」


 高浜はハツのラムネのビー玉を押し、きゅぽんっとその栓を開いた。そして、「はい、どうぞ」とハツに渡す。ハツはラムネを恐る恐る高浜から受け取った。


「冷たい……。廉太郎さん、これ飲みもんなんやんな……?」

「そうですよ。こうやって、舌でビー玉を浮かせて飲むんです」


 実践してみせた高浜に倣って、ハツもラムネ瓶の縁に口をつけた。小さな舌でゆっくりとビー玉を動かし、ごくりと喉にラムネを流す。


「う、うわぁっ!!」


 思わず声が出た。冷たくて、そして舌に感じるピリピリと変な痛み。痛いのに、それが爽快に思えるのだからやっぱり不思議だ。そして何より、


「甘い……甘いでこれっ!」

「ふふっ、はい。気に入ってくれましたか?」


 ハツはうんうんと激しく頷いた。ゴクゴクと、今度は二口続けて喉に流し込む。さっきよりももっと強い刺激に一気に押し流されるような感覚。ガツンとその衝撃に殴られ、ハツはへなへなと砂浜に座り込んだ。


「すごいなぁ、廉太郎さん。こんなん知ってるんや」

「以前、お世話になった人に飲ませてもらったことがあって。それで、最後にこれをハツさんと一緒に飲みたかったんです」


 高浜はそう言って、ハツの隣に座った。


「……最後ってなんや? 廉太郎さん。またウチに食べに来てくれるんやろ? 松定食、頼んでくれはるんやろ?」

「ごめんなさい、ハツさん。あまり言えないんですよ」


 高浜は哀しそうに笑った。泣きたいのは、泣きそうなのはむしろハツの方だった。

 分かっていた。理解していた。高浜も、店に来る皆も、等しく彼らは軍人だ。軍人は戦う者たちで、遠い海の向こう……背伸びしても見えないその向こうで、戦いに明け暮れる。高浜にも、その時が来ただけじゃないか。分かっていた。それがさだめで、避けられないと分かっていた。でも、気がつくとハツはボロボロと涙を流していた。


「泣かないでください、ハツさん。僕はハツさんと、細島飯処さんと、そしてこの国のために命を捧げるんです。あなたが僕にくれたたくさんの美味しい食事への、ほんのお礼ですよ」

「……ちゃう。これは、らむねが美味しかったから泣いとるんや。廉太郎さんは死なへん。ウチが泣いたら、ほんまに死んでまうみたいやないか」

「ハツさん……そうですね」

「やから廉太郎さん。またウチに‟らむね”、ちょうだいや。また持ってきてください」

「……はい」

 

 ハツは袖でゴシゴシと涙をぬぐった。ただ、信じたくないだけ。誤魔化して言い聞かせて、自分を守ろうとしているだけと分かっていながら。高浜もその気持ちを分かっていながら、そしてだからこそ断ることが出来なかった。


「僕はね、このビー玉みたいなものなんですよ」


 高浜は空になったラムネ瓶を持ち上げ、太陽に透かせながらポツリと呟いた。


「閉じ込められて、自分の力ではどこにもいけないんです。決まった運命を辿る、逃げられない鳥なんです。翼はあるのに、僕の空はもう決まっている……」


 カラカラと鳴るビー玉は、ひどく悲しそうだった。諦めたようで、その運命を受け入れたようで。

 ハツもどこかで分かっていた。店に来なくなった人たちは戦場に行ったのだと。そして、もう二度と戻ってこないのだと。高浜も同じ運命を辿ると分かっていた。その前に、最後に会いに来てくれたのだ。そんな高浜に、悲しい顔をさせたくなかった。


「ちゃうで、廉太郎さん。廉太郎さんがビー玉なら、この瓶は同じ色した空や。広い広い空や」


 青い瓶は、青い空と青い海の狭間でキラキラと輝く。ハツの言葉に高浜はフフッと小さく笑った。


「ありがとう、ハツさん。けれどね、それでも僕は空に閉じ込められているじゃないですか」

「なら、ウチが壊したる」


 ハツは高浜の手から瓶を奪い取ると、それを思い切り近くの石目掛けて叩きつけた。


「ほら、これで自由や。廉太郎さんは、いつでもウチの傍におる。ウチがいつでもお腹いっぱい食わしたるし、廉太郎さんが元気ないなら明るく振る舞って笑わせたる。やから……廉太郎さんは、そんな顔しちゃあかんのや……」


