2017.9.14 木曜日 平岸家→研究所
橋本は、あさみの写真の前で手を合わせ、目を閉じていた。その様子を、平岸洋子が近くに座って見守っていた。そして、惜しいと思っていた。
あさみが生きていたら、まだこの人と幸せに過ごせたかもしれないのに。たとえ幽霊だったとしても。
橋本は祈りを捧げた後、洋子には何も話さず、静かに礼をして平岸家を出た。今にも雨が降り出しそうな暗い雲の下で、体は久方創に返された。久方はそのまま林の道を通り抜け、建物の裏に回り、畑を眺めた。
この畑とも、今年でお別れだ。
かつて、全く希望のない人生で、唯一の慰めだった植物達。自分がどんなに迷おうと、自分を失おうと、手入れさえすればそれに答えて成長し、力づけたり慰めたりしてくれた作物や花達。
今だって、希望があるわけじゃないけど。
久方は地面にしゃがみ、土の様子を探りながら思った。
でも僕には、帰る所がある。持っている人もいる。
週末に両親が来る。あのまともな二人が、ここでの暮らしを見てどう思うだろうか。何を言われてもよさそうなものだが、やはり『こんな所に住んでいたのか』などと嘆かれたくはなかった。
久方は建物を掃除することにした。いつか奈良のとっつぁんに指摘された壁のひび割れを、家具や雑誌の切り抜き、メモで隠した。あの時直してもらうんだったと少し後悔しながら。
町の人とは、もっと仲良くすべきだったんだろうな。
橋本じゃなくて、僕が。
そうも思っていた。人を嫌って、せっかく気のよい人達がいたのに知り合うのが遅れたことを、久方は悔やんでいた。
町の人のことを知ることができたのは、早紀のおかげだ。
あの子がここに迷い込んで来なければ、他のあらゆることも起きなかっただろう。自分は迷ったままだったかもしれない。いや、もしかしたら、消えてしまっていたかもしれない。
僕にとってサキ君は大切な人だ。
でも、サキ君が好きなのは結城だ。
上の階からは音階練習のような単調な音が聴こえる。今日は木曜日だ。保坂がピアノを習いに来る。早紀も来てくれるといいが。
早紀は、少し遅れてやってきた。結城と保坂は、二人でカフェに出かけてしまっていた。今日は練習をせずに音楽について話し合いたいらしい。
やっぱり私、避けられてますよね?
早紀がコーヒーを飲みながらぼやいた。
そうだね。
結城が『自分を抑えられそうにない』と言っていたことは早紀には言わないことにした(そんなことを伝えたら何が起きるか、想像するだけで恐ろしい)。
早紀が『もうすぐ試験なんですよ』と学校のことを話すのを、久方は適当に相づちを打ちながら聞いていた。本当は結城とこういう話をしたいのだろうなと思いながら。
外から雨の音がし始めた。久方は窓の外に目をやり、すぐ戻した。
所長。
早紀が不意に真っ直ぐな目で言った。
雨の日に散歩しなくなったの、いつからですか?
どこかさみしそうな様子だった。
前は、雨の日にも喜んで外に出ていって、靴が汚れるのも気にせずにいろんなものを見てましたよね?葉っぱにとまる雨粒とか、カタツムリとか。
そうだね。
でも今年はそういうの、ほとんどなかったですよね?
それって私のせいですか?
サキ君のせいじゃないよ。
他にいろいろ考えることがあったから。
自分は変わった。前ほど無条件に何もかもを受け止めることはなくなった。もちろん今でも自然は愛おしい。しかし、早紀の言うとおりだ。最近は、雨の日は外に出るよりは家の中にいたい。本を読み、考え、内省して過ごしたい。
たぶん、それも、自分ができてきたからだと思う。
久方は言った。上手く説明する自信がなかったので早紀には長くは話さなかった。早紀は猫達と遊んでから、
結城さんに、
少しは私にかまえって伝えてください。
と言い残して帰っていった。
自分は、たぶん、早紀を内面に取り込みすぎていた、と久方は思った。それも、自分というものがなかったからだ。実際、一時期、思っていたではないか。
『サキ君は僕自身だから』
と。今思うと恥ずかしい発言だ。でも当時は本当にそう思っていたのだ。
でも今は、違う。
早紀は変わらずに大切な存在だが、自分自身ではない。
久方はその違いを思いながら、雨の音に耳を傾けた。それから、久しぶりにピアノ以外の音楽を聴きたいと思い、昔フィンランドの友達にもらった『Oi dai』をかけた。歌詞の意味はまるでわからなかったが、精神の底を突くような声。
一回だけ聴いて、すぐ止めた。そして、いつものカウンターに座って雨の音に集中した。
今度こそ、この雨は、過去の全てを洗い流してくれそうだと思った。ここ数年の迷いの全て、自分に対して持っていた疑念の全てを。




