2017.8.27 日曜日 研究所
美しい晴れの日だ。
久方は朝から畑に出て、自然を存分に味わっていた。実は朝早くに窓からハチが中に入ってきてしまい、2階にとどまったまま未だに出ていってくれていない。久方は放置することにした。そのうち結城が見つけて大騒ぎしてくれるだろう。
畑の様子をひととおり見て水をまき、雑草を抜いて午前を過ごした。
日差しはあるが、気温は控えめで過ごしやすい。外を歩くためにあるような日だ。こんなさわやかで気持ちのいい時に、部屋にこもってピアノを弾いている奴の気が知れない。
畑にいると建物の方からかすかにピアノの音がする。もう少し離れようと思い、久方は畑を出て、草原を歩き始めた。
緑が、どこまでも続いている。
青空も、果てしなく高い。
これは本当に現実なのだろうか。自分で勝手に作り上げた『北海道』のイメージなのではないか。目の前の景色があまりに完璧すぎて、自分の感覚を疑いたくなるほどだ。
しかし、風がある。
草や土の感触がする。
これは本当の世界なのだ。
久方は草の上に座り、草原と空とを交互に見た。
そこには何もなかった。
だが、全てがあった。
余計なものは何もない。ただ世界がありのまま存在している。
それは、誰も手が下せないほどの絶対的な存在感だ。
奪えるものもないし、加える必要もない。
久方は何も考えずに、そこにじっと座っていた。
自分の存在すら忘れた。
何もかもどうでもよくなった。
この空と草原以外、何が必要だというのだろう?
この安らぎ以外に、何を求めろというのだろう?
ああ、そうだった。
久方はゆっくりと草の上に倒れた。
これ以上大事なものはない。
そして、空が目の前に広がり、全てを包み込むのを感じた。風はまだ心地よく吹いている。視界の隅で草が揺れる。こんなことをしていたらアリが体をはってくるかもしれない。服だって汚れるだろう。しかし、久方は何も気にしていなかった。
僕は、この大地から生まれたんだ。
久方は今、そのことに気づいた。体の芯から。
だから、戻ってきてしまったのかもしれない。
空からは太陽の熱が、背中の土からはうごめく何かが、自分の体に何かを伝えたがっているような気がした。それは、親だとか親戚だとか、そんなものよりももっと遠く深いもの──もっと核心的なものとの繫がりを感じさせた。人の存在を、精神を、魂を支えてきた何か。なのに、人々が忘れ去ろうとしている何か──自然への畏敬に近いものを。
どんなパワースポットよりも、
どんな神社仏閣よりも、
この大地は神聖で、力を持っているものなのだ。
久方は長いこと、草の上に横たわっていた。
すると、
所長。
いつの間にか、早紀が近くに立って、久方を見下ろしていた。
何をしてるんですか?
自然と一つになってたんだ。
久方は言った。
いや、そんなものじゃないな。
上手く説明できない。
すると、早紀が隣に来て、久方の隣に寝そべった。
そして、目を閉じた。
彼女なりに、久方が感じたことをつかもうとしているのだ。
久方はそれが嬉しかった。しばし、目を閉じている早紀の横顔に見とれた後、自分も同じように目を閉じた。
地球の鼓動を感じた。
いや、これは自分の脈拍だろうか。
自分にも心があり、心臓があり、血が流れている。
それを教えてくれたのは、いつだって早紀だった。
ああ。
久方は心のなかでつぶやいた。
僕は、今日のことを、一生忘れないだろうな。
風が、強い風が、辺りの草を揺らし、ざあっという音を立てた。2人はそれでも目を閉じたままだった。2人の姿も、意識も、辺りの景色と一体となり、そこには何も存在していないかのようだった。
しかし、そこには、
全てが存在していた。
短いようで、永遠に記憶に残るであろう時間が──
私、わかりました。
早紀が言葉を発した。久方は目を開けた。早紀は空を見ていた。
今まで起きたことなんて、この景色の中では、
ないも同じですね。
どうしてあんなつまんないことで悩んでたんだろう?
