雨傘れんぼ
サクッと読める雨がテーマのスクールラブです。
梅雨の合間にいかがでしょうか。
多根君はどうやら傘を持たないタイプらしい。
生徒玄関のポーチに立ち、途方に暮れたように上を見上げる様子を良く見かける。
ひとしきり粘った挙句の選択は、友達の傘に入れてもらう(何故か渋々)、もしくは、濡れる覚悟で外へ駆け出す、の大抵二択であるようだ。
稀に、ビニール袋を頭にピッチリ被り、頭以外はびしょ濡れで帰っている姿を見るが、あれは止めた方が良いと思う。
「せっかくのイケメンが台無しなんだもん」
「ライバルが減って良いんじゃね?」
友人は奈穂のオヤツのスナック菓子を断りもせずに口に入れ、小気味よい咀嚼音を立てる。
奈穂は取り出し口を友人に向けながら、口を尖らした。
「ライバルって、別に…ただ、気になるだけだもん。つい、見ちゃうというか」
「…それが、恋なんじゃね?」
「別に…どうこうなりたい訳じゃないし」
「面白くねぇの、ね、奈穂っち寝癖直しのミスト貸して」
奈穂は大きめのトートバッグからボトルを取り出して友人に渡す。
「ほんっと、奈穂って何でも持ってんね。助かる~」
友人はすかさずコームを取り出して、ミラー片手に、少しうねっているだけの髪を整え出した。
そうだ。奈穂自身は平凡で、ちょっぴり心配症の面白味のない人間だ。
対して多根君はいちいち面白い。
高二で同じクラスになり二回目の席替えで隣の席になってから、あの惚けたイケメンは奈穂の心を擽り続けている。
出来ることならもう少し話してみたいが、自意識過剰気味の奈穂は色々考えてしまい、1ヶ月を過ぎた現在も、事務的な会話を交わす程度だ。
ザーザーと降る激しい雨の前で困り果てる後ろ姿を見ながら、カバンの中で握り締める折り畳み傘は取り出せぬまま。
…そう、意気地無しなのだ。
そんな事を繰り返す内、雨音を聞くと切なく胸が疼くようになってしまった。
勇気のない自分を思い知らされるようで悲しくなる。
まともに話したことも無いくせに、相傘をしようってのがそもそも無謀よな。
奈穂は机に上体を伏せて窓の外を見上げる。
6月の空は今日もどんよりと曇り、しとしとと細かい雨を落としている。
折畳み傘もタオルもカーディガンも、替えの靴下まで、奈穂の大きなカバンには準備されている。
けれど、気になる男子に話しかける用意はいつまで経っても整わない。
昼休みの終了を告げるブザーが鳴り、疎らだった教室の中に生徒たちが戻ってくる。
机に頬杖をついて俯く奈穂の髪が、隣に戻ってきた人物が巻き起こす風を感じ、視界の端にその制服を捉えた。
「次の授業なんだっけか、日本史か」
残念、古典です。
心の中で突っ込むだけの所詮モブ。
多根君はごそごそと机を探っている。
そして、ドチャ、と音を立てて教科書やらノートを床にばらけた。
その内の一冊が奈穂の足首に立てかかる。
奈穂は内心ドギマギしながらそれに手を伸ばし、そっと机の上に置いた。
「あー、わりぃ」
「うん、次の授業それだよ、古典」
多根君は掻き集めた冊子を両手に持ち、体を起こす。
「何これ古典?こんなんあったっけ?」
「あったね。週一でコマあるね」
「へぇ、印象にねぇわ」
多根君は午後イチの授業は大抵寝てるからね。
盛大な寝息を立てながら。
奈穂はクスッと笑うと自分も教科書を出した。
「なあ」
隣から聞こえた声に、固まる。
一瞬、自分に掛けられたものかを疑い、周囲に耳をすました。
「佐伯さんさ、進路相談明日だよな。何番目?」
名前を呼ばれ確信した後、カバンを探ってA5のクリアファイルから進路相談の用紙を取り出した。
「えっとね、五番目。最後から二番目」
「俺も明日希望だったの。俺は何番目?」
「多根君は最後だね。私のあと」
「ふうん。結構待つな」
「他の人たちは部活を抜けて来るみたいだけど、うちらは暇だね」
「帰宅組を先にして欲しいよな」
「そうだね」
きゃー、この会話、最長じゃない?
