2017.8.31 木曜日 研究所
2階から聴いたことのない現代風の曲が聞こえる。これは保坂だ。つまり今日は木曜日なのだ。
久方創はカウンターに座って窓の外を見ていた。雲が多いが、晴れている。気温はそんなに高くない。外に出ようか。それともここで早紀が来るのを待つか。
いや、来るわけがない。
なぜか嫌われてしまっている。待っていても無駄だ。
しかし、動く気になれない。
去年の夏は、出会った一昨年の夏は、素晴らしかった。自分は『別人』のことで混乱していたけど、あの頃は、早紀は自分だけのものだった。いや、そんなことは思い込みにすぎない。早紀は元々、誰のものでもない。
自分はきっと、夏が来るたびに、
あの頃のことを思い出すんだろうなあ。
思い出だけを胸に生きていくんだろうなあ。
また窓の外ばかり見てるな。
声がした。隣に橋本が立っていて、うすく笑っていた。
俺も昔、ビルの窓から外を眺めてたよ。
うん、知ってる。夢で見た。
久方は言いながら外に目を戻した。雲間の空が青い。
その時、俺が何を考えてたかわかるか?
他の家の明かりを見ていた。
わかってるんだな。
お前はよその家をうらやましがってた。
久方は窓の外を見たまま言った。
あの明かりの中に自分の居場所はない。そう感じていた。
そうだな。
でも、あさみとヨギナミが入れてくれたんだよ。
あの明かりの中に。
久方が橋本を見ると、今まで見たことがないくらい穏やかに微笑んでいた。人生に満足した人間でなければできない表情だ、と久方は思った。
お前を通して、俺は生き直した。
大切なことはもうわかった。
だからもういいんだ。
窓ばかり見てないで外に出ろよ。人に会え。
橋本はそう言って消えた。ちょうどいいタイミングでスマホが鳴った。
土曜日は私が車を出しますね。
本堂まりえからだった。そういえば、一緒に出かける約束をしていたような気がする。よく覚えていなかったが、「楽しみにしています」と返事をした。
大切なことはもうわかった。
それはどういうことだろう?やはり人とのつながりだろうか。家族だろうか。あさみとヨギナミは、橋本にとってはもう家族のようなものだろうし。
2階からはまだよくわからない種類の音楽が聞こえる。保坂がパソコンを持ってきていたので、電子音も混じっているように聞こえる。
久方は外に出ることにした。
雲は多いが、その分、空に表情がある。複雑な形の雲が速い速度で動いている。その隙間から青空と太陽がこちらを見ている。
畑を見て回った。明日はもう9月だ。季節はあっという間に過ぎる。ここで野菜を収穫するのも今年が最後だ。
雑草を取ったり、おおよその作業を終えてから、久方は道の端に座り、草木が風にそよぐのを眺めた。
平和だ。
何も起きていないが、必要なことは全て起きている。
世界とは本来こういうものなのだ。ただ、自分は、一人で思い悩むあまり、ついそこから外れてしまうだけなのだ。
落ち着いてまわりを見渡せば、戻れる。
久方はそう思うことにした。
また景色を眺めてるんですね。
いつの間にか、後ろに早紀がいた。
今日は来ないつもりだったのに、足が勝手に林の道に向かっちゃいました。
早紀は言い訳のように言いながら、久方の隣に座り、
夏、終わっちゃいますね。
とつぶやいた。
9月に入っても、しばらくは暑いと思うよ。
久方はなんとなく言ってから、
でも、それはもう夏の真ん中とは違うね。
と付け足した。
2人はその後しばらく何も話さず、並んで、草原が風でそよぐのを見ていた。どこまでも同じように見える景色も、やがて変わっていく。季節は過ぎ、何かが終わる──
2人は、時が過ぎゆく寂しさを同じように感じながら、何も言葉にできずに、ただ、そこに存在していた。




