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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年9月

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2017.9.30 土曜日 サキの日記

 結城さんは、もう歌のレッスンはしないと言った。

 秋浜祭までまだあるのに。

 奈々子も出てこなかった。

 ヨギナミと一緒に研究所へ行ったけど、結城さんは一人でベートーベンを弾き続けていて、私達とは話そうとしなかった。


 ピアノソナタ32番。最後のソナタだね。

 結城らしくない曲だなあ。


 と所長が言っていた。勝手にフィナーレを決めてしまったかのような選曲。

 入院しちゃったシュネーがまだ帰ってこないので、所長は心配でたまらないようだ。飼い主として責任を感じているらしく『もっと気をつけなきゃ』と言った。最近かま猫が外に出て行方不明になるので、それも心配らしい。


 うっかり山に迷い込んで、

 クマやキツネに食べられてたら嫌だもの。


 というわけで、私と所長とヨギナミの3人は、かま猫を探して建物の中と畑のまわりを歩き回った。畑の縁のあたりで一度見つけたんだけどまた逃げてしまって、その後どこを探しても見つからなかった。なのに、疲れた私達が1階の部屋に戻ると、かま猫は何ごともなかったかのようにソファーの上で丸まっていた。

 猫は気まぐれだ。

 コーヒーを飲みながら私は思った。最近、特に今年に入ってから、私は結城さんや奈々子のことばかり考えて、他のことに目を向けていなかった。前の私はこうじゃなかった。何ていうか、もっととがっていて、いろんなことを考えたり書いたりしていた。いつの間にか見失った自分を取り戻したい。

 そんな話を二人にしてから、ヨギナミに『好きな人がいるのにいつも冷静だよね、なんで?』って聞いたら、


 落ち着いてなんかいない。

 いつもドキドキしてる。


 と言った。顔に出なさすぎだ、ヨギナミは。それとも私が何でもすぐ顔に出しすぎなのか。

 前に修平に『もっと笑って〜!』とからかわれたことを思い出した。その修平からはまだ連絡がない。もしかしてこのままお別れになるんじゃないか、死んで、次に会うのは葬式なんじゃないか──みんながそう思い始めてる。

 カッパめ、早く連絡しろよ。

 私が心配してやってるんだから。

 死ってなんだろうねってぼやいたら、


 生身の世界から消えて、世界の一部になることかな。


 とヨギナミが言った。


 空とか、木とか、そういう感じ?

 上手く言えないけど。


 すると所長が、


 それは、今も見守ってくれてるっていう感覚?


 と尋ねたが、ヨギナミは『違う』と言った。


 ただ、当たり前のようにどこかにあるものになるってこと。


 ヨギナミはそう言ったが、自分でもどう表現したらいいのかわからない感覚を持っているようだった。たぶん、自分の母親の死に関して。


 行きてる頃みたいに嫌味を言ってくることもない。でも、いなくなったというよりは、空や、自然のものみたいに、どこかに当たり前にあるものになったという感じ。


 だそうだ。

 なんとなくわかるような気がする。死んでも、その人が存在したという事実は消えない。空気のように、何かが残り続ける。それは『見守られている』というような受動的なものではないし、『誰かがそこにいる』というようなものでもない。

 ただ、あるものになる。そんな感じ。

 とはいえ、死んでしまったらもう何もできないので──私はまた『明日死ぬとしたら何をしますか』という問いについて考える。そして、明日死ぬとしても、明日の準備をしてから死ぬような気がしてる。明日の授業のためにバッグに持ち物を入れて、明日着る服を用意して、いつもどおり眠りについて死ぬような気がしてる。

 それはたぶん私に『大きなことを成し遂げよう!』みたいな夢や目標がないからで、そう考えると私のやりたいことは『日々、一日一日を生きること。それを文章に残すこと』なんだと思う。だから、死ぬ間際まで普通に暮らすか、日記を書くかしていたい。

 やっぱり書くことなのかな。

 こんなことで迷える私は贅沢だ。恵まれている。それは知ってる。ヨギナミはクラスで真っ先に試験を終え、今は、平岸パパにお金を返すためにバイト探してるけどやはりこの田舎では見つからないし、ネットで副業を探したりもしてるらしいけど『怪しいのばっかり』と言っていた。レストランに戻りたいけど、もう新人が入ってしまっていて無理らしい。

 天井から聴こえる音楽が暗くなってきた。月光だ。たぶんこのまま大好きな第三楽章まで弾くだろうなと思った(実際弾いてた)。ゆっくりした重い音を聴きながら、所長はかま猫をじっと見ていた。部屋から出ないようにドアに鍵をかけてはと言ってみたら、


 それでもどこかから出ちゃうんだよ。

 この建物亀裂が多いから、抜け道がいっぱいあるんだと思う。


 と。


 猫達も神戸に連れて帰りたいんだけど、

 環境が変わるから大丈夫かなって、心配だよ。


 と。私は所長がここを出るというのが今も信じられないというか、ずっとここにいてほしいと思ったので、ここに住み続けることはできないんですかと聞いてみたけど、『無理』と言われた。


 帰り道、林の道で建物を振り返って私は考えた。自分でここを買って所有できたらいいのにって。もちろん私にそんなお金はない。母なら持ってそうだけどたぶん反対するだろう。父は──あまりあてにならない。

 ここは、このままにしておきたい。

 猫達も、所長も、ここにいてほしい。


 わかってる。これは私のわがままでしかない。

 自分の都合だけで、他人を引き止めることはできない。


 だから、残り半年、所長とは仲良く過ごそう。

 ここで思い出をたくさん作ろう。

 死んでから後悔しないように。




 また自分が受験生だということを忘れていた。夕食の時平岸ママに『勉強はかどってる?』と聞かれて慌てた。で、今勉強してるんだけど、やっぱり集中できない。気がついたらyoutubeで米津玄師見てた。

 彼の言葉のセンスが欲しい。

 この語彙力、どこから来るんだろう?

 10曲くらい聴いてから、気を取り直して勉強アプリを開き直す。

 修平を思い出して、隣の壁をちらっと見る。

 勉強できるって、恵まれていることなんだ。

 病気でできない人もいるんだから。

 そう言い聞かせる。

 でも集中できないので、今度は本棚をあさる。

 私ってバカなのかな?大事なことは何かわかっているはずなのに、どうでもいいことばかりしてしまう。





 


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