2017.9.23 土曜日 サキの日記
結城さんのトッカータが完成した。
朝、LINEで『トッカータが完成したから、奈々子を連れてきてほしい』と連絡があった。研究所へ向かう道の途中で、奈々子と入れ替わった。期待が大きくて、出てこずにいられなかったようだ。奈々子は浮足立った足取りで林の道を歩き、真っ直ぐに結城さんの部屋に行った。
ピアノの前に椅子が置いてあった。1階からわざわざ運んできたもののようだった。結城さんは椅子を手で示して座れと合図し、奈々子はゆっくりとそこに座って、ピアノに向かっている結城さんの方を真っ直ぐに向いた。
そして、あの曲が始まった。
ラヴェル、『クープランの墓』トッカータ。
特徴的な連続音。最初は控えめに、それから、情熱的に駆け上がっていく。まるで燃え上がる男女のよう。あるいは、流転する運命のように、その音は流れていった。募る想いのように上がっていき、心臓の鼓動のように早くなったかと思うと、穏やかで切ないメロディに変わり、そしてまた駆け上がり、絶頂を迎え、急激に落ちていく。
その後に低く流れ、また切ない音が続いたかと思うと、駆け引きのようなリズムと、心の乱れを示すような上がり下がり。
これはまるで、
恋愛そのもの。いや、違う。
疑いや不安までもその流れに包み込む、
優しく激しい愛撫。
なんて強烈な愛し方。まるでセックスだ。
音は一気に頂点に駆け上がり、大きな城が崩壊するかのようになだれ落ちていく。
そして、華麗なるフィナーレ。
突然崩れ落ちるように終わる。
奈々子は曲の間、身じろぎ一つしなかった。でも、駈け上がっては落ち、を繰り返しすこの音、人生の波をそのままぶつけてきたような音を聴いて、何も感じないはずがない。
曲が終わり、部屋から全ての音が消えた。
人生も、愛も、それに伴う混乱や悲しみも、すべて消え失せてしまった。
奈々子はしばらく、黙って座ったまま結城さんを見ていた。いや、目からは涙があふれていた。私の涙、私の体が出している涙。でも、泣いているのは奈々子だった。
奈々子はゆっくりと立ち上がると、後ろから結城さんに抱きついた。そして、
ありがとう。
涙声で言った。それでわかった。
結城さんは、トッカータを見つけたのだ。
あの幻のトッカータを。
奈々子も、それを認めたのだ。
もういい。もういいの。
奈々子が泣きじゃくりながら言った。
あなたはもう、この曲からも、
私からも開放されて、
あなた自身の人生を生きて。
そして、一度ぎゅっと結城さんを抱きしめると、手の甲で涙をぬぐいながら部屋を出ていった。そして、階段を降り、1階に戻ってきた所で、体を私に返した。
自分に戻ってからも、奈々子が流し始めた涙はなかなか止まらなかった。1階のソファーで、所長は私が泣き止むのを待ってくれた。
あれはほとんど、セックスでしたよ。
私は言った。そうだ、このトッカータは、奈々子に触れられない結城さんが編み出した愛撫なのだ。いくら奈々子が好きでも、私の体を犯すわけにはいかない。なら、奈々子の心を愛撫して、愛しぬく方法。それがこのトッカータなのだ。何度も駆け上がり、絶頂を迎えながら落ちていく。愛の極み、混乱、悲しみ、憎しみまでも全て飲み込んでいく人生の波。
私はセックスの体験ないけど、わかる。
愛の強さが。
この愛が私に向けられたものだったらよかったのに。でもそうじゃない。結城さんはこんなにも熱烈に奈々子を愛していたのだ。長い年月を費やして、既にこの世にいない女に愛を届ける方法を見出すほど。
かなわない。
私は思った。少しでも『もしかしたら私のこと好きになってくれるかも』なんて思った自分が恥ずかしい。こんなにも確かなものが見えなかったなんて。
愛のトッカータを受けたのは奈々子だけど、その時使っていたのは私の体なので、愛された後の高揚感みたいなのが残っていた。
でもこれは、私のものじゃない。
私も、いつか、奈々子くらい愛されてみたいです。
少し落ち着いた頃、コーヒーを持ってきてくれた所長に、私は言った。
いつか、そういう人が見つかるよ。
所長は今日、それしかしゃべらなかった。どこかの遊び人と違って真面目なので──あるいは、今日の私の状態がおかしいことがわかって気を遣ってくれたのか──余計なことは何も言わなかった。
でも、『僕がいるよ』くらい言ってくれてもよかったのに、と思う私はわがままなんだろうか。
結城さんは今日、あの曲だけで、その後ピアノを弾かなかった。1階にも降りてこない。一人で何を考えているんだろう?トッカータをとうとう完成させたから、達成感に酔っているとか?それとも奈々子のことを想って物思いに沈んでいるとか?