奈穂は内心舞い上がる。
これしきの事でこの高揚感。
あーやっぱり、もう間違いないや、認めるしかない。
「明日、雨降んのかな」
多根君がぽつりと呟く。
奈穂越しに窓の外に降り続く雨を見ているようだ。
奈穂は慌ててスマホの画面を操作する。
そして、毎日チェックしているお天気アプリを画面に広げた。
「天気予報だと、晴れだね。梅雨の晴れ間に青空が広がります、だって」
残念、相傘を実現出来るまたとは無い機会だったんだけどな。そう上手くはいかないか。
「晴れかぁ…」
多根君の声は何故か少し残念そうだった。
けれど、奈穂の心は浮き立っていた。
ピチピチと窓枠を跳ねる水音にさえ、胸が弾んだ。
***
そして翌日、進路相談の順番がくるのを奈穂は一人教室で待っていた。窓から見える空は快晴で、雲ひとつない。
そこへ、多根君が現れた。
「佐伯さん、順番代わってくんね?だめ?」
教室の扉を半分開けて覗き込む多根君の懇願を、奈穂は快く引き受ける。
「ありがとな。じゃ、先生に言ってくるわ」
閉まった扉を暫く見つめた後、奈穂は手元のスマホに視線を戻し、口元を緩ませた。
相傘は実現出来ていないけれど、昨日も今日も話せた。
こんな些細なことで菜穂を幸せにしてしまえるのだから、多根君は凄い。
盗み見ては胸をキュンキュン鳴らすだけだった切ない水色の毎日が、カラフルに色を変えたように感じた。今なら、人見知りを返上して誰にでも話し掛けれそうな気さえする。
単純なんだなぁ…
奈穂は一人であるのを良い事にニマニマと笑う。
そこへ再び教室の扉が開く音がして、多根君が現れた。
今度はつかつかと教室の中に入ってくる。
忘れ物かな…?
瞬きしながらその姿を目で追っていると、多根君は窓際の席に座る奈穂にどんどんと近付き、前の席の椅子の向きを変え…
なんと、向かいあって座った。
奈穂は息を止める。
「先生に言ってきた。暇だからさ、佐伯さん相手してよ」
「えっ、は、良いけど」
奈穂は五月蝿く鳴る鼓動を抑えつつ、目を伏せた。
思いもがけないラッキーだけれど、果たしてまともに会話なんて出来るんだろうか。
つまんないと思われたら…いや、絶対思われるな。
奈穂はスマホを握りしめ、上手くやり過ごす方法を見つけるべく必死で頭を巡らせる。
「連想ゲームとか、どうよ」
多根君は、狭い机に肘を付いて身を乗り出す。
奈穂はその近すぎる距離に恐れをなし、思わず仰け反った。
「い、いいよ。でも古典的なゲームだね」
「結構面白いよ?…じゃ、俺からね、“雨 ”」
「今日は晴れてるけどね」
「良いんだよ、ほれ、次」
「え、えっと…か、捨て猫!」
「なんで捨て猫…ダンボールに入ったあれ?」
「そう、それで普段強面の男子が拾って抱っこしてるのを偶然女子が見かけて、それをきっかけに恋に落ちるっていう王道の…」
多根君は吹き出した。
奈穂はおどおどと俯く。
しまった、変な事言っちゃった。
「良いよ~、佐伯さん、これは思った以上に楽しめそうだな」
多根君の屈託のない笑顔に、奈穂の心臓がどこどこ鳴った。
「じゃぁ、俺ね、うーん…ミルク」
「牛乳か…うーん」
「ミルクだけどね」
「ぞうきん!」
「また、斜めだなぁ…掃除」
「当番」
そうやって、思いがけずも楽しい時間が過ぎていく内、奈穂の気持ちも徐々に解れてきた。
「親指」
「内履き」
「なんで内履きなの?」
「だいたい親指んとこから穴が開くだろ」
「確かに~」
奈穂はくすくすと笑う。
「内履きかあ、じゃあ下足箱」
「玄関」
「玄関か、う~ん…」
「佐伯さんさ、帰りいっつも玄関で一緒になるじゃん」
ゲームを中断し突然投げられた言葉に、奈穂は一瞬固まるが、平静を装う。
「私も多根君も部活やってないからね」
「いつも傘忘れないね」
「えっ?…あ、うん。折畳み傘を常備してるから」
「俺、すぐ忘れる」
「そもそも最初から差してないよね?朝も友達に入れてもらってるし」
多根君は頭を搔いて、俯いた。
目の前に晒された旋毛からひょこんと跳ねた髪が目に入る。
ああ、朝から気になってたんだよね。この寝癖。
わたし的にはとっても可愛いくて萌えるんだけど、本人は教えてもらった方がありがたいんだろうな、と思いつつ、なんて言ったら良いかわかんなくて、結局放課後っていう…
でも…
「あ、あのさ、多根君」
多根君は奈穂の呼び掛けに、上目を上げる。
ひっ、かわよ。上目遣い反則…!