 甲高い音が鳴って、ラムネの瓶は粉々に砕け散った。ハツは取り出したビー玉を握りしめ、ボロボロと泣きながら笑った。


「……自由、ですか。僕は最後にこの空を自由に飛んでもいいんですか」


 高浜も、高い空を見上げた。ハツの顔を見ると泣いてしまいそうだったし、下を向くと涙がこぼれそうだったから。悲しい顔を見せたら、ハツに怒られてしまう。


「ハツさん。ありがとうございました。ハツさんと過ごした時間は短かったですけど、とても楽しかったです。一生涯……僕は忘れません」

「ウチも、廉太郎さんがくれた時間、楽しかったです。らむねも、ご馳走様でした」


 軍帽を取って敬礼する高浜に、ハツは深々と頭を下げた。形式は軍人と、飯屋の看板娘。でもその最後のお別れは、


「抱きしめてもいいですか?」

「はい、どうぞ。ウチでよければ」


 高浜はハツの細身をギュッと抱いた。ハツも高浜の背中に手を回し、そっと撫でた。どこにあの量のご飯が入るのかと思っていた高浜の体は抱くと案外堅くて、しっかりしたものだった。


 最後のお別れだけは、男と女で終わりたかった。かといって何も言わないし、気持ちも伝えない。だって、それはきっと小さな夢みたいなものだから。ラムネの炭酸みたいにしゅわっと弾けて消えてしまうような儚いものだから。



 砂浜を歩く。すると、海が見える。背伸びをしても何も見えない。じゃあ、と立ち止まって空を見上げる。


「……さようなら、廉太郎さん。さようなら……!」


 雲一つない青い空を、七機の戦闘機がスーッと飛んで行った。そのどれか一つに高浜がいるとハツは悟った。空と同じ色をしたビー玉を握りしめ、精一杯に大きく手を振る。


 背伸びをして、水平線の彼方に機影が消えてもまだ、ハツは手を振り続けた。ずっと、ずっと……。気が済むまでずっと。


 **


 砂浜を歩く。すると、海が見える。倣って背伸びをしてみると足がつった。デスクワークばかりしていたせいか。

 私は運動不足の体を呪いながら、海へと近づいた。ちょんっとつま先をつけてみる。冷たい。


「おばあちゃんは77年前、この海で廉太郎さんを見送ったんやな」


 同じ海に私も今、立っている。振り向くと市街地が望めるし、砂の上にはゴミが見えたりと、随分変わってしまったかもしれない。けれどきっと、ここから見上げる空の色と、海の景色はおばあちゃんと……細島ハツと高浜廉太郎が見たものと同じだ。


「やからおばあちゃんはラムネ、好きやったんやね。初恋の味で、大切な人が教えてくれた味やったから」


 私は砂の上にラムネの瓶を一本、置いた。キンキンに冷えた瓶に砂がまとわりつく。そして、もう一本の栓を外し、砂の上に置いた瓶と私の手の持つ瓶とをカツンと叩き合わせた。


「乾杯」


 そう小さな声で呟き、グイッと飲む。それは変わらない味だった。シュワッと弾ける爽快な味。77年前と全く同じ味だろうか。そこまでは、私にも分からないが。


「そうそう、忘れたらあかん。これ、おばあちゃんから廉太郎さんへ直接伝えたってな」


 私はもう一本、瓶を持ってきていた。今度は空き瓶だ。中に入っているのはラムネではなく、手紙。おばあちゃんの日記の、廉太郎さんとの出会いを描いた部分の最後に書かれていた結びの手紙だ。廉太郎さんへのお礼と感謝が描かれていた。


 二文。一文は、稚拙な字で、ハツが描いたものだ。

 もう一文は、いつだろう。でも、私にはわかる。あれは、私のよく知るおばあちゃんの字だった。きっと亡くなる前に廉太郎さんに何か書き残したのだろう。


「これからはずっと、一緒に居られるんやで」


 日記を読んで、思い出した。おばあちゃんは昔からずっとビー玉を一つ、大切にしていたことを。それは色あせたただのビー玉だった。けれど、おばあちゃんはそれだけは私にも健太郎にもくれなかった。大切なものだと言って、ずっと握りしめていた。


 私はそのビー玉を瓶の中に入れた。ずっと握っていたせい、だろうか。本来は瓶の口にかっちりはまるビー玉はするりと瓶の中へ収まり、おばあちゃんの手紙の上でコロコロと揺れる。


「……さようなら、おばあちゃん。廉太郎さん」


 私はその瓶を波に浮かべ、送りだした。白波に乗ったラムネ瓶は、青い海に溶け込んで、青い空を映して、遠く遠くへ流れていく。水平線の彼方、時を越えて……届くといいな。


 私はもう一度、何もない虚空と乾杯し、一気にラムネを飲んだ。喉を通り過ぎる爽快感が弾けて、私の中で何かが片付いた気がした。


 

 私はラムネが好きだ。

 きっと、おばあちゃんと一緒の理由だろう。



 だって、ラムネを飲めばおばあちゃんを思い出すから。いつでも傍に居てくれる……そんな気がするから。

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