そんな結城さんを見たくなかったので、帰ることにした。所長は何かあったら電話していいよと言ってくれた。しなかったけど。
まだ暑いけど、草原の風はどこか秋めいて少し冷たく、先程の熱を別な感覚に置き換えてくれた。秋倉にもうすぐ冬が来る。秋は短くてほとんどないに等しい。
秋倉最後の冬がやってくる。
このタイミングで、何かが終わった。
おそらく、結城さんの抱えていた何か、奈々子が求めていた何かが、終わった。
奈々子、これで満足した?
私は空中に向かって呼びかけた。
返事はなかった。
気配もしなかった。
奈々子?
私はもう一回呼んでみた。出てこない。風が吹いて草原の草を揺らし、ざあっという音をたてた。
それが、何かの合図のようだった。
消えたの?
返事なし。部屋に戻ってから黒猫のつえを構えて『出てこい!』って散々叫んだけど、奈々子は出てこなかった。
隣の修平がもういないから、いくら騒いでも誰も『うるせー!』とか『どうしたの』とか言ってくれない。
なんか、静かすぎて怖くなってきた。
平岸家に行き、夕食を待っているあかねに今日起きた話をしたら、
曲でセックス!いいわねそれ!
次のネタに使うわ!
余計な妄想を刺激してしまった。頼むから真面目に聞いてくれと念を押してたら、ヨギナミが豚しゃぶ用の鍋とかポン酢を運んできたので、引き止めて同じ話を聞かせた。
よくわからないけど、二人は本当に愛し合っていたんだね。
切ないね。もう亡くなってだいぶ経つのに、結城さんは忘れてなかったんだ。所長さんに近づいたのも奈々子さんが関わってたからだよね。
人の縁って不思議だね。
どこでどうつながっているかわからない。
ヨギナミは言った。そしてあかねは、
あんたもこれで諦めがついたでしょ?
他のいい男探したら?勇気とよりを戻すとか。
と言ったので、それは無理って言っといた。
夕食を食べて部屋に戻ってからも、私の頭はトッカータで──つまり、結城さん流の愛撫で──いっぱいだった。私にはあれは、刺激が強すぎた。どんなポルノよりも強烈、いや、あんな汚いものと一緒にしたくない。だって、これほど清い愛が他にあるだろうか。
指一本触れずに、絶頂にのぼっていった愛。
全てを巻き込んで流し去っていく音楽。
私がこれから別な人と恋愛をしたとして、こんな究極の体験する機会がまた来るだろうか?
いや、来ないと思う。
私は愛の極限を見てしまった。
それくらい、結城さんが完成させたトッカータはすごかったのだ。なのに、私にそれを正しく文章にする語彙力も文章力もない。自分で書いた曲の説明を何度読んでも、何度書き直しても納得できない。どうしたらあの究極を文章にできるのか。それともこれは『言葉では表せない』類いのものなのか?
やっぱり私は、自分の身に起きたことを一つ残らず文章にして記録したいのだ。今日起きたことは特に重要で──人生を揺るがすほどすごかったのに、何度書き直しても納得のいく文章にならなかった。夜11時頃までがんばってみたけどダメだった。きっとこの分野の経験が足りないせいだと思う。悪かったな!恋愛経験ほとんどなくて!
私は、体験したことの1%も表現できてない。
ダメだ。もっと文章力を磨かないと。
来週図書室に行って文章の本借りてこよう。
奈々子出てこないの気になるけど、きっと今日愛されすぎて疲れたんだろう。そういうことにしておこう。
私も疲れるほど愛されてみたいものだ。
そう思うのはいやらしいこと?そうでもないよね?