奈穂は両手で顔の下半分を覆いながらも思いきって言ってみた。
「ね、寝癖ついてる。直す?」
「へ…」
多根君はキョトンとしている。
「朝から気になってたんだ。旋毛の髪がね、ピョン、て立ってるの」
多根君はそっと頭のてっぺんに手を伸ばした。
「そうなの?全然気が付かなかった。恥ずかしいじゃん?!」
奈穂は鞄から寝癖直しミストを取り出して机に置く。
「言ってあげた方が良かった?」
「うん…なに?俺ずっと寝癖を佐伯さんに見られてたの?朝から?」
多根君は机に突っ伏してしまった。
「えっと、今更だよ?多根君。結構な頻度で旋毛付近は跳ねてるよ?でも、多根君は背が高いから見えてない人も多いと思うよ!」
「…だけど、佐伯さんには見えたんだ」
「ほ、ほら、私は隣の席だから!」
いつも盗み見てることはバレたくない…
今日も朝から数え切れないほど見ちゃってる。
「…そうかな?佐伯さん、隣の席だけど、あまりこっち見ないじゃん」
「み、見てるよ!!すごく!!」
思わず意気込んで答えてしまい、同時に失言であったことに気付く。
「……ふうん」
机にうつ伏せたままの多根君の、その頭の上に、『…ふうん』という吹き出しが浮いているように見えた。
その白い雲に含まれる感情は見えない。
…怖くて知りたくない。
けど…
奈穂は手に汗を握りながら、必死で次のコマを考える。
次のターンは恐らく奈穂だ。
だとしたら、なんて言う?
だって、もっと話したい。
もっと仲良くなりたい。
ここで挫けてる場合じゃない。
「雨音!」
多根君は机に顎をつけたまま顔を上げ、たった今声を発した奈穂を見た。
長い前髪から切れ長二重の瞳が覗く。
「雨音だよ、多根君」
「…もしかして連想ゲーム続いてんの?寝癖は?」
「これ、使って良いよ」
差し出したスプレーボトルを至近距離でじっと見つめつつ、多根君はボソッと漏らす。
「使ったこと無いからわかんねぇ」
「シュッてして、ブラシで梳かすだけだよ」
「わかんねぇ、出来ねぇ、俺不器用だもん」
多根君は窓に顔を向けて机の天板に頬を付けてしまった。
…あーあ…拗ねちゃった。
奈穂はシュンとしてボトルを引っ込めた。
「なら、止めとくか。もう帰るだけだしね。お節介だったね」
努めて明るく言ってみたが、次の言葉が出てこない。
そうして、ほんの少しの沈黙の後、多根君がのっそりと身体を起こし、無言で頭を差し出した。
「佐伯さん、直してよ」
奈穂はヒョッと息を吸い込む。
「シュッてして、ブラシで梳いてよ」
「私がやって良いの?」
「やって欲しいんだよ」
奈穂は嬉々としてボトルを握りしめ、多根君の可愛い寝癖にノズルを向けると、人差し指でレバーを引いた。
プシュッと音を立てて、ミストが広がる。
奈穂はすかさず胸ポケットからコームを取り出した。そして、細かい水滴が乗った黒髪に、そっと差し入れる。
地肌に触れないように、スッスとコームを動かし、最後に斜めにして撫で付けた。
「出来たぁ…!」
「むちゃ良い匂い」
「そう思う?私もね、とにかく香りが気に入ってずっと使ってるんだ」
「佐伯さんの匂い」
「毎日使ってるからね!家用のはもっとデカいの」
「一緒の匂い」
「だね!!」
多根君は再び顔を上げて、奈穂をじっと見る。
奈穂は瞬きしつつ微笑み返してみるが、ついつい口元が引きつってしまう。
なんでそんなに見るんだろう。
「傘」
「へっ?」
「傘だよ。次、佐伯さん」
「あ?ゲームの続きね、傘…」
玄関、雨音、傘…
「えっと…」
その言葉から連想されたのは、いつもの光景だった。
雨音に負けて声も出せず、背中を見つめたまま動かない足。
握り締めた傘の柄。
途端に意気地のない自分が戻ってきて、奈穂は俯く。
何ひとつ言葉が浮かばなくなった。
「…そんなに難しい?」
多根君が、奈穂の顔を覗き込む。
奈穂は視線を逸らしながら小声で呟いた。
「か、か、片思い…」
多根君はその脈絡なく飛び出した言葉に疑問を投げかけることなく、直ぐに後へ続けた。
「告白」
「こっ、ここ、鼓動」
「“こ”から始まる言葉じゃないんだけど。でも、良いね。なんか文学的、詩的っていうか…なら、恋」
「いっ、い、いいい~」
「佐伯さん、しりとりじゃないって」
奈穂は目をぎゅっと瞑り、気持ちを落ち着ける。
焦りすぎだ。
完全にテンパってる。
絶対不審に思われてる。
何だか頬も熱いし、手も汗で湿ってる。
さあ、何か言え、早く言え。
これ以上変な風に思われる前にバトンを渡しちまえ。
そして、慌てふためく奈穂の口から、遂に、とんでもない言葉が飛び出した。
「すっ、好き!!」
あまりの暴挙に愕然とした。
しかし、多根君はのんびりと、しかし、はっきりと答えた。
「うん」
うん…?
