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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年10月

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2017.10.17 火曜日 研究所


 カントクが、

『続きが読みたいから書きなさい』

 って言ってくれたんですよ!


 早紀が頬を上気させて言った。


 なので今、秋倉に来る前のことを書いてます。あの頃は一人で東京をうろうろしながらいろいろ考えてたんですよね。ところで所長、私が夜中に電話してきた時、本当はどう思ってました?やっぱり迷惑でしたか?


 久方はこう言った。


 僕のことを小説のネタにするのはやめてくれない?


 え〜!?


 早紀は本気で抗議の声を上げた。


 昔のことなんてどうでもいいから、今を見ようよ。


 久方はそう言って立ち上がった。早紀と出会った頃の自分の振る舞いを思い出して恥ずかしくなったので、話を変えたかったのだ。


 散歩に行こう。夕方から雨が降る予報だから、今のうちに。


 久方はコートを着て帽子をかぶり、歩き出した。早紀もしぶしぶついてきた。

 空は雲に覆われ始めていた。その隙間からさす陽の光は神秘的に輝いたり隠れたりを繰り返す。風が草をざわめかせる。雨の気配は近い。


 わかる?この大気の独特な動き──


 久方が言うと、早紀が、


 わかります。空気が大きくうごめいている感じ。


 と答えた。

 草原の真ん中で2人は足を止め、風を、空気の動きを、全身で感じた。まるで大地の脈動をじかに感じているような、そんなひととき。2人とも我を忘れて、この自然だけを感じていた。

 そこには、過去も、未来もなかった。

 ただ、今吹く風が、大気の流れが、自然があるだけだった。

 そのうち雨が降ってきた。2人は自分を思い出して慌てて建物に帰った。


 今時期の雨が一番冷たくて辛いね。


 早紀にタオルを投げ渡しながら久方は言った。北海道の10月から11月、雪に変わるまでの期間の雨はとても冷たい。気温が下がっていく今時期は一番辛い時期で、これが12月くらい、雨が雪に変わる頃、寒さに慣れて楽になる。

 2人でストーブの前に座り、ポット君が運んできたホットチョコレートを飲んだ。


 私、最近わかってきました。


 不意に早紀が言った。


 私は、自分に起きた悪い出来事や、どこかで聞いた悪いニュースを思い出すことで、自分を繰り返し傷つけていたんですね。今はもう何も起きていないのに、昔の怖いことを頭の中で再生して、新たに怖い体験を作り出して、どんどん恐怖が強くなってしまう。

 所長もそうだったんじゃないですか。昔のことを思い出して動けなくなったことありましたよね。


 確かに、そういうことがあった。

 母さんのしたことを思い出した時──


 久方は自分を殴ったり蹴ったりしていた母親のことを思い出した。体が緊張した。でもすぐに『大丈夫』と自分に言い聞かせた。あれはとっくの昔に終わったことなのだ。今は早紀と、ストーブの前でホットチョコレートを飲んでいる。平和だ。


 だから、私は決めました。

 もう、昔のことで、自分を傷つけるのはやめようって。

 もっと楽しいことを考えて生きていこうって。


 それから早紀は、『犯罪のニュースを見るのも心に良くないから、見ないようにしている』という話をした。自分を傷つけるものを上手く避けることを学んだらしい。

 自分ももっと早くそうすべきだったと久方は思った。こんな歳になるまで、幼少期の出来事を引きずって人生を破壊してしまった。


 そうだ、サキ君の言うとおりだ。

 もうそんなことはやめにしよう──


 そう思った時、窓辺からコツコツと音がした。

 見たことのない灰色の小鳥がとまっていた。

 小鳥は何かを伝えたがっているかのように窓を何度かつつくと、そのまま遠くへ飛び去っていった。


 今の、なんて鳥ですかね?


 さあ、僕も初めて見た。


 早紀は、


 あの鳥、私達に『今を見ろ』って言いたかったのかもしれませんね。


 と言った。しかし、


 でも私、ここで起きたことはやっぱり記録に残したいです。これからの人生を生きていくためにも、学んだことを忘れたくないし──


 そして、上目遣いで久方を見た。かわいい。


 わかったよ。書きなよ。


 久方は仕方なく言った。この目に逆らえる人間がこの世にいるとは思えなかった。


 やった!さっそく帰って続きを書きます!

 あ、傘借りていきますね。


 早紀は楽しそうに走って帰っていった。久方はため息をついてからソファーに座り、かま猫をなでながら、今までここで起きたことをぼんやりと思い出していた。


 僕は変わった。

 もう、ここに来た頃とは違う。

 平和だ。


 雨の音が強くなってきた。全ての雑音をかき消してしまいそうな音。今日はピアノも聞こえない。結城は部屋にいるはずなのだが。


 不気味だから様子を見に行こう。


 久方は2階の結城の部屋に行った。

 結城は、窓際に椅子を置いて、そこに静かに座って外を眺めていた。


 今日は迷惑ピアノしないの?


 久方が声をかけると、結城は振り返って顔をしかめた。


 俺だって雨の音を聞いていたい時はあるんだよ。


 そしてまた窓の外を見た。木々が雨に濡れている。


 ピアニスト、やり直すんでしょ?


 久方が尋ねた。


 やり直しなよ。今ならできるだろ。

 こんな田舎で病人の世話してる場合じゃないだろ。


 お前はもう病人じゃないしな。


 結城が振り返り、優しく笑った。そして、


 もうお互い、一人で生きていけるよな。


 と言った。


 俺がここに来たのは、お前のためじゃない。

 自分のためなんだ。

 自分を納得させたかっただけだ。

 でも、それも終わったよ。


 それからゆっくりと立ち上がり、


 そろそろ札幌へ帰るかな。


 と言った。それから、


 腹減った。飯食いに行こう。


 と言って、外に出ていった。2人は松井カフェでカレーを食べたのだが、食事中ずっと無言で、松井マスターが孫の恋バナを延々としゃべるのを聞きながら、お互いに『何かが終わった』と感じていた。






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