2017.9.3 日曜日 研究所
今日はサキ君が来るなあ。
どうせ結城のことしか見てないだろうけど。
朝、久方はいつものカウンターでぼんやりと外を見ていた。今日はどんよりと曇っていて、雨の予報だ。気温もぐっと低い。
なぜか早紀は、ここ数日毎日ここに来る。目当ては結城だったとしても、それは良いことだった。早紀に会う時間を増やしたい久方にとっては。
もう9月になってしまった。
来年の3月には神戸に帰る。
早紀に会えるのも、あと少しの時間だけだ。その時間を大事にしたい。余計なもめ事は起こしたくない。ただでさえ早紀は、受験と、結城への想いの伝わらなさに悩んでいるのだから。
見守って支えてやるのが自分の仕事だ。
久方はそう自分に言い聞かせていた。
早紀は10時頃やってきた。
今日は佐加もヨギナミも来れないんです。
だから、所長が奈々子と結城さんを見張っててくれませんか?
早紀がそう言ったので、久方は一緒に2階へ行った。今日の早紀はどこか元気がなさそうで、結城を見てもあまり嬉しそうな顔をしなかった。
いつものルーティンのように発声練習が始まった。しかし、早紀はあまり声を出さなかった。音も外していたし、声に勢いがなかった。やる気がなさそうなのを結城に注意されると、
結城さんは──なんにもわかってないっ!
と叫んで、廊下へ飛び出して行ってしまった。久方が慌てて探しに行くと、バスルームでうずくまって泣いていた。
わかってますよ。何を言ったって無駄なのは。
早紀は泣きながら言った。
でも辛いんです。今日は歌のレッスンは無理です。
早紀は動かずに泣き続けていた。久方は2階へ戻り、結城に『今日は奈々子さんは出てこないよ』と言ってから、1階に戻って早紀を部屋のソファーまで連れていき、キッチンに行って麦茶をいれて運んだ。
所長。
麦茶を一口飲んでから、早紀が言った。
私のこと、好きですよね?
久方は何と答えていいかわからなかった。
好きですよね?
早紀は再び尋ねた。念を押すように。
だけど、それは、サキ君が気にする必要はないよ。
久方はやっとのことでそう答えた。
気にしますよ!
サキがうなるように言った。
自分のことが好きな人がいたら、気になります。当たり前じゃないですか!なのに結城さんは私のことなんか全然気にしてない!
サキがまた泣き出した。
ああ、やっぱり話は結城か。
と久方は思いつつ、早紀が落ち着くまで『いかに結城が自分のことを軽く扱っているか』『いかに奈々子がうらやましいか』という話を延々と聞いてあげ、昼にはツナのパスタを作ってあげた。結城がまたいなくなったので、早紀が2人分食べた。
所長。
落ち込んだ様子ながらも泣くのはやめた早紀が、こう言った。
私、2年前の夏に戻りたいです。
切実な響きがあった。
ここに来たばかりで、所長と散歩してるだけで楽しくて、結城さんのことも幽霊のことも知らなかった頃に帰りたいです。
僕もあの頃が懐かしいと思うこと、あるよ。
久方は言った。
でも、時間は戻らない。
言いたくなかったが、それが現実だ。
そうですよね。
早紀もつぶやいた。
すみません。取り乱して泣いたりして。
いいよ。僕もその気持ちはよくわかるから。
私、所長を苦しめてます?
早紀が尋ねた。
そんなことはない。
いつでも、来てくれると嬉しいよ。
前も言ったけど、僕は3月に帰るから、
それまでの時間は大事にしたい。
それを聞いた早紀はしばらく動きを止めた後、
そっか。
初めて気づいたかのようにつぶやいた。
所長も、結城さんも、いつかいなくなっちゃうんですね。
そして立ち上がり、
帰って勉強します。おじゃましました。
急に他人行儀な態度でおじぎをしたかと思うと、早紀は出ていってしまった。
やっぱり僕のことが嫌なんだろうか?
久方はそう思いつつ、腹立ちまぎれに結城に『どこ行ったの?』『サキ君ともっとちゃんと接してあげろよ。かわいそうじゃないか!』と文句を送りまくった。すると、
あんな若くてかわいい子に全力で泣きつかれたら、
理性を保てる自信がない。
という返事が返ってきたので、ぞっとした。
まずい。
しばらく歌のレッスンはやめてもらった方がいいかもしれない。しかしそれに早紀が、奈々子さんが納得するだろうか。
サキ君に知られずに奈々子さんと話す方法は──
考えたあげく、久方は高谷修平に相談した。
先生に伝えてもらえばいいですよ。夜中に幽霊同士で話し合ってるって言ってましたから。
と返事が来たので、任せることにした。奈々子さんは早紀のことを心配しているはずだから、きっと事情をわかってくれるだろう。
久方はその後も落ち着かず、むやみに猫達にかまって嫌がられ、ポット君に早紀のことを愚痴って悲しい顔を表示されたりした。自分の部屋で古典文学に読みふけろうとして、でも先程の早紀の様子が頭から離れず、雨の音にはますます感傷的になり、
僕はもうダメだ。苦しい。
と思いながらベッドに倒れた。
自然の音だけが響く部屋で天井を見つめていると、赤い髪の男が顔をのぞき込んできた。何も言葉を発さず、ただじっと久方を見ている。
橋本さ。
久方がつぶやいた。
根岸って子のこと、好きだったよね?
たぶんな。
橋本が答えた。
でも、それより俺が心配なのは、
今のお前があの頃の俺にそっくりだってことだよ。
久方はびっくりして起き上がった。それはどういうことだ?
他人の世話ばっかしてねえで、自分の幸せを考えろ。
橋本はそう言って消えた。あとには久方と、雨の音だけが残された。
僕は今、絶望に引き込まれそうになっていたのかな。
久方がそう思っていると、スマホが鳴った。
さっきは変な態度取ってごめんなさい。
と早紀が言ってきていた。
別に気にしてない。
と答えると、
少しは気にしてください。
所長は優しすぎます。
と返ってきた。
なんだかよくわからないが、早紀が少しは自分のことを考えてくれるのは嬉しい。しかし同時に、悲しいような気もする。
久方は外に出ることにした。
雨の中を散歩したら、少しは気が晴れるかもしれない。それに、北海道は9月を過ぎるとあっという間に冬が来る。今のうちに緑の自然を見ておかなくては──。




