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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年9月

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2017.9.25 月曜日 サキの日記

 私は文章の本を借りるため、伊藤ちゃんに図書室を開けてもらった。なのに『考える快楽』という哲学の本を見つけて読みふけってしまい、文章の勉強なんか少しもできなかった。でも仕方ない。本との出会いは不意に訪れるものだ。自分では本を読もうなんて思ってなくて、全然別なことしようとしていた時に、なぜか面白そうな本と出会ってしまう。

 人生とはそういうものだ、と自分に言い訳してみる。

 分厚くて読むのに数日かかると思ったので、この本は借りてきた。

 伊藤ちゃんの話だと、昼前に修平からLINEで『とりま生きてる』と返事が来たらしい。私には何も言ってきてないし、クラスの他の人にも何も来てない。なのに伊藤ちゃんにだけ来てる。やっぱ修平、伊藤ちゃんのことめっちゃ好きなんだろうな。だけど藤木が、


 一人にしかLINEできないくらい具合悪いのか?


 と言ったので、クラスの空気は沈んだ。河合先生や平岸家の人、所長にも聞いてみたけど、誰も修平からの連絡をもらっていなかった。だから、詳しいことは何もわからない。

 本当にもう戻ってこないのか?

 そもそも何の病気?新道が『内臓がうまく働いていない』とか前に言っていたような気がする。なんか、重そうだ。

 学校の空気が暗かったので、気晴らしに研究所に行った。所長の話だと、結城さんはいつもどおり朝6時の迷惑ピアノで所長を叩き起こした後、『出かける』と言って車でどっか行ったらしい。


 今日、橋本がヨギナミの家に行ったんだけど、


 所長が言った。


 あさみさんのベッドを見ながらぼんやりしてるから、『何考えてるの』って聞いたら『あさみと話してた』って言い出したから、ショックでボケたのかと思って心配になったよ。しかも、死後の世界について話していたって言うんだ。

 僕ちょっと怖くなってさ、

 早く帰ろうって言ったんだよね。


 幽霊でもショックでボケたりするんだろうか。でも、ボケとか認知症って、体の器官が衰えるから起こる事象では?幽霊達ってほんとにどうなってるんだろう。

 奈々子は、今日も出てこない。

 いなくなってくれたんならそれでいいけど、たぶん違う。まだいるような感じがする。でもあのトッカータ以来、出てきていない。

 満足したのかな。

 するよな。あんな愛し方されたら。

 

 愛って何ですかねえ。


 うっかりつぶやいたら、所長がコーヒーカップを持ったまま固まった。


 それは僕も知りたいよ。

 

 と所長は言った。


 何か深入りされそうだなと思ったので、慌てて『考える快楽』の話をした。人は貧しい人に『勤勉』だとか『清らか』だとか『酒を飲まずに真面目に働く』だとか、都合のいいイメージや道徳観を押し付けがちだけど、実際の貧困の人はそんなに清く正しくはいられない。生きるためには盗みもするし売春もする。そうしないと食べるものが手に入らなかったら、人はそうする。『道徳的であれ』と言うだけでは、貧困や犯罪の解決にはならない。

 イメージ、イメージ。

 世の中が貧しい人や弱者に『真面目』であることや『節約』『忍耐』をひたすら求めるのは、自分がそういう人を助けるのがめんどくさい、つまり関わりたくないからで、結局『支援が必要な人がいる』というこの世の現実から逃避して、『勝手にイメージした道徳』という幻想に逃避しているだけなのだ。それでは何も解決しない。

 ──みたいなこと(本の受け売り)を私は偉そうに語ってから、ふと、『所長の気持ちから逃げ続けるのは良くないのではないか』と思った。なので、


 所長の私に対する気持ちは嬉しいし、

 今までいろいろお世話になって、ありがたい気持ちはあるんだけど、

 私はその想いには答えられないんです。


 と勢いで言ってしまった。所長は、

 

 わかってる。そのことは気にしなくていい。


 とだけ言って、いつもの優しい笑い方をした。私はそれを見てマリリン・モンローのスマイルと、いつかどこかで読んだ『痛めつけられた子供の笑顔』の説明を思い出した。小さい頃に虐待された子供が、とてもかわいらしい笑い方をするようになることがある、というものだ。

 なんだか悲しくなってきた。本人はたぶん意識してないけど、小さい頃の体験は今も所長の人生に影響を及ぼしている。

 でも今は、所長は前向きに生きようとしている。今日、ウクレレを始めようかなとか話していた。ギターをやりたかったけど手が小さくて無理だそうだ。ウクレレなら大丈夫だろうと言っていた。音楽好きだもんな、所長。

 かま猫がまたいなかったので裏の割れ目に行ったら、そこにいた。快適な部屋よりボロいひび割れが好きなのだ。呼んでも出てこなかった。

 帰り草原を歩きながら、私はこれからどうすべきか考えた。あのトッカータみたいな愛を探す?それは難しそうだ。人生を文章にする?それなら昔からやってきたし今もやってる。不完全だけど。

 そういえば私今日は文章の勉強をしようと思っていたのに、気がついたら全然別なことに走って、結局研究所でコーヒー飲んで猫を探してた。

 何やってんだろう。

 でも人生ってこういうものなんだろうな。何かやろうとしたら全然違う方向に脱線して、そこからまた別の道が出てきたりするの。





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