それは、ひとりごとのようでもあり、問いかけのようでもあった。
でも、また戻ってきちゃった。元の迷う世界に。
そうだね、僕も戻ってきた。
久方が起き上がろうかどうか迷っていると、
キャアアアアアアアアアアアアア!!!!!
遠くから、かすかに、何かの叫び声がした。
今、悲鳴が聞こえたような──
早紀が言った。
え?そう?全然。
久方はうきうきしながら起き上がった。きっと結城がハチに遭遇したに違いないと思いながら。
研究所に行くと、一階の部屋の床に、結城が倒れていた。
結城さん!?
早紀が慌てて駆け寄ってゆさぶった。
大丈夫ですか?起きてください!
久方は、近くにハチの死骸が落ちているのを見つけた。見た所、刺してはいない。おそらく叩き落されたのだろう。
大丈夫だよ。刺されてはいない。
じゃ何で倒れてるんですか?
早紀が困っていると、結城がうめき声を上げながら目を覚ました。かと思うと、
ハチが!ハチがアアアアアアアア!!
と叫びながら飛び上がって廊下に走っていったので、早紀は驚いて床に尻餅をついた。
病的に虫が大嫌いなんだ。
久方はずっとニヤニヤしていた。モテ男が慌てふためくのを見るのは気分がいい。
今日歌の練習やめた方がいいですかね?
たぶん無理だろうね。これから窓を締め切って殺虫剤をまいて、床にモップをかけまくってポット君と戦闘態勢に入るから。
えぇ〜……
早紀は顔をしかめた。久方は『これがきっかけで結城に幻滅してくれないかなあ』と思いながら、
カフェに行かない?
と誘った。
松井カフェには元カレはいなかった。代わりに、杉浦と藤木がいて、2人で佐加の困った言動について話し合っていた。久方もそれに加わり、あのうるさいのはどうにかならないのかとか、いやあれがあいつのいい所ですよとか、いろいろ話した。早紀は松井マスターに町の人の噂話を聞いて、
所長、また町の噂になってるらしいですよ。
と言った。
今度は何?
『まりえさんとできてる説』と、
『実はゲイで結城さんとカップル説』
えっ?
久方は困り、杉浦と藤木は爆笑した。
それは絶対平岸が言いふらしたやつだろ?
藤木が言った。
まずいことになりましたね。こうなったら、まりえさんと一緒にいる所を町の人に見せつけて、ゲイ説を払拭したらどうかな?
杉浦が言った。
何言ってるの。
まりえさんと僕はそんな関係じゃないよ。
久方は慌てて言ったが、
いや、だから、協力してもらうんですよ。
町の人の妄想を消すために。
早紀が言って、
まりえさんを呼んできます。
と、店を出ていってしまった。久方は『やめて!』と叫んだが、数分後に、おそらく作業中だったのだろう、エプロン姿のまりえが早紀と一緒に来てしまった。
噂の話は聞きましたよ。ウフフフフ。
まりえが笑った。その笑い方が平岸あかねにそっくりだったので、久方はぞっとした。
お互い付き合う気がないのはわかってますけど、
友達として仲良くなりたいとは思ってたんです。
今度、一緒に札幌か小樽にでも行きませんか?
車は私が出しますから。
杉浦と藤木が「おぉ〜!」と言い、早紀が嬉しそうに手を叩いた。松井マスターまで、
いいじゃない。私も行きたいわあ。
などと言い出した。
なんでこうなるんだ──
久方は信じられない気持ちでいたが、断る言葉を発することができなかった。さっきまで完璧な自然の世界にいたのに、帰ってきたとたんこれだ。
久方は自分に落ち込みながら、無言でやたらにコーヒーをすすった。早紀達はそれに構わず、スマホで観光情報を調べて盛り上がっていた。




