2017.10.3 火曜日 高谷修平 病院
もう何日経っただろう?
高谷修平は病院のベッドに横たわり、天井を見つめていた。もう何日も同じ景色しか見ていない。全く動けず、近くにある窓をのぞくことすらできない。まるで死んだかのように横たわっているだけだ。
死んだかのように。
修平は心でつぶやいた。
でもまだ死んではいない。考えることはできる。
心はまだ秋倉に残っている。少し前まで北海道の田舎で普通に自転車に乗っていた。普通に学校に行って、普通に友達と話していた。
今では全部、夢だったような気がする。
本当は自分はずっとこの病室にいたのではないか。夢を見ていただけなのではないか。本当は秋倉など存在していなくて、そこで出会った人も自分の空想の産物なのではないか──
それを確認するのが怖くて、ずっとスマホを見ていなかった。実のところ、スマホを手にする力すら、ここ数日はわかなかった。それくらい修平の病状は悪化していた。急激に。
「修二がまた新曲を出すんだよ。どうせ売れないだろうに」
面会に来た母、高谷ユエは努めて明るく言った。
「ま、でもあれが生きがいだし、昔からの固定ファンがついてるしねぇ」
父、修二は若い頃から音楽活動をしていた。札幌から東京に出てきて、そこそこ売れた。時には仲間とバカもやった──そんな話を、修平は何度も聞いていた。
自分もそういう生活がしたかった。
ごく普通の、人間らしい生活を。
でも、もう無理だ──
修平は母の話は聞いていたが、あいづちを打つ気にすらなれなかった。
『修平君』
ユエが帰った後、新道先生が現れた。
「あれ?久しぶりだね」
修平は力のない声でつぶやいた。
「最近見かけないから、先に地獄に行って待ってるのかと」
『なんで地獄なんですか』
新道先生が苦笑いした。
『それに、君はまだまだ死にませんよ』
「この状態見てもそう言える?」
『ええ、言えます。そろそろスマホを確認しては?』
修平は黙った。
『みなさん、心配していますよ』
長い沈黙があった。外から救急車の音が聞こえてきた。ときおり強く吹く風の音と、建物の空調の音。世間と隔絶された空間の音の混じり。
「怖いよ」
しばらくしてから、修平がつぶやいた。
「全部夢だったかもしれない。そうじゃなくても、みんな今の俺を見たらどう思う?それに、もう俺のことなんか忘れてるかもしれない」
声が震えていた。
「もっと怖いのは、みんながいる場所にもう自分は戻れない、はっきり突きつけられる気がして──」
『そんな心配はいりませんよ。離れていても友達は友達です』
「でも──」
『それに、時には現実を直視することも必要ですよ。大人ならね』
先生はそう言ってにっこり笑ってから、
『考えておいてください。この状態で何ができるか』
と言って消えた。
「なんにもできねえって!」
修平はつぶやいた。そして、またしばらく無言で天井を見つめた。秋倉の部屋の天井とはかなり違う。あそこの天井は古くて壁紙が変によれて線ができていて、照明のデザインが昭和めいた古臭さで、時々早紀が怒鳴っている声が隣から聞こえて、保坂が遊びに来て一緒にギターを弾いて──
秋倉で起きたあれこれを鮮明に思い出しているうちに、これは夢ではないのではと思えてきた。
修平は何時間も経った後で、力が入らない手をなんとか動かして、スマホを手に取った。久しぶりに見た画面は眩しくて震えていた。なんとかロックを解除しLINEを見ると、メッセージがかなりたまっていた。
「大丈夫?」
「何でもいいから返事して」
「せめて既読になってくれよ」
「生きてる?」
クラスの人からこういったメッセージが毎日何通も届いていた。保坂からは授業ノートのPDFが大量に送られていた。平岸あかねからは、
「簡単に死んだら殺す!」
という意味のわからない言葉も送られていた。
修平は大量のLINEを全部見て──涙が止まらなくなった。
夢じゃなかった!
自分は確かに、あの町に行って、生活していたのだ。
ずっと憧れていた普通の生活をしていたのだ。
「落ち着いたら連絡をください。大事な話があります」
伊藤百合からはこんな言葉が届いていた。
大事な話って何だ?
図書委員をクビにするとか?
いや、もうなんでもいい。百合が本当に存在している。それだけで嬉しい。
修平は全員に『なんとか生きてるよ。でも動けない程度に重い』と正直に言ってみた。すると、すぐに全員から、
『よかった生きてた』『でも大変だな』『そんなに重いの?』と、安堵と心配の返事が来た。
そんな中、
「私は、あなたのことが好きです」
百合からそんな言葉が届いたので、弱った心臓が跳ね上がった。
「本当は直接会って言うべきなんだろうけど、手遅れになったら困るから今いいます。
ずっと前から、修平のことが好きでした。
いなくなって初めてわかりました。
私があなたを必要としているということが。
神父様に相談しました。
ただ、祈りなさいとおっしゃいました。
私はずっと、あなたのために祈っています──」
修平は、その文面をしばらく見つめてから、
「今言われても遅いよ──」
とつぶやいて、スマホを放り投げた。
でも嬉しかった。しかし悲しかった。やっと両思いになれたのに、遠く離れた所に来てしまっていて、しばらく戻れそうにない。
それでも、自分には友達がいて、どうやら彼女もできそうだ。
自分にも、そういうことができたのだ。
次の日、あいかわらず修平は天井を見つめていた。容態もあいかわらず。面会に来た母ユエは、これで何度目になるかわからない愚痴を繰り返した。
「だから北海道なんてやめとけって言ったんだよ」
ユエは行かせたことを後悔していた。
「結局こうなっちゃったじゃないか」
「でも、楽しかったよ」
修平は薄く笑って答えた。
「友達もできたし、彼女もいるしね〜」
スマホの画面をユエに見せた。ユエは『おやまあ』と呆れた笑いを浮かべて、
「で?式はいつあげんの?」
と冗談を言ってから、夫に報告するために病院を出た。