「うんって…幸運の運?」
「まさに」
奈穂は首を傾げる。
「“ん ”がついちゃったよ?」
「だから、しりとりじゃないよ」
多根君は手の甲を口に当てて笑う。
奈穂は腑に落ちないながらも、その様子を惚けて見ていた。
その時、視界を何かが斜めに過ぎった。
窓の外に視線をやれば、空から次々と水滴が落ちてくるのが見えた。
カツカツと窓を打つ音が鳴り、小さな飛沫がガラスに透明なドリッピングを描く。
「うそ、雨?」
「本当だ。予報は晴れだったのにね」
「向こうの空は明るいのに…!」
「局地的ってやつかな?」
奈穂は、みるみる暗くなっていく空を唖然と見つめながら立ち上がり、窓に手をついてグランドを見下ろした。
グランドの黄色い砂が水を含み、どんどんと黒く色を変えていく。
「ひゃあ、結構強いな。面談が終わるまで止むかな」
「どうだろう?結構大きいみたいだよ、雨雲」
いつの間にか奈穂の隣に立っていた多根君が、スマホの画面を掲げて見せる。
「雨雲レーダー」
そこには所々黄色く光る長い帯が映っていた。
「マジかぁ…」
「佐伯さんは傘持ってるんでしょ。当然」
「持ってるけど、多根君は例のごとく持ってないんでしょ?職員室で置き傘借りたら?」
「いいよ」
「結構強めだよ?濡れて風邪ひくよ」
「じゃあさ、入れてよ」
身をかがめて顔を寄せる多根君が、とんでもないことを言い出した。
奈穂はその可愛い顔に釘付けになる。
「佐伯さんの傘に入れて」
奈穂は、ぽかんと口を開けた。
そんな、そんな、都合の良い展開ある?
「ずっと待ってたんだけどなー、傘入れてくれんの。ずっと玄関で傘握ったまま俺の事見てたでしょ?」
「へっ、な、な、」
「俺から頼めば良かったのかもしれないけど、もしかして勘違いだったら恥ずいし、なんか、意地になっちゃって。それに…」
「にゃ、に、にゃ」
多根君はぷッと吹き出した。
「そうやって、テンパっちゃうと思ったんだ。きっと俺も変な風になっちゃうし。そんなの誰かに見られたら恥ずかしいでしょ、お互い」
奈穂は涙目になり、俯いた。
…信じられない。
「今日が絶好のチャンスだったの。計画通り雨が降ってくれて良かった。佐伯さんが面談が終わるまで待ってるから、一緒に帰ろう」
奈穂は俯いたまま、何度も頷いた。
「俺もずっと見てたよ、佐伯さんの事。隣の席になって密かに喜んでた」
「う、うそ、ほんと」
「でもさ、佐伯さんてば授業中も窓の外をずーっと見てるよね。こっち見ずにさ。俺、心の中でこっち向け~って念を送ってた」
「窓に映る多根君を見てたんだよ。恥ずかしくてまともに見れなかったから」
「マジで?可愛いなぁ…」
「かわっかわ?!」
「窓に映った俺が佐伯さんのこと見てたの気づかなかったの?」
「雨を見てるんだと思ってた。憂鬱そうだったし」
多根君は頭を搔いた。
「あれは憂鬱じゃないよ、恋慕の眼差し」
「レンボー」
「レインボーに掛けてる訳じゃないよ、恋慕。詩的でしょ?」
「し、しゅ、しゅてき」
「素敵?俺ステキ?」
違うけど、違わない。
奈穂はもじもじと体を揺らしながら頷く。
多根君は照れ臭そうにしながらも、奈穂の手を取って、きゅっと握った。
「相傘楽しみ」
頬を染めて手を繋ぐ二人が、雨で滲んだ窓に映る。
ああ、あんなに切なく胸に響いた雨音も、今日はこんなに甘く心を擽るの。
奈穂はそのふわふわとした心地を味わい、蕩けた。
ついつい浮かんでしまう心配事も、今日は雨音がかき消してくれるようだ。
私、頑張りたい。
やっぱり、もっともっと、多根君と仲良くなりたいもん。
奈穂は繋がれた手を、指先でそっと握り返した。
おしまい
この後、相笠をして帰りました。
そして、多根君はその後も傘を持たないスタイルを貫き通したという…