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早紀と所長の二年半  作者: 水島素良
2017年9月

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2017.9.7 木曜日 研究所


 小さい頃の自分が、どこかの街を歩いている。

 外を歩けるのが嬉しくて足取りも軽い。

 振り返ると、お母さんが優しく微笑んでいた。

 それはあの人、つまり初島だったのだが、いつもの狂気は微塵もなく、普通の母親のような表情をしていた。

 子供はお母さんに駆け寄ると、手を引っ張って、また先を走り出した。そうすれば、お母さんも走って追いかけて来てくれると知っているからだ。

 親子二人は、楽しそうに進んでいく──






 目を覚ました後しばらく、久方は、自分が見たものが信じられずにいた。

 いくら夢とはいえ、あの人が普通に優しい母親をやっているなんて。これはきっと、自分の脳が勝手に作り出した幻想だ。本当に起きるはずがない。しかし、神戸の母ならともかく、なぜあの人の夢を見なければいけないのだろう?

 久方は複雑な気持ちで起き上がった。


 外は曇りで、時々雲の合間から青空が見える。空気が少しずつ秋に近づいているとはいえ、まだ夏の名残もある。

 ヒマワリの種を収穫するのも、今年が最後だ。

 ここを離れるのはやはりさみしい。まだ先の話だが、来年の夏はもうここにはいない。それはもう決まっている。畑を作りながら暮らすのは性に合っていた。できれば一生続けたいくらいだった。しかし、今はもっと大事なことがあるのがわかっている。

 人との絆、神戸の家族だ。

 畑を見て回り、建物に戻ると、2階からはリストの『ゴンドラをこぐ女』が聴こえてきた。今日はリストの、比較的優しい曲調のものばかり弾いている。結城らしくない。あいつでも優しい気持ちになることがあるのか──と考えると、少々気味が悪い。

 音は気にしないことにして、パソコンに向かい、もうじきなくなることになっている仕事をし、Facebookを見て、駒がチェロの曲について書いている記事にコメントした。それから、秋倉が一番それらしくなる秋の風景について書いた。


 ここの自然から離れるのは、辛いだろうな。


 久方は思った。初めて来て、その途方もない広がりに驚かされてから、ここの自然は久方を魅了し続け、今やその一部になってしまっていた。ここと離れる時にはきっと、自分の一部を無くしたような気分になるだろう。


 ダメだな、まだ半年あるのに。

 去る時のことばかり考えては。


 久方はそう思い直し、今日という日に意識を戻すことにした。今日は木曜日なので、保坂が来る。つまり、午後もピアノは鳴りっぱなしだろう。

 どこかに出かけた方がいいかもしれない。山は最近クマが出て、猟友会が徘徊しているからダメだ。カフェも行きたくないし、まりえにも会いたくない。一緒に栗山町へ行った時は楽しかったが、やはり子供扱いされているような気がした。

 自分を人として対等に扱ってくれる女性には、もう出会えないのだろうか。

 そう考えてゆううつになったが、とりあえずたまっている本を読んで忘れることにした。




 3時頃、保坂と一緒に早紀がやってきた。

 保坂はすぐ2階に行って結城とピアノを弾き始めた。早紀は、かま猫がいないことに気づいて『一緒に探しに行きましょう』と言った。久方は一緒に裏の割れ目を見に行ったが、そこにかま猫はいなかった。


 またアジサイの所かもしれません。行きましょう。


 早紀が言ったのでついていった。アジサイは色褪せ始めていたが、夏の盛りとは違う成熟した風情を備えていた。使い古された家の壁のようでもあるし、昔の人が使っていた衣服のようでもある。

 久方はアジサイの色に夢中になってしまい、早紀がかま猫を探さずに、自分をじっと見ていることに気がつかなかった。


 所長。


 しばらく経ってから、早紀が声をかけた。


 私、わからないことがあるんです。


 何?


 恋と友情って、両立しますか?


 わからない。よく、仲のいい夫婦は友達のようになるって言うけどね。


 久方は歩き出した。なんとなく早紀と目を合わせたくなかった。


 相手が自分のことを好きになってくれなくても、

 友情って持てるものですか?


 早紀がさらに聞いてきた。


 さあ、よくわからない。どうしてそんなこと聞くの?


 久方は尋ねたが、早紀はそれには答えずに、


 かま猫、いませんねぇ。どこ行ったんだろ?


 葉の裏を探り始めた。久方はそれ以上聞かないことにして、アジサイと早紀を交互に観察していた。



 かま猫は2階の廊下の一番奥にいた。そこのすみっこがお気に入りの場所らしく、洗濯ばさみやティッシュ、魚の骨、捕まえた虫の死骸などが集められていた。


 全然気づかなかった!毎日2階にいたのに!


 久方は驚いた。


 奥まで行くこと、あまりないですよね。

 ここ広すぎるし。


 早紀が言った。せっかくかま猫を見つけたのに、虫が嫌で近づけないようだ。


 よく知ってるつもりでも、わからないことってあるんだな。


 久方はつぶやきながら1階に戻った。そこでは、結城と保坂がコーラを飲んでいた。二人も、かま猫が2階にいることには気づかなかったという。

 結城が『昔は札幌でもネズミとかヘビとか出てたんだって。俺見たことあるもん』と、本当かどうかわからない話をするのを、早紀はじっと聞いていた。久方はそれを見ているのが辛かったので、そっとその場を離れ、キッチンにコーヒーをいれに行った。


 恋と友情って、両立しますか?


 早紀が先程言っていたことを思い出した。

 確かに、辛い。相手が他の人に夢中の場合は。

 でも、それでも、そばにいられるだけマシなのだ。たとえ自分の方を見てくれなくても、ここに来てくれる、会えるというだけで、ずっとマシなのだ。それに今日は平日だ。ほんとなら来ない日だ。

 早紀は何をしに来たのだろう?

 

 結城に会いたいだけなんだろうな。


 そう思いながら部屋に戻ると、結城と保坂が誰だかわからない作曲家のコード進行の話をしていて、早紀はソファーに移動して、気だるい様子でシュネーを撫でていた。

『何か食べる?』と聞くと、


 所長は優しすぎますよ。


 早紀が、シュネーを見たままつぶやいた。


 誰でも家に入れちゃうんですから。

 保坂もまりえさんも、ヨギナミも佐加も。


 佐加は入れてないよ!勝手に来るだけ!

 僕の意志では断じて入れてない!


 久方は強く言った。すると早紀は笑って、


 なんで佐加の時だけムキになるんですか?

 本当は好きみたいじゃないですか。


 と言った。すると結城まで、


 ああいう強い子に遊ばれた方が、

 お前も強くなれるんじゃない?ウヒヒ。


 意地悪な笑い方をした。保坂が『いや、佐加はヤバいっすよ』と言うのと同時に、久方は走って2階の自分の部屋に逃げていった。

 早紀にからかわれている。それはわかる。

 しかし、どうしていいかわからない。

 早紀は何を考えているのだろう?今日の様子は少し変だ。何か悩んでいるのだろうか、自分が悩ませてしまっただろうか。やはり年上のおじさんに好かれるのは迷惑だろうか。

 久方は部屋で一人、もんもんと悩み続けた。